2011年8月31日水曜日

ニューヨーク~地震・ハリケーン(つづき)

リサたちにとって,震度5の地震の揺れは初めての体験だったので,地震慣れした我々とは比べようのない怖さを感じたと思います。
先日,テレビでマンハッタンから車で1時間くらいのところに原発があるということを知りました。
そこで放射能が漏れるような事故が起こったら,ニューヨークは恐ろしいことになるのは間違いありません。そんな近くに原発があるってこと,ニューヨーカーたちが知っているのかどうか,今度訊いてみようと思います。
昔のことですが,原発反対の立場の人たちが,電力会社が言うように,原発が絶対に安全だというのなら,東京のど真ん中に原発を建設したらどうか,と原発推進派に対して「挑発的」意見を提起したことがありました。もちろん,そんなことはできないことを電力会社側は十分に知っていたのです。

今回のニューヨークを見舞った事態から,僕たち家族が体験したことを思い出していました。
2003年8月14日に起きたニューヨークその他の大停電のことを覚えていますか?その日の夜はニューヨーク市内は停電のため真っ暗でした。その日に我々家族はマンハッタンに到着したのでした。
翌日の15日にJFKから日本に戻る予定で,コネチカット州ウエストハートフォードの実家をレンタカーで出た僕たちは,午後4時頃,27丁目当たりからマンハッタンの中に入って行きました。すると信号機がどれも消えているのでした。そして,道路の両側にある店などから人々がぞろぞろと出てきました。「これはただごとではないな」と思っていると,人々が後ろのイーストリバー方向を見ながら何か言い始めました。後方を見るとなにか大きな白い煙が高く立ちのぼっているのでした。「テロかも?」と途端に不安になりました。ドライブ中はずっとFMラジオで音楽を聴いていたのですが,そんな状況になっているのに,相変わらずロックをかけています。そこで,AMラジオに切り換えると,ニュースが流れていていて,「この停電は発電所の事故によるもので,テロとは無関係です」と何度も繰り返しアナウンサーが叫んでいました(情報収集はAMに限ることを実感)。

TO BE CONTINUED

BRUCE SPRINGSTEEN        WORKING ON A DREAM    を聴きながら

2011年8月30日火曜日

ニューヨーク~地震・ハリケーン

ニューヨークでかなり大きな地震とハリケーンのニュースがあったので,今朝,キンバリーの親友リサの携帯に電話してみました。彼女の家族はみんな大丈夫ということで,「心配してくれてありがとう」ととても喜んでくれました。彼女のアパートメントはイーストヴィレッジの9丁目にあります。ブロードウェイを南下して9丁目のところで右折して,1本目のユニバーシティプレイスの手前に入口があります。隣の角には「ニッカーボッカー」というステーキの店があり,ジャズの演奏もやる結構有名な店。キンバリーの父親(2002年5月没)が,ご馳走してくれた思い出の店。

リサの家の近くには,ワシントンスクエアがあり,週末にはストリートミュージシャンの演奏がここかしこであり,チェス盤とにらめっこしている人もたくさんいます。子どものための遊具もあって,そこで彩とリサの長女ディランやエラと遊んでいるところの写真があります。

to be continued

ビートルズ  サージェントペパーズを聴きながら

2011年8月29日月曜日

早朝の札幌駅

我が家に1週間以上滞在していたドイツ人の友人ヴォルフガング・バウアー(ヴォルフガングはモーツァルトと同じ,バウアーはアメリカの大人気ドラマ「24」のジャック・バウアーと同じ)が,今朝,ベルリンに帰って行きました。
短い滞在でしたが,楽しい時間がもてました。彼は10年以上札幌に住んでいたので,友人もたくさんいて,旧交を温めていました。彼がいなくなって,話相手もいなくなり,ちょっと淋しい感じです。

