2012年3月25日日曜日
すべてはキンバリーの思い出につながる道・・・
先日,久しぶりにJamaica に行ってきました。といっても,カリブ海にあるあのJamaicaではなく,狸小路5丁目にあるジャズ喫茶・バーのことです。今はなくなった札幌東映の地下にあった頃,高校3年だった頃に初めて行ってから,もう35年くらい通っていることになる,札幌のいや日本でも屈指の歴史を誇るジャズの店です。JBLパラゴンがこのJamaicaほど素晴らしい音で鳴っているところはないのではないかと思います。20年少し前に今の場所に移ってからも,美味しいお酒を飲みながら聴くジャズは格別で,
毎日のように行っていたものです。
キンバリーの病気治癒祈願で酒を完全にやめて4年になり,もはや酒を飲みたいという気持ちは深い井戸の中に沈めてしまってからは,Jamaicaに行く回数はぐっと減りましたが,コーヒーやノンアルコールビールでジャズを聴きにたまに行っています。
キンバリーとも何度も行ったことがあります。初めて出逢った1995年の4月8日からニューヨークに旅立った22日までの間にも,彼女を連れて行きました。そのとき,店にあったノートの切れ端に書いてくれた,
いわば初めてのラヴレターが,今も大切な宝としてしまってあります。
娘の彩が生まれてからは,まだ生後数カ月の彩も一緒に行って,ジャズの洗礼を受けさせました(笑)
そんなJamaicaに先日行ったとき,長年つきあいのある常連さんが来ていました。
彼がウェイトレスの女性と話をしているのが聴こえてきました。
「最後の晩餐になったとき,何を食べたい?」という,よくある他愛のない会話でした。
その会話が耳に入ったとき,キンバリーが人生最後に口にしたアイスクリームのこと,2010年6月11日の夜8時過ぎに昔から行っていたベン・アンド・ジェリーのアイスクリーム店で,車イスを自分で動かしながら選んでいたキンバリー,携帯に写真が一枚だけ残っている,キンバリーと彩と妹スーがアイスクリームのスプーンを持って,ポーズを取っている姿,その帰り,近くの美容室から偶然出てて来た知り合いの美容師とハグをして笑顔を交わしていたキンバリー・・・あの日のことが頭のなかいっぱいに広がって来て,涙がこぼれそうになりました。その翌日の朝,もうキンバリーの目は開きませんでした・・・あれが最後に口にするものになるとは夢にも思っていませんでした,僕もキンバリーも彩も・・・・
街を歩いていて目にした風景,友達との会話の中に出てきた店の名前・・・ちょっとしたことから,忘れていたキンバリーとの思い出が鮮やかに浮かんできてしまい,うろたえるということが本当にしょっちゅう起きています。
そして,その思い出の主人公がもういないという厳然たる事実に打ちのめされるのです。
ドメニコ・スカルラッティ/ピアノソナタ イーヴォ・ポゴレリチ(p ) を聴きながら
毎日のように行っていたものです。
キンバリーの病気治癒祈願で酒を完全にやめて4年になり,もはや酒を飲みたいという気持ちは深い井戸の中に沈めてしまってからは,Jamaicaに行く回数はぐっと減りましたが,コーヒーやノンアルコールビールでジャズを聴きにたまに行っています。
キンバリーとも何度も行ったことがあります。初めて出逢った1995年の4月8日からニューヨークに旅立った22日までの間にも,彼女を連れて行きました。そのとき,店にあったノートの切れ端に書いてくれた,
いわば初めてのラヴレターが,今も大切な宝としてしまってあります。
娘の彩が生まれてからは,まだ生後数カ月の彩も一緒に行って,ジャズの洗礼を受けさせました(笑)
そんなJamaicaに先日行ったとき,長年つきあいのある常連さんが来ていました。
彼がウェイトレスの女性と話をしているのが聴こえてきました。
「最後の晩餐になったとき,何を食べたい?」という,よくある他愛のない会話でした。
その会話が耳に入ったとき,キンバリーが人生最後に口にしたアイスクリームのこと,2010年6月11日の夜8時過ぎに昔から行っていたベン・アンド・ジェリーのアイスクリーム店で,車イスを自分で動かしながら選んでいたキンバリー,携帯に写真が一枚だけ残っている,キンバリーと彩と妹スーがアイスクリームのスプーンを持って,ポーズを取っている姿,その帰り,近くの美容室から偶然出てて来た知り合いの美容師とハグをして笑顔を交わしていたキンバリー・・・あの日のことが頭のなかいっぱいに広がって来て,涙がこぼれそうになりました。その翌日の朝,もうキンバリーの目は開きませんでした・・・あれが最後に口にするものになるとは夢にも思っていませんでした,僕もキンバリーも彩も・・・・
