2011年7月28日木曜日

とりかえしのつかないこと

キンバリーの命日の2日ほど前(6月14日頃),岩見沢の同期の弁護士から電話がありました。
キンバリーの命日が近づいてきて,「会えないかな,岩見沢に来ることはない?」というような用件でした。断りました。
昨年,「理解できないこと」と題して,生前キンバリーと何らかの交流がありながら,一言も言葉のなかった弁護士たちのことを書きました。そのときの気持ちは今も変わっていません。キンバリーが亡くなってしまったあと,そんな人間たちと話す気にはなりません。もう取り返しはつかないのです。

数日前,裁判所のある西11丁目の地下鉄駅の階段を上がって地上に出るとき,前方に他の同期の弁護士が立っているのが見え,僕と目が合いました。僕はとっさに左方向に進路を変えて彼の存在を黙殺しました。僕の内面には,怒りとか嫌悪感とか,特段の感情はわいてきませんでした。ただただ,その彼の存在を認識する時間を極小にしたかったという感じでした。

電話の話をある友人にしました。「ブログを読んでいるはず。それでも電話して来たのはとっても勇気がいったのだと思うな。」 そうとも言えるのかもしれません。

キンバリーの妹のスーは,キンバリーの乳ガンが分かったあと,精密検査をしたところ,極小の乳ガンの腫瘍が発見され,両方の乳房切除の処置を取り,乳房再建手術をして,元気に過ごしいます。キンバリーに命を救われたと,キンバリーへの感謝の気持ちと一緒に生きています。
スーが手術をしたとき,友人たちが食事作りのチームを作り,ローテーションを組んで,スーのために家事を手伝ってくれました。自然発生的に直接は面識のなかった友人の友人も加わって,あっというまに行動を開始したのでした。
日本なら,まず「おせっかいになるんじゃないか。かえって迷惑かも」などといいながら時間だけが経過するというパターンになることが多いような気がします。
何事につけ,行動力の違いを感じさせられることの多いアメリカ人気質とでもいうべきものです。

一番の取り返しのつかないことは,もちろん,キンバリーがいなくなってしまったこと。
キンバリーの大好きだった夏が来て,彩の夏休みが始まり,明日の花火大会に友達と行くのをとても楽しみにしています。キンバリーがいないのが信じられません。
2009年の夏,アメリカからキンバリーの母親と叔母が10日くらい我が家に滞在して楽しい時間を持ちました。あとで聞いたのですが,もうキンバリーと札幌で逢えるのは最後になるだろうと思って,二人で来たのでした。みんなで,豊平川の花火を観に行きました。そのときは,キンバリーは元気に歩けて,母親の方が体調が悪くて,車イスを使っていました。その車イスは東区役所で無料で借りたものでした。そんな風に無料で借りられることに,母親たちはびっくりしていました。「日本って凄いね。」 日本にだっていいとこはある,とそのときは思いました。

最近ずっと繰り返し聴いているパットメセニーです
ラストのビートルズの AND I LOVE HER を聴きながら  

2011年7月25日月曜日

なでしこジャパン~アンガールズ田中~エグザイル

このタイトルでは何のことかさっぱり分からないと思います。先週の日曜日の夜,この順番で泣いてしまいました。

なでしこジャパン
アメリカとの決勝戦を控えて,テレビではこの話題がひっきりなしに出てきました。
アメリカに勝って,ワールドカップ初の優勝になるかどうか・・・隣にキンバリーがいたらなあ・・と思いました。アメリカ人であるキンバリーは当然ながらアメリカを応援するでしょう。僕はとりあえず日本人としてなでしこを応援。両方の国籍を持つ彩はどうするかな・・・「両方応援する」と言うのかな・・・
夜更かしの苦手なキンバリーは生中継を見ることは無理だろうけど,朝起きてきて「どうだった?」と真っ先にきいてきただろうな・・・

そんな風に,彼女とのいろんなやりとりを想像しているうちに涙がこぼれてきました。二度とそんな時間は持てないことを思い知らされて・・・


アンガールズの田中君が,高校時代に母親に冷たい態度を取ったことを,それから10年以上経ってから謝るというシーンがありました。母親もそのときのことをよく覚えていて,彼が「ごめんなさい」と言って,母親が涙ぐむというシーンでした。
彩には,将来,キンバリーにあんな風に謝ったりすることはできないんだな・・・そう思うと涙がでました。