昨日は,二人でニトリレディストーナメントを観に行って来ました。ドイツではゴルフは全くポピュラーではなく,彼はやったことも,ゴルフ場に行ったこともなかったので,興味深々という感じでした。

帰りは,北海道マラソンと関係しているのか分かりませんが,午後3時頃の道央道は物凄い渋滞で,ちょうど日高道への入り口付近で完全に止まってしまったので,あてもなく日高道へ入り,東千歳で降り,長沼方面へ走りました。274号線に近づいたとき,由仁町のケイトのやっているカフェが近いことに気がついて,そこに行くことにしました。ケイトはキンバリーと仲の良かった,陶芸家であるイギリス人女性です。このブログで書いたことがあったかもしれませが,1995年4月8日の土曜日にキンバリーと初めて逢った日に,ここに来て,彼女に話しかけ,帰りに車で彼女のアパートまで送ったという,僕とキンバリーの「聖地」のようなところです。その当時は,カフェはやっていませんでしたが,増築してカフェを開き,僕たち家族で何回も遊びに行った場所です。靴を脱いで,木の床に座るのですが,窓から見える景色を見ながら,キンバリーと過ごしたときのことを思い出していました。ここにキンバリーがいないのはおかしい・・・そうおもっていました。
少しゆったりとした時間を過ごして,自宅に戻り,彩とパエリアの宅配を取って晩御飯にしました。

今朝は,5時半にヴォルフガングを起こし,6時過ぎに札幌駅まで送ってきました。
まだ人もほとんどいない早朝の札幌駅。キンバリーとアメリカに行くときも,いつもこんな早朝の札幌駅からJRで千歳空港に向いました。そのときのことがよみがえってきて,ウルウルしてしまいました。JRのチケットを買ってから,スタバでカフェラテを買って,それを飲みながら千歳へ向かうのがいつものことでした。車を降りて駅に向かって歩いていくヴォルフガングを見送りながら,同じようにラゲッジを引っ張りながら3人一緒に歩いたことを思い出しました。
まだ彩が7歳くらいだったと思いますが,12月にアメリカに行くとき,朝に大雪になり,タクシーが全く進まなくなって,このままでは飛行機の時間に間に合うJRに乗れなくなるということがあり,まだ北口のまで100メートル以上あるところでタクシーを降りて,必死に思いラゲッジを引っ張って走ったこともありました。あとで,いつもギリギリで行動スケジュールを立てるのは良くないとキンバリーに叱られました。
もう叱られることもないのかと思うと,また悲しくなります。

ビートルズ アビーロード  を聴きながら

2011年8月25日木曜日

赤色のX-Trail

今朝8時少しに事務所に物を取りに来て,自宅に戻る道すがら信号で車を止めたときバックミラーに赤いX-Trailが写りました。思わずはっとしてしまいました。
キンバリーの愛車だったのと全く同じX-Trailで,まるでキンバリーが後ろについて来ているような感じがして,馬鹿げた話ですが,運転席に彼女の姿を探してしまいました。信号が緑に変わり,
その車は間もな右折して行ってしまいました。

犬たちと移動するときのために購入した車でした。
僕は別の車に乗っているので,キンバリーの愛車になっていました。
家族で使うときは僕が運転することになっていました。「もしかしたら私乳ガンかもしれない」と告げられたのは,僕が運転して,二人でどこかに行くときでした。

2 台も車は要らないのですが,キンバリーとの思い出がつまったX-Trailを手放せず,今年も車検の時機になりました。

ショスコーヴィチ  交響曲第5番  レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルを聴きながら

2011年8月24日水曜日

14歳

今日,娘の彩は14歳になりました。夏休み最後の日で,明日から新学期です。
函館方面の依頼人の方からおめでとうのメールが届きました。ありがとうございます。
また,友人が僕の不在中に事務所に彩への誕生日プレゼントを置いて行ってくれました。嬉しいです。