街を歩いていて目にした風景,友達との会話の中に出てきた店の名前・・・ちょっとしたことから,忘れていたキンバリーとの思い出が鮮やかに浮かんできてしまい,うろたえるということが本当にしょっちゅう起きています。
そして,その思い出の主人公がもういないという厳然たる事実に打ちのめされるのです。
ドメニコ・スカルラッティ/ピアノソナタ イーヴォ・ポゴレリチ(p ) を聴きながら
2012年3月12日月曜日
高峰秀子「わたしの渡世日記」
新潮文庫の上・下2巻の「わたしの渡世日記」を読み終わりました。
凄い人生を生きたんだなあ・・・と読み終わってしばらくぼんやりとした感覚でした。
1924(大正13)年函館生まれの彼女がこれを書いたのは昭和50年のことで,そのときまでのことしか触れられていないわけですが,その後の彼女の生き方に触れることができるような文章を読みたいと思います。
一本のきっちりとした筋が通った人生を貫いた人だと思います。
スター女優だったから可能だったのでしょうが,谷崎潤一郎・梅原龍三郎など錚々たる人たちとの交流のエピソードも豊富で,黒澤明が助監督時代の恋愛など,興味の尽きない話題もたくさんで,珍しく?わりと一気読みに近い形で読み終わりました。
印象に残ったところを一つだけ。
敗戦直後,現在の東京宝塚劇場はアメリカ進駐軍専用の娯楽施設として接収され,「アーニー・
パイル」と呼ばれていた。アーニー・パイルはアメリカ軍属の新聞記者で,沖縄に上陸し,彼我の大
激戦の最中に戦死した。どこのだれが東宝劇場を「アーニー・パイル」と命名したかは知らないけれ
ど,沖縄で死んだアーニー・パイルの話を日系のアメリカ人から聞いたとき,私はふっとアメリカ人
の中にある,優しさ,率直さをみたような気がした。日本には人の名前のついた劇場などひとつもな
い。
ここを読んだとき,僕は彼女のものの見方・人の見方は絶対に信用できると思いました。
こういう感性を持った人が好きです。彼女のいうとおりだと思います。
一人一人の人間に向けた暖かい眼差しを持っているアメリカ人と,えてして,世間とかそういう個人を埋没させるものにむしろ気をつかってしまう日本人との違いを,彼女はこんなことからも見抜いたのだと思います。
彼女の唯一の小津安二郎監督作品「宗方姉妹」を小津安二郎監督全集で探したけどないので,おかしいなと思っていたら,この映画は小津監督の殆どの作品を撮った松竹ではなく,新東宝で撮影したものなので入っていないのでした。アマゾンで購入しました。
生前にもっと彼女のことに関心を持っていたかったと思っています。
ボブ・ディラン フリー・ホイーリングを聴きながら
凄い人生を生きたんだなあ・・・と読み終わってしばらくぼんやりとした感覚でした。
1924(大正13)年函館生まれの彼女がこれを書いたのは昭和50年のことで,そのときまでのことしか触れられていないわけですが,その後の彼女の生き方に触れることができるような文章を読みたいと思います。
一本のきっちりとした筋が通った人生を貫いた人だと思います。
スター女優だったから可能だったのでしょうが,谷崎潤一郎・梅原龍三郎など錚々たる人たちとの交流のエピソードも豊富で,黒澤明が助監督時代の恋愛など,興味の尽きない話題もたくさんで,珍しく?わりと一気読みに近い形で読み終わりました。
印象に残ったところを一つだけ。
敗戦直後,現在の東京宝塚劇場はアメリカ進駐軍専用の娯楽施設として接収され,「アーニー・
パイル」と呼ばれていた。アーニー・パイルはアメリカ軍属の新聞記者で,沖縄に上陸し,彼我の大
激戦の最中に戦死した。どこのだれが東宝劇場を「アーニー・パイル」と命名したかは知らないけれ
ど,沖縄で死んだアーニー・パイルの話を日系のアメリカ人から聞いたとき,私はふっとアメリカ人
の中にある,優しさ,率直さをみたような気がした。日本には人の名前のついた劇場などひとつもな
い。
ここを読んだとき,僕は彼女のものの見方・人の見方は絶対に信用できると思いました。
こういう感性を持った人が好きです。彼女のいうとおりだと思います。