その後,エグザイルの番組があり,杉良太郎がゲストで出ていました。エリチエミと親友だった杉氏の話があり,彼女の代表曲だった「テネシーワルツ」をエグザイルのアツシが唄いました。その歌を聴いたとたん涙がでてきました。
キンバリーの生まれた国アメリカのイメージがこの歌とともに頭のなかに溢れてきました。彼女を通じて感じ取ってきたアメリカの姿が浮かんできて,そこに彼女の思いでが重なって,とても切ない気持ちになって,大泣きしてしまいました。

こんな風に,いつどんなときに涙腺が洪水状態になるか予測がつかない日々が続いています。


PAT METHENY   WHAT’S IT ALL ABOUT  を聴きながら
  1曲目の サウンドオブサイレンスを聴いて,これも涙でした

2011年7月21日木曜日

朝の犬たちとの散歩

今朝は4時半に目が覚め,5時にベッドを抜け出して犬たちの散歩をしてきました。
昨夜は11時にベッドに入り,最近習慣になっている10~15分くらいDVDで映画を観るというお楽しみの後,プレーヤーのスイッチをオフにした次の瞬間には眠っていました。キンバリーにも寝付きの良さには感心されていましたが,映画にも催眠作用があるようで,見始めて10分くらいすると眠たくなります。従って,1本の映画を見終わるのに1週間以上かかることになります。たいていの人は,一度見始めたら最後まで観ないではいられないと言います。キンバリーも同じことを言っていまた。僕はその点全く違います。ある映画を見始めて(ベッドの中ではなく,居間でのこと)30分くらいすると,他のことをしたくなります。たいていは本を読みたくなります。DVDで1時間半から2時間の間映画を観るということに耐えられません。プレーヤーをポーズにして,何冊かの本を音楽を聴きながら読んで,しばらくしてから映画を再スタートさせる,その繰り返しです。特に,本当に面白い映画のときが細切れ頻度が高くなるという傾向があります。こんな面白い映画,一気に見てしまうなんてもったいない,と思うようです。同じ傾向の方がいたらご連絡ください。何もありませんが(笑)

朝の犬たち散歩をしていると,通りかかったアパートの開いた窓から目覚ましの音が聞こえてくることが良くあります。見知らぬ人たちの朝が始まる瞬間に立ち会っているような感じがします。
キンバリーは眠るのが大好きでした。目覚ましが鳴り続けても微動だにしないで眠っていたのを思い出します。

追伸 昨日のブログで「ユルスナールの靴」をちくま文庫としたのは間違いでした。河出文庫でした。

ピンク・フロイド  エコーズを聴きながら

2011年7月20日水曜日

須賀敦子~福永武彦~見つけたらすぐ買えの法則

手元に「須賀敦子全集」(河出書房新社)の第1巻と第2巻があります。
2009年3月28日東京神田神保町のBOHEMIAN’S GUILDという古書店で購入しました。
その日は,家族で八王子市にあるがんの代替医療を行っている病院に行くために27日に二泊三日で上京したのでした。キンバリーはできるだけ強い抗ガン剤を使わずに,身体に優しい治療をすることに決めていたので,僕が見つけたそこの院長の書いた本を頼りに,診察と相談を受けに行ったのでした。
温厚なおじいちゃん先生で(失礼),キンバリーもその先生が気に入って,何カ月後かにもう一度行ったりしました。
 

翌日の28日は浅草に行き,花屋敷で遊んで,プリクラを撮ったりして楽しい時間を過ごしました。
まだ元気だったキンバリー。素敵な笑顔が残っています。

そのあと,神田の古書街に行きたいという僕の希望をきいてくれて,3人でぶらぶらしたのでした。
この古書店でまず目についたのは,福永武彦の「草の花」の単行本の初版でした。福永武彦は大学時代に一時夢中になって読んだ作家で,懐かしさもあって買おうかと思ったのですが,ちょうど夕食の時刻で,その古書店のある通りに自然食のレストランがあったので,そこで食べてから買おうと思い,一度手にとった「草の花」を書棚に戻しました。

食事が終わり40分後くらいに戻って書棚を見ると,なくなっていました。どこを探してもありません。
「古書は,見つけたときに買え」という鉄則をすっかり忘れていました。
がっかりしながら,他の書棚で見つけたのが須賀敦子の2冊の全集でした。

