2011年3月29日火曜日

By the time I get to Phoenix その2

前回のブログでこの曲名がどういう関係で出てきたのかちょっと不明でしたね。
たまたまこの曲が聴きたくなり,探してみたら,グレン・キャンベルのベストCDが見つかり,聴いてみたのでした。そして,長年,この歌の歌詞について全く勘違いをしていたことに気がつきました。

この歌は,フェニックスにいる恋人に逢いに行こうとしている男性の気持ちを歌っているものとばかり思っていました。ところが,この曲は,恋人と別れることを決心した男性の歌で,恋人のいる町から車げオクラホマに向かうまでのことを歌っていて,彼がフェニックスに着く頃に彼女が起き出して,「僕は君と別れて町を離れるよ。」というメモを見つけ,今までも何度もそんなことがあったので彼女は信じないだろうななどと思いながら車を走らせ,アルバカーキ,オクラホマへと彼女から離れていくことを描いているのでした。恋人にもう少しで逢えると想って,喜びに浸っているものとばかり思っていたのですが,全く逆でした。

この曲の邦題は「恋はフェニックス」になっています。全く歌詞の内容に合っていません。昔はこんなことがよくあったのは知っていましたが,これほど違うとは...

妻は大学時代,親友のリサと二人で,車でアメリカ横断旅行をしました。出発の朝,大きなバックパックを背負った妻の写真が残っています。リサはアンディと結婚してニューヨークに住んでいます。95年6月に妻に逢いにニューヨークに行ったとき,グリニッジヴィレッジ9丁目のリサのマンションに泊まりました。それ以来,毎年,コネチカットの実家に行くときの行き帰りには,リサのところに泊まって,楽しい時間を持っていました。2008年1月4日の乳ガン手術のとき,マンハッタンから車で5時間以上かけて,手術が行われたメリーランド州フレデリックの妻の弟のところまで来てくれました。妻が亡くなった後も,ニューヨークではリサのところに泊まっています。娘と同じ年の長女ディランとその妹のエラ。みんなでブロードウェイにミュージカルに行ったり,マサチューセッツ州タングルウッドの夏の音楽祭に一緒に行ったり,たくさんの思い出があります。

マイルス ESPを聴きながら

2011年3月23日水曜日

By the time I get to Phoenix

今朝は6時頃目が覚めました。すぐベッドを出る気になれず,ベッドのすぐ脇にある本棚に並ぶ本の背表紙を何となく眺めていました(地震が来たら,本に埋まって助からないよと娘に言われています。)。
一冊の本が目に止まり,手にとってみました。「シェークスピア&カンパニー書店の優しき日々」ジェレミー・マーサー著でした。読みかけのまま,他の本に浮気して,いつの間にか本棚に戻されていた本でした。本を開こうとしたら中に挟まっていた写真が5枚ほど落ちてきました。去年の5月31日に自宅のこのベッドの上に私の弟家族や友人たち総勢12名が乗って,妻と一緒に撮った写真でした。アメリカに向けて出発したのが6月1日。入院先から荷造りのために外出許可をもらって,自宅に帰っていた妻と,家の片づけなどを手伝いに来てくれた家族友人たちとの,旅立ち前のちょっと興奮した雰囲気の漂う,思い返すと,楽しい時間だったように思います。28日に乳ガンが脳に転移していることが分かり,余命2週間~2,3ヶ月と医者に言われていたとは思えない,笑顔の妻が写っています。

いつ買った本なのかなと思って,裏表紙を見ました。買った書店名と日付を裏表紙に書くのが,大学時代からの習慣です。去年の5月16日にJRタワーにある三省堂書店で買ったことが分かりました。記憶がよみがえってきました。去年買って,時々書いていた5年日記の5月16日を見てみました。
その日はニッコーホテルで妻とブランチを食べた日でした。二人で行って,ヨーグルトやフルーツを食べていた彼女のことを思い出しました。日記には「胃(吐き気),頭痛。歩けないので,レストラン前のベンチにKimを残して,三省堂へ」と書いてありました。歩くのがしんどいので,書店まで行けないというので,一人で三省堂に行って,この本を買ったのでした。その日がちょうど亡くなる1ヶ月前であることに気がつきました。そのときは,脳転移も1ヶ月後に逝ってしまうなどとは夢にも思っていませんでした。書店から戻って来て,ベンチの彼女が僕を見て立ち上がったときの姿が目に浮かびます。

娘が, 「お母さんが死んでしまうなんて,最期まで信じていなかった。まだ,本当に死んだなんて受け入れられない」と言って泣くようになっています。亡くなるまでのアメリカでの2週間の日々のことを思い出すようです。

東北の地震であっという間に愛する家族・友人などを亡くした人たちのことを思うと,涙が出ます。
妻は私の目の前で息を引き取りました。それは,間違いのない事実です。でも,まだそれが本当のことなのか信じられない気持ちが残っています。愛する人の死を受け入れるということは,本当に簡単なことではありません。被災者の方々がどんなに悲しい想いをしているか,テレビでその様子を見ながら,彼女がいないのだということを思い知らされています。

By the time I get to Phoenix   by  Glen Campbell   を聴きながら

2011年3月10日木曜日

マイルス・デイビス~バースデイライヴ

妻のことで,とても羨ましいと思っていることがあります。僕は音楽全般が大好きで,ロック・クラシック・ジャズなど何でも聴くのですが,その中で別格の存在はビートルズ・ベートーベンそしてジャズトランペットのマイルス・デイビスです。マイルスには公式盤の他にいわゆる海賊版といわれるものが大量にあり,僕は,中山康樹著「マイルスを聴け!Version8」(双葉社)に紹介されている562枚のうち,560枚を持っているくらい大好きなジャズミュージシャンです。