一人一人の人間に向けた暖かい眼差しを持っているアメリカ人と,えてして,世間とかそういう個人を埋没させるものにむしろ気をつかってしまう日本人との違いを,彼女はこんなことからも見抜いたのだと思います。
彼女の唯一の小津安二郎監督作品「宗方姉妹」を小津安二郎監督全集で探したけどないので,おかしいなと思っていたら,この映画は小津監督の殆どの作品を撮った松竹ではなく,新東宝で撮影したものなので入っていないのでした。アマゾンで購入しました。
生前にもっと彼女のことに関心を持っていたかったと思っています。
ボブ・ディラン フリー・ホイーリングを聴きながら
2012年3月7日水曜日
シンディ・ローパー
アメリカの歌手,シンディ・ローパーが来日して,東北大震災の被災地を訪問して子どもたちと交流して,歌を歌っている姿をニュースで見ました。去年の3月11日,丁度来日中だった彼女は,アメリカ政府の避難勧告(?)に従わず,予定通りコンサートをやった,それは被災地の人々に勇気を与えたいいと思ったから・・・とマスコミの報道が本当に正確なものかどうかはともかく,彼女が日本を愛していて,自分のできる形で未来への希望を与えたいと思っていることは本当だと思いました。
彼女は僕とキンバリーにとっても,忘れることのできない存在です。
1996年1月20日にアメリカコネチカット州のキンバリーの実家近くの大きなコテッジのようなホテルで結婚式とパーティをしたあと,5月には札幌での披露宴をしました。京王プラザホテル札幌で。立食形式にして400人以上の人が来てくれました。
キンバリーは日本髪のかつらで着物姿,僕は羽織袴でした。
入場と退場の音楽は僕が決めました。どちらも演奏は大好きなマイルス・デイビス。
入場はマイケル・ジャクソンのヒューマンネイチャー。
そして退場に使ったのが,シンディ・ローパーのTIME AFTER TIME でした。
入場したときキンバリーの姿を見た人たちかからどよめきのような声があがり,キンバリーはお付きの人に言われたとおりにしずしずという感じで歩いていました。
アメリカからキンバリーの両親・弟夫婦・妹も来て,とても楽しい時間でした。
そして,彼女が亡くなった2010年の4月5日,家族で行った最後のカラオケでキンバリーがこの曲を歌ったのです。その姿がアイフォンのビデオに入っていて,彼女の歌声を聴くことができます。カラオケの画面にはニューヨークのダコタハウス(ジョンレノンの住んでいたところで,そこで80年に射殺されてしまいました)やセントラルパークのイマジンの碑などが写っています。
シンディの名前を聴くと,TIME AFTER TIMEを聴くと,キンバリーとの思い出がいつも甦ってきます。
もう彼女の歌声を聞くことがないのだと思うと,たまらなく悲しくなります・・・
彼女は僕とキンバリーにとっても,忘れることのできない存在です。
1996年1月20日にアメリカコネチカット州のキンバリーの実家近くの大きなコテッジのようなホテルで結婚式とパーティをしたあと,5月には札幌での披露宴をしました。京王プラザホテル札幌で。立食形式にして400人以上の人が来てくれました。
キンバリーは日本髪のかつらで着物姿,僕は羽織袴でした。
入場と退場の音楽は僕が決めました。どちらも演奏は大好きなマイルス・デイビス。
入場はマイケル・ジャクソンのヒューマンネイチャー。
そして退場に使ったのが,シンディ・ローパーのTIME AFTER TIME でした。
入場したときキンバリーの姿を見た人たちかからどよめきのような声があがり,キンバリーはお付きの人に言われたとおりにしずしずという感じで歩いていました。
アメリカからキンバリーの両親・弟夫婦・妹も来て,とても楽しい時間でした。
そして,彼女が亡くなった2010年の4月5日,家族で行った最後のカラオケでキンバリーがこの曲を歌ったのです。その姿がアイフォンのビデオに入っていて,彼女の歌声を聴くことができます。カラオケの画面にはニューヨークのダコタハウス(ジョンレノンの住んでいたところで,そこで80年に射殺されてしまいました)やセントラルパークのイマジンの碑などが写っています。
シンディの名前を聴くと,TIME AFTER TIMEを聴くと,キンバリーとの思い出がいつも甦ってきます。
もう彼女の歌声を聞くことがないのだと思うと,たまらなく悲しくなります・・・