最近,須賀敦子の文章に癒されています。「遠い朝の本たち」「ユルスナールの靴」(いずれもちくま文庫)を読み返しています。「ミラノ 霧の風景」を読んでいます。考え抜かれた簡潔な彼女の文章は読むだけで心地よい。そして,彼女の考え抜いたことの意味をよく味わうとさらに気持ちよくなります。彼女は最愛のイタリア人の夫を結婚後6年足らずで亡くしてしまいます。
その後の彼女の生き方に,これからの僕の人生に対する何らかのヒントのようなものがあるかもしれません。全集は全8巻です。残りの巻を,どこかの古書店で見かけたら,すぐ手にとって放さないことにします。

John Medeski  Billy Martin  Chris Wood
   Notes From The Underground  を聴きながら

2011年7月19日火曜日

フィリピンからの電話~フェイスブック

先日,自宅にフィリピンから電話がかかってきました。
2009年の約1年間,週に2回ほど自宅に来てくれて,掃除をしてくれていたフィリピン女性(まだ20代前半)からでした。その日,誰かからのメールでキンバリーが亡くなったことを初めて知って,すぐに電話をかけてくれたのでした。僕の携帯にもかけてくれたのですが,「通知不可能」のディスプレイだったので取らなかったので,自宅の方にかけたところ,僕が在宅していたので話すことができました。キンバリーの体調が思わしくないとき,彼女が来てくれたあとの我が家はまるで別の家のようにきれいに整頓されていました。もともとは,看護士の資格を取るために札幌の専門学校に通うために来日したのですが,少しでも収入が必要な彼女と我が家のニーズが合致して,来てくれることになったのでした。たどたどしい英語でキンバリーへのお悔やみと僕と彩のことを気づかう言葉をかけてくれました。本当に嬉しかった。

そして,翌日,フェイスブック宛に彼女からのメールが来ました。札幌にいる間に,どんなにキンバリーに優しくしてもらえたか,それで自分はsurviveすることができたとのメーセッージでした。キンバリーは彼女の相談相手にもなっていて,それが心の支えになったと感謝の言葉が書いてありました。1年以上もキンバリーのことを知らせることができなかったことをお詫びしました。フィリピンの連絡先が分からないので,伝えようがなかったのです。

キンバリーに逢いたいです。
先日,彩が6歳のとき,釧路湿原に行ったときのビデオを見てしまいました。ガイドに案内されて湿原を楽しそうに歩いている彼女の姿が写っていました。あの笑顔と笑い声・・・

ベートーベン ディアベリの主題による変奏曲   ポリーニ(p)を聴きながら

2011年7月15日金曜日

英語の仕事

キンバリーの両親の友人でもあり,アメリカでの結婚式にも来てくれた,コネチカットで弁護士をしているピーターからメールがきました。彼の依頼人であるアメリカの放射線測定器メーカーが日本で試作品のテストをする予定で,それに関する責任問題の発生を事前に防止する英文の法的文書をチェックしてアドバイスしてもらえないかという仕事の依頼でした。
以前にも書いたことがありますが,英語が関係する仕事が来ると,そばにキンバリーがいてくれてどんなに助かったかを痛感します。

僕の英語は,中学入学から始まった,ごく普通のスタートでしたが,ビートルズを入り口のようにして,とにかく英語が好きで,英語ばかりやっていたようなものでした。当時(40年以上前)は今のように豊富な英語教材はないので,研究者の時事英語研究という雑誌のテープを何回も聴いていました。今でも,ロバート・ミッチャムの息子であるクリス・ミッチャムとオリビア・ハッシー(布施明と結婚したのにはびっくりしましたが,「ロミオとジュリエット」での美しさには圧倒されました)の主演した映画でのセリフが頭の中で再現できるほど聞き込んだりしました。同時通訳のパイオニアである國弘正雄氏がNHKテレビで「トークショー」という30分の番組をやっていて,毎回,さまざまな分野の外国人をゲストに議論するとても内容の濃いのをテレビからカセットテープに録音して何度も聴くというのをやったりもしていました。

先日会合で会った,某大手ハウスメーカーの支店長が,「わが社でもいよいよトーイックを受験することが義務になりました。」と言っていましたが,同じような企業が相当増えているようです。