マイルスは,1965年12月22日,シカゴのPLUGGED NICKELというライブハウスでウェイン・ショ-タ-,ハービー・ハンコック,ロン・カーター,トニー・ウィリアムスと演奏していて,それがアルバムになって発売されています。この日は,妻の誕生日。マイルスは彼女のために,そのバースデイプレゼントとしてすばらしい演奏をシカゴで繰り広げてくれたのです。あのマイルスが誕生日に演奏してくれたなんて,何と羨ましいことかと,妻に言ったことがあります。彼女はあんまり乗ってくれませんでしたが・・・

ちなみに,僕の誕生日は1956(昭和31)年7月11日(セブンイレブンと覚えてください(笑))ですが,残念ながら,その日にマイルスが演奏したかどうかは分かりません。他の年の7月11日の演奏はあるのですが。

去年の12月22日に,妻のバースデイパーティをしたのですが,終わって帰宅してから,一人で(その頃は娘はまだアメリカにいて,僕一人の生活でした)プラグドニッケルのライヴを聴きました。マイルスがシカゴで演奏しているとき,そこから飛行機で5時間ほど離れたコネチカット州ウェストハートフォードの病院の産まれたばかりの妻のことを想像しながら聴きました。妻の母親から何度も聞かされています。「キンバリーはその病院で産まれた赤ちゃんの中で一番可愛い子で,たくさんの人が見に集まってきたの」 
キンバリーと出会って結婚した頃,実家にある古い写真アルバムを見ました。小さい頃からの妻の写真がたくさんありました。僕が言うのもあれですが,信じられないくらい可愛くて素敵でした・・・

去年の今頃は,脳に転移していることも知らず,頭痛を何とかしたいと,友人に紹介された漢方薬局に一緒に行っていました。とても親身に対応してくれる薬剤師の方と話しをして,薬をもらって,帰りに近くのスーパーに寄って帰ってきたりしていました。いろいろなことが思い出されます。彼女の不在はあまりにも大きくて,まだまだ時間が必要です。

マイルス プラグドニッケルライヴを聴きながら

2011年3月2日水曜日

残酷な運命です

先日,妻の友人と知人の二人の方がお参りに来てくれました。
二人とは2009年10月にYさんを偲ぶ会でご一緒しました。妻も一緒でした。
Yさんはその年の6 月,パリで亡くなっていました。41歳という若さでした。肝臓ガンだったとのことです。フランス人男性と結婚してパリで暮らしていました。

Yさんは,僕と妻の出会いを「演出」してくれた人でした。1995年4 月8日の土曜日午後3時頃,僕は初めて妻に逢いました。場所は,大通2丁目にあるミスタードーナッツの前。その日は由仁町で,帰国することになったオーストラリア人女性のためのお別れパーティが催されることになっていて,それに参加する人たちの集合場所がミスタードーナッツの前だったのです。妻はYさんと一緒に来ていました。僕は他の友人から教えられて,軽い気持ちで行ってみようかなと思っていたのでした。車を停めて降りたとき,歩道に一人で立っていたのが妻でした。目が合って,お互いビビッと来たのでした。これを言うと必ず「自惚れ~」と言われるのですが,妻は僕に一目惚れしたのでした。妻に何度もきいたのですが,本当のようでした(笑)

パーティの場所は,由仁町にある一軒家で,ちょっと変わった建物でした。数年前までは宗教施設だったということで,広い広間があって,そこでたくさんの人が踊っていました。妻と話をするようになって, 翌日になったとき,帰ろうと思った僕は,妻にもし帰るのなら車で送って行くけど・・・と勇気を出して言ってみました。妻は「友達と来ているから,ちょっと聞いてくる」と言って,その友達のところに行きました。それがYさんでした。きっと友達と残ると言うんだろうなと思って待っていると,妻は戻って来て,
 「送ってください」と言ってくれました。それから2週間後の土曜日にアメリカに帰ることになっていた妻でした。2週間後の土曜日,千歳空港まで妻を送って行きました。連絡を取り合おうね,と約束し,妻はニューヨークに飛び立ちました。その後のことは,また書く機会があるかもしれません。

そんなYさんが亡くなったことを知ったとき,妻自身も乳ガンと闘っているときでした。一旦は治ったと思っていたガンが再発してあっという間に体調が悪化したとき,ちょうどYさんのお母さんはパリに向かっていました。お母さんは,まさかYさんがそんなに悪いとは夢にも思っていなかったということです。そして,お母さんが着くのを待っていたかのように, Yさんはお母さんが到着して間もなく亡くなったということでした。

そして,ほぼその1年後の6 月に妻は旅立っていきました。

何という残酷な仕打ちかと思います。

由仁町の僕たちの出会いの場所は,今は,英国人女性で陶芸家でもあるケイトが窯を持って,週末にはカフェとして営業しています。ダンスを踊った広間は改装されてなくなってしまいましたが,ケイトの自宅部分は当時のままで残っています。家族で何度も行って,バーベキューをしたりした思い出の場所です。妻が亡くなってから,何度かケイトに逢いに行ってきました。妻の思い出,初めて一緒に踊った場所が今も残っています。
でも妻と踊ることはもうできないのですね。

ボブ・ディラン 1981/7/14 西ドイツ(当時)ライブを聴きながら