2012年2月28日火曜日
理解できないこと(再び)
今年来た年賀状のことです。札幌のある弁護士からの年賀状に手書きで彼の息子さんが学校でどうしているとかそんな近況を書いてありました。僕には理解できないことでした。
この弁護士とはかなり長い面識があり,ある集団訴訟の弁護団で一緒に活動したこともあり,まあそれなりに親しい関係だったと思っています。亡妻とも会ったことがあります。
理解できないのは,この弁護士からは,妻の生前も亡くなった後も,全くなんのことばをかけられたこともなかったからです。そういう状況でありながら,手書きで子どもの近況を書いて来るということが,正直理解できませんでした。
そういう弁護士はたくさんいます。前にも書きましたが,同期の弁護士に限らず,それなりに交流のあった関係で,全く何のことばもないのがたくさんいます。
弁護士会というのは強制加入団体で,弁護士会に所属しないと弁護士としての活動ができないので,札幌でやる以上,所属していなければならないのですが,正直,所属しないで済むのならどんなにいいかと思っています。
同期の弁護士の奥さんたちも理解できない人たちです。亡妻と深い交流はありませんでしたが,一緒に旅行したこともあります。彼女たちからも生前もその後も誰一人としてことばをかけてくれた人はいません。理解できません。
東北大震災のあとに盛んに使われた「絆」ということば。どこにそんなものがあるのか知りません。
これ以上書くのはやめます。
今夜はちょっと精神的にまずいかも。
ではまた。
この弁護士とはかなり長い面識があり,ある集団訴訟の弁護団で一緒に活動したこともあり,まあそれなりに親しい関係だったと思っています。亡妻とも会ったことがあります。
理解できないのは,この弁護士からは,妻の生前も亡くなった後も,全くなんのことばをかけられたこともなかったからです。そういう状況でありながら,手書きで子どもの近況を書いて来るということが,正直理解できませんでした。
そういう弁護士はたくさんいます。前にも書きましたが,同期の弁護士に限らず,それなりに交流のあった関係で,全く何のことばもないのがたくさんいます。
弁護士会というのは強制加入団体で,弁護士会に所属しないと弁護士としての活動ができないので,札幌でやる以上,所属していなければならないのですが,正直,所属しないで済むのならどんなにいいかと思っています。
同期の弁護士の奥さんたちも理解できない人たちです。亡妻と深い交流はありませんでしたが,一緒に旅行したこともあります。彼女たちからも生前もその後も誰一人としてことばをかけてくれた人はいません。理解できません。
東北大震災のあとに盛んに使われた「絆」ということば。どこにそんなものがあるのか知りません。
これ以上書くのはやめます。
今夜はちょっと精神的にまずいかも。
ではまた。
2012年2月23日木曜日
ボブ・ディランの頭の中~日本語の響き
去年の12月16日のブログに,由紀さおりのことを書きました。日本語のままで歌う彼女の歌にアメリカ人が感動しているということですが,その理由として,外国人の歌手には彼女のようなソフトでメロウな唄い方の人があまりいないこと,そして,日本語の響きが外国人の耳にはとても優しく響くので,それがいわばヒーリング効果を持っているということが言われていたように記憶しています。
日本人には,日本語が外国人にどんな風に聴こえているのかということはなかなか分かりませんよね。僕はフランス語を少し勉強していますが,フランス語はなんだかボソボソと囁くように聴こえ,何となく哲学っぽいような響きを感じます。たまに話をする友人に,ちょっとフランス語で言ってみると,必ず「くすぐったくなる」と言われます。僕の発音のせいかもしれませんが,傾向としてはそんな感じだと思います。これに対してドイツ語は「角張った響き」というか,力強いというかちょっと乱暴なというか,そんな響きを感じることがあります(ドイツ人の方ごめんなさい)。イタリア語は,スペイン語は,ロシア語は,中国語は・・・とそれぞれのことばにはそれぞれの響きがあって,それを聴いた他の言語を母国語としている人に与える印象はそれぞれ違っていて,ことばって面白いなあ・・・と思います。