このトーイックですが,その点数で昇進に影響がでるとかということがあるようですが,果たして,そんなに重視されるべきものか少々疑問です。本当の英語が使えるかどうかはこのテストでは分からないと思うからです。
3年ほど前に僕も受けてみました。10数年前に835点を取ってやめていたので,今はどんなものか試しで受けてみたのです。910点でした。正直,あまり出来が良くないなあと思っていたので意外でした。そして,トーイックってこんなものなんだ,この点数がいいからといったってあんまり意味はないなあと思い,それ以来受験していません。もっと,本物の英語力をつけたいと思いました。
キンバリーと一緒に英語で議論することができないのがとてもとても寂しく悲しいです。

ARCTIC MONKEYS   SUCK IT AND SEE を聴きながら

2011年7月13日水曜日

55歳になりました

11日で55歳になりました。娘と二人で大通西6丁目にあるうなぎ屋さんに行って,鰻重を食べてきました。彩が「お父さんの好きなもの食べよう」と言ってくれたので,久しぶりにうなぎにしました。
この店は,昔,南3条西3丁目で海鮮の店をやっていて,家族で何度も行っていました。1996年5月に札幌で披露宴をしたのですが,アメリカからキンバリーの家族全員が来てくれて,前日にその店で食事をしたことが懐かしいです。キンバリーはアメリカ人なのに?くじらベーコンが好きで,必ず注文していました。彩が生まれてからも,ときどき行っていたのですが,鰻屋さんになってからはキンバリーは行ったことはありませんでした。
中学2年生になった彩を見て,おかみさんが「大きくなりましたね。あんなにちっちゃかったのに」と言ってくれました。キンバリーが亡くなったことを伝えると,一瞬言葉を失っていましたが,彩に「辛いでしょうけれど頑張ってね」と激励してくれました。

去年の誕生日はニューヨークにいました。キンバリーが6月16日に亡くなったあと,いつ日本に帰るかということになったのですが,誕生日はニューヨークにいたいと思いました。キンバリーと初めての僕の誕生日を過ごしたのがニューヨークなので,そのときのことを思い出していました。

キンバリーのいない誕生日は,本当に味気ないものでした。
これが今後何年も続くのかと思うと・・・

2011年7月6日水曜日

読書アンケートの勧め

政治家の言葉が政治や社会を混乱させた事例は過去枚挙にいとまがありませんが,今回の松本復興大臣の辞任劇もあきれるばかりです。

今国政に携わっている議員たちにこれまでどんな書物を読んできたのかのアンケートを取るといいと思います。それによってその人間が信頼に足るものかどうかがかなりはっきりと分かると僕は思います。

何年前か忘れましたが,最高裁判事の国民審査のための各判事の経歴等を紹介する新聞記事を覚えています。そこには各判事が関与した裁判の紹介などとともに,「愛読書は何か」という質問に対する回答が載っていました。それを見て驚きました。7~8人の国民審査の対象となる判事のうち,(記憶は正確ではありませんが)4人くらいが塩野七生 著「ローマ人の物語」を挙げていたのです。ちょうどその頃,このシリーズが話題のベストセラーになっていたのでした。
この本を読むことがいけないということは全くありません。僕も全巻持っています。
しかし,日本の司法の最高機関である最高裁判事が4人も同じベストセラー本を愛読書として挙げているということに僕は正直がっかりしました。新聞用と考えて,一般受けするような本を選んだのかもしれませんが,同じことがアメリカの最高裁判事だったらあり得ない回答だと思いました。
「古典」といわれる書物の名前が挙がることを期待する僕は古いのかもしれませんが。

誰のことだったか忘れましたが(不確かな記憶に自分でがっかりしてます),欧米の政治家がある困難な局面に立たされたとき,まずやったことが,イギリスの首相だったチャーチルの「第二次世界大戦回顧録」を書棚から取り出して読むことだったということを何かで読んだことがあります。そのエピソードに感動しました。

先日亡くなった児玉清さんが,ほとんど最後に書いた原稿の中で,大震災後の政治家たちの言動に対して「幼稚きわまりない」と痛罵していたことをテレビ番組で知りました。凄い読書家だった児玉さんですが,きっと「政治家どもはろくな本を読んでいないに違いない」と呆れ返っていることと思います。

バッハ オルガン曲集 プレストン(オルガン)を聴きながら