彩が産まれたのは日曜日の朝でした。
逆子だったので,帝王切開でした。清田区にある病院で,僕も立ち会って(そこでは帝王切開でもキンバリーの横にいさせてくれました),彩が初めてこの世界に存在する瞬間を共有しました。
いろんなことを思い出します。
キンバリーは自然分娩を望んでいたので,まず助産所に通いました。
ところが,逆子であることが分かり,そのままだと助産所では出産は難しいことが判明しました。
何とか逆子をなおそうと思って,「逆子体操」をやってる産婦人科に通ったりしましたが,だめでした。一生懸命,床の上で身体を動かしていた姿が目に浮かびます。

23日の土曜日の昼過ぎから陣痛が始まりました。一度病院に行ったら,まだ子宮口が開いていないということで,一旦自宅に戻りました。歩いた方がいいと彼女は考えていて,痛みをこらえながら,一緒に自宅のある北17条西2丁目から大通公園まで休み休み歩きました。

そして,午前0時を過ぎた頃,本格的な陣痛となり,僕の運転する車で病院に向いました。当時はまだなかった札幌ドームを過ぎたあたりで痛みに耐えられなくなり,車を降りて歩道の樹木につかまるようにして痛みをこらえていたのを思い出します。

病院に着いて,朝7時半の帝王切開まで,キンバリーは何とか自然分娩できないかと頑張りました。でも,彩の左足だけが出てきて,それが紫色になっているのを見て(見たのは僕。キンバリーには見えない),医師も帝王切開しかないと判断しました。

流行?に従って,モーツァルトをかけていました。
その年の1月にニューヨークに行ったのですが,親友のリサも妊娠中で,夫のアンディと一緒に,「出産時の妻を夫はどうやって支えるか」という体験セミナーに僕たちも参加し,陣痛に苦しむ妻にどうやって対応するかを「模擬練習」していたのですが(例えば,どんな言葉をかけるのがいいか,どうやって身体をさすったりするのがいいか など),実際には全く役に立ちませんでした。
痛みを感じているキンバリーの身体は他人に触れられることを拒絶してしまい,彼女の呼吸のリズムに合わせて僕も呼吸しながら声をかけるのが精一杯でした。

彩を初めて抱いたときのキンバリーの最高に幸せそうな表情は忘れられません。

彩がまだ10歳のときに乳ガンと分かったことになります。治療方針の話のとき,病院の医師に「私にはまだ10歳の娘がいます。まだ死ぬわけにはいきません」と強い口調で言っていたキンバリー。

彩が楽しみにしていた,31(サーティワン)でアイスクリームのバースディケーキを買ってきました。
店に行って,いくつかある中で,どれが彩のほしがっていたものかが分からなくなりました。電話で訊くわけにもいかず(そんなことをしたら「私の話聞いてくれていないんだ」と怒られそうで・・・),直感で選びました。自宅で14本のロウソクに火をつけて,ハッピーバースディを唄いながら彩のいる部屋へ持って行きました。大喜びで,まず写真を撮ってからロウソクを吹き消して,「私の好きなやつ覚えていてくれたんだね。お父さんありがとう」と満面の笑顔を言ってくれました(内心,ひやひやしていました)。

14歳の彩をキンバリーに見てもらいたかった。

キング・クリムゾン  Starless and Bible Black  を聴きながら

2011年8月22日月曜日

ジャマイカ50周年(つづき)

僕と彩が夫婦に見えたという,あり得ない話を紹介しましたが,その理由と思われるのが一つ抜けていました。
③その人の目がとても悪かった。

でも,彩が娘ではなく,どこかの女性だと思った人が他にもいたので,目が悪かったという理由だけではないと思います。

彩が大人びて見えるということについては,こんなこともありました。
去年の10月ころでしたが,ある懇意にしている会社の社長が僕と彩を食事に招待してくれました。
キンバリーとも一緒に食事をしたことのある方で,キンバリーが亡くなったあとの僕たちを元気づけてあげようという心遣いで,美味しい和食の店につれて行ってくれました。
その帰り,社長と別れて彩と南3条通りを歩いていると,後ろから一緒にゴルフもやる,仲のいいジャズピアニストが何も言わずに追い越して行ったのです。声をかけようと思ったのですが,スタスタと行ってしまいました。
後日,彼が奥さんと経営しているライヴハウスに行って,その話をすると,やはりそうでした。
僕の横にいた彩を,何か関係のある女性だと思って,声をかけてはまずいと思って,スタスタと追い越したということでした。大笑いでした。