こんなことを書くのは,最近の洋楽(これって今の時代はとっても古くさい言い方かもしれませんが)の中で,日本語がそのまま使われていることが多くなっているような気がするからです。
ちょっと前に買った,MY CHEMICAL ROMANCE というアメリカのバンドのDANGER DAYSというCDを聴いていたら,8曲目の中に突然女性の日本語が入って来てしばらく歌というより何かセリフを言っているという感じが続いたあと,何事もなかったように英語の歌に戻るというのがあって,最近,こんな風にいきなり日本語が入ってくる曲が洋楽の中に多いなあと思ったのでした。
思い出すのが,ニューヨークのW HOUSTON St.にあるAngelika Film Centerで観た,ボブ・ディランの映画「MASKED and ANONYMOUS」(邦題 「ボブ・ディランの頭の中」)という映画です。
いつか書いたことのあるニューヨークの大停電のあった2003年8月に観たのですが,冒頭にいきなり真心ブラザーズのMy Back Pages が流れて来て,びっくりしました。そのときは真心ブラザーズのことは全く知らなかったので,ただ日本語の歌がそのまま使われていることに驚いたのですが,監督はどういう意図でこの曲を使ったのか,詳しい人がいたら教えてほしいものです。
と,ここまで書いて止まっていたら,先日,NHKのクローズアップ現代で由紀さおりの海外でのヒットの分析のような番組をやっていました。日本語で詩を書いているアメリカ人のアーサー・ビナードがゲストで出ていたけど,アンカーの國谷さんとちょっと噛み合っていないように感じました。國谷さんは日本語の音としての響きを外国人がどう感じるのかという視点から訊きたかったのに, アーサーはことばの向こう側にある意味は普遍的なものがあってそれが伝わるんだということを言っていて,
僕の印象では國谷さんはちょっとやりづらかったように見えました。
これも書いたことがあったと思いますが,キンバリーはボストンの大学で,ロシア語を勉強したいと思っていたのが,その年度にはロシア語クラスがなくて,日本語にしたのでした。「ロシア語の響きがとても感情がこもっていてカッコイイ,素敵だと思った。」と言っていました。
じゃあ日本語はキンバリーにどんな風に聴こえていたのか・・・聞きそびれていたことに気がつきました・・・
意識のなくなる前日の6 月11日,キンバリーは「たけし,死ぬのはなんにも恐くないよ。何も後悔していないよ。」と言っていました。日本語でした。彼女は日本語を愛していたと信じています。
日本人には,日本語が外国人にどんな風に聴こえているのかということはなかなか分かりませんよね。僕はフランス語を少し勉強していますが,フランス語はなんだかボソボソと囁くように聴こえ,何となく哲学っぽいような響きを感じます。たまに話をする友人に,ちょっとフランス語で言ってみると,必ず「くすぐったくなる」と言われます。僕の発音のせいかもしれませんが,傾向としてはそんな感じだと思います。これに対してドイツ語は「角張った響き」というか,力強いというかちょっと乱暴なというか,そんな響きを感じることがあります(ドイツ人の方ごめんなさい)。イタリア語は,スペイン語は,ロシア語は,中国語は・・・とそれぞれのことばにはそれぞれの響きがあって,それを聴いた他の言語を母国語としている人に与える印象はそれぞれ違っていて,ことばって面白いなあ・・・と思います。
こんなことを書くのは,最近の洋楽(これって今の時代はとっても古くさい言い方かもしれませんが)の中で,日本語がそのまま使われていることが多くなっているような気がするからです。
ちょっと前に買った,MY CHEMICAL ROMANCE というアメリカのバンドのDANGER DAYSというCDを聴いていたら,8曲目の中に突然女性の日本語が入って来てしばらく歌というより何かセリフを言っているという感じが続いたあと,何事もなかったように英語の歌に戻るというのがあって,最近,こんな風にいきなり日本語が入ってくる曲が洋楽の中に多いなあと思ったのでした。
思い出すのが,ニューヨークのW HOUSTON St.にあるAngelika Film Centerで観た,ボブ・ディランの映画「MASKED and ANONYMOUS」(邦題 「ボブ・ディランの頭の中」)という映画です。
いつか書いたことのあるニューヨークの大停電のあった2003年8月に観たのですが,冒頭にいきなり真心ブラザーズのMy Back Pages が流れて来て,びっくりしました。そのときは真心ブラザーズのことは全く知らなかったので,ただ日本語の歌がそのまま使われていることに驚いたのですが,監督はどういう意図でこの曲を使ったのか,詳しい人がいたら教えてほしいものです。
と,ここまで書いて止まっていたら,先日,NHKのクローズアップ現代で由紀さおりの海外でのヒットの分析のような番組をやっていました。日本語で詩を書いているアメリカ人のアーサー・ビナードがゲストで出ていたけど,アンカーの國谷さんとちょっと噛み合っていないように感じました。國谷さんは日本語の音としての響きを外国人がどう感じるのかという視点から訊きたかったのに, アーサーはことばの向こう側にある意味は普遍的なものがあってそれが伝わるんだということを言っていて,
僕の印象では國谷さんはちょっとやりづらかったように見えました。
これも書いたことがあったと思いますが,キンバリーはボストンの大学で,ロシア語を勉強したいと思っていたのが,その年度にはロシア語クラスがなくて,日本語にしたのでした。「ロシア語の響きがとても感情がこもっていてカッコイイ,素敵だと思った。」と言っていました。
じゃあ日本語はキンバリーにどんな風に聴こえていたのか・・・聞きそびれていたことに気がつきました・・・
意識のなくなる前日の6 月11日,キンバリーは「たけし,死ぬのはなんにも恐くないよ。何も後悔していないよ。」と言っていました。日本語でした。彼女は日本語を愛していたと信じています。
2012年2月16日木曜日
1970年6月16日~ルイ・アラゴン
昨夜11時過ぎ。モレスキンのノートに日記(のようなもの)を書き終わったとき,「そういえば,水曜日の夜だからNHKのフランス語講座をやってるな。ちょっと見てみようか。」ということで,テレビのスイッチを入れました。
僕はフランス語も好きで,最近はさぼり気味ですが,リンガフォンのCDを聴いたり,ラジオ講座を自動的に録音するラジオをセットしてときどき聴いたりしています。そういえば,ボヴァリー夫人を英訳を参考にしながら仏語の原書を読むという課題が挫折したままです・・・
大学の第二外国語にフランス語を選択し,1年の最後の試験をボイコットして2年のときに「落ちこぼれたち」の集められたクラスで出会った教師が素晴らしい人で,フランス語文法の基礎をかなりたたき込まれたり・・・その話はいずれまた。
テレビをつけると,おなじみの大好きな講師國枝孝弘(早稲田の法学部在学中にアテネ・フランセでフランス語を学び始めて,フランスに留学し,今は慶應の教師をやっているという人。ロック好きらしく,一度話がしたい人の一人。数年前,東京の新橋にあるジャズ喫茶に深夜行ったら,3人くらいで何だか熱っぽく話をしているのを見かけたことがあります・・・)と,これもおなじみのパトリス(面白すぎるフランス人講師)の顔が・・・
ちょうど「今月のテーマ」のところで,L'amour sans forme 愛 それぞれの形ということで,
Louis ARAGON ルイ・アラゴンのことが紹介されました。
シュルレアリスム運動の創始者の一人で,第二次世界大戦時にはレジスタンスとして活動した詩人。
かなり複雑な不幸な生い立ちで,自殺未遂をしたりしたあとで,生涯の伴侶となるエルザ・トリオレと出逢います。1928年のこと。パリの南西にある小さな町,サンタルヌーアンイヴリンの水車小屋を改築した家に暮らし,そこでおよそ20年をともに過ごしたそうです。
そのエルザが亡くなり,その12年後にアラゴンも亡くなるのですが,エルザの亡くなったのが
1970年6 月16日なのです。 キンバリーと同じ日,キンバリーの40年前の同じ日に亡くなったのです。そして,これが感動なのですが,アラゴンは家にかかっていた日めくりのカレンダーを6月16日のままずっと自分が亡くなるまでそのままにして生き,今も当時のままで残っているのです。
彼にとって,時間はエルザが旅立ったその日で止まっていたのだと思います。
そのあとの12年間,いったいどんな思いで生きていたのか,彼の伝記などを読みたいと思っています。
Les mains d'Elsa エルザの手 はこんな詩です。
Donne-moi tes mains pour l'inquietude.
Donne-moi tes mains
dont j'ai tant reve.
Dont j'ai tant reve dans ma solitude.
不安な僕に君の手をさしのべておくれ。
僕があんなにも夢見た,
孤独の中であんなにも夢見た君の手をさしのべておくれ。
ユリシーズの1904年6月16日とともに, エルザが亡くなったこの日も,僕にとっての特別な日として残ることでしょう。
今日はキンバリーの月命日。
彼女がいないということが,まだどうしても納得できません・・・
2年前のあの日から,僕の時間も止まっているような気がします・・・
マリアンヌ・フェイスフルのクルト・ワイルを聴きながら
僕はフランス語も好きで,最近はさぼり気味ですが,リンガフォンのCDを聴いたり,ラジオ講座を自動的に録音するラジオをセットしてときどき聴いたりしています。そういえば,ボヴァリー夫人を英訳を参考にしながら仏語の原書を読むという課題が挫折したままです・・・
大学の第二外国語にフランス語を選択し,1年の最後の試験をボイコットして2年のときに「落ちこぼれたち」の集められたクラスで出会った教師が素晴らしい人で,フランス語文法の基礎をかなりたたき込まれたり・・・その話はいずれまた。
テレビをつけると,おなじみの大好きな講師國枝孝弘(早稲田の法学部在学中にアテネ・フランセでフランス語を学び始めて,フランスに留学し,今は慶應の教師をやっているという人。ロック好きらしく,一度話がしたい人の一人。数年前,東京の新橋にあるジャズ喫茶に深夜行ったら,3人くらいで何だか熱っぽく話をしているのを見かけたことがあります・・・)と,これもおなじみのパトリス(面白すぎるフランス人講師)の顔が・・・
ちょうど「今月のテーマ」のところで,L'amour sans forme 愛 それぞれの形ということで,
Louis ARAGON ルイ・アラゴンのことが紹介されました。
シュルレアリスム運動の創始者の一人で,第二次世界大戦時にはレジスタンスとして活動した詩人。
かなり複雑な不幸な生い立ちで,自殺未遂をしたりしたあとで,生涯の伴侶となるエルザ・トリオレと出逢います。1928年のこと。パリの南西にある小さな町,サンタルヌーアンイヴリンの水車小屋を改築した家に暮らし,そこでおよそ20年をともに過ごしたそうです。
そのエルザが亡くなり,その12年後にアラゴンも亡くなるのですが,エルザの亡くなったのが
1970年6 月16日なのです。 キンバリーと同じ日,キンバリーの40年前の同じ日に亡くなったのです。そして,これが感動なのですが,アラゴンは家にかかっていた日めくりのカレンダーを6月16日のままずっと自分が亡くなるまでそのままにして生き,今も当時のままで残っているのです。
彼にとって,時間はエルザが旅立ったその日で止まっていたのだと思います。
そのあとの12年間,いったいどんな思いで生きていたのか,彼の伝記などを読みたいと思っています。
Les mains d'Elsa エルザの手 はこんな詩です。
Donne-moi tes mains pour l'inquietude.
Donne-moi tes mains
dont j'ai tant reve.
Dont j'ai tant reve dans ma solitude.
不安な僕に君の手をさしのべておくれ。
僕があんなにも夢見た,
孤独の中であんなにも夢見た君の手をさしのべておくれ。
ユリシーズの1904年6月16日とともに, エルザが亡くなったこの日も,僕にとっての特別な日として残ることでしょう。
今日はキンバリーの月命日。
彼女がいないということが,まだどうしても納得できません・・・
2年前のあの日から,僕の時間も止まっているような気がします・・・
マリアンヌ・フェイスフルのクルト・ワイルを聴きながら
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