彩はあさって14歳になります。母親のいない2回目の誕生日になります。
キンバリーは彩の誕生日にいろいろな演出をしていました。家の中に迷路のようなものを作って,それをたどっていくと誕生プレゼントが見つかるようにしたり。
僕の誕生日に,部屋中の壁や天井を200個以上の風船で飾ってくれたり・・・

普段はほとんどキンバリーのことは口にしない彩ですが,今朝,「お母さんに逢いたい」と一言だけ言っていました。どんなに淋しいことか。
僕もキンバリーに逢いたくてたまりません。

ドビュッシー  ベルガマスク組曲 ポール・クロスリー(p)  を聴きながら

2011年8月21日日曜日

Jamaica  ジャズ喫茶50周年記念

札幌の老舗ジャズ喫茶(Bar) ジャマイカの開店50周年記念パーティに行ってきました。彩も一緒に。
180人くらいの出席だったようで,Q.ISHIKAWA(今年80歳になるということですが,とても元気に1時間以上の演奏を休みなしで聴かせてくれました)のテナーサックスを札幌在住の豊口健(p)田中久雄(b)館山健二(ds)が強力サポートして,楽しい宴という感じでした。

ジャマイカは開店当初から21年くらい前までは札幌市南2 条西5丁目にあった東映映画館入ったビルの地下にありました。僕が初めて行ったのは高校3年のときだったと思います。1974年。ものすごい音量で,30分くらいいると耳が痛くなるくらいの凄さでした。当時は,札幌にもジャズ喫茶がたくさんありましたが,今はほとんど残っていません。50年間続けるということは大変なことだと思います。

ベルリンから僕の友人ヴォルフガングもこの日のためにやって来ました。19日の夜に札幌に着いて,僕の家に滞在しています。彼と出会ったのもジャマイカでした。20年くらい前になります。東映のビルが壊されることになって狸小路5丁目に移転してからのジャマイカでしたが,いつものカウンターの席に着くと隣に彼が座っていたのです。それ以来,彼とは親友となり,楽しい思い出がたくさんあります。北大の大学院でアジアの経済史を勉強して,ベルリンで博士号を取った優秀な彼ですが,きさくでジャズが大好きなナイスガイです。今でもヘビースモーカーなのが残念なところですが。
彼は,1996年5月に札幌で開いた僕とキンバリーの結婚披露宴でスピーチをしてくれました。日本語で原稿を準備してそれを見ながらスピーチしてくれたのですが,緊張のあまり原稿を持つ手がガタガタと震えていたのを覚えています。昨日も,もしかしたら何かスピーチを頼まれるかもしれないと,スピーチの内容をメモしていましたが,杞憂にすぎなかったのでホッとしていました。

ジャマイカとは,キンバリーと初めて逢った95年の4月に一緒に行っています。僕の大好きな店を彼女にも知ってもらいたいと思って。結婚してからも,ときどき行っていました。

帰りにQ.ISHIKAWAさんのCDを購入して,サインをしてもらいました。TAKESHI SAYAKA そして
KIMBERLY とサインしてもらいました。キンバリーがいたらどんなに楽しんでくれたかなあと思っていました。

同じテーブルに,ジャマイカで札医大のジャズ研時代にウェイトレスをしていた女性が娘さん二人と夫の方と座っていました。僕も彼女のいたときを知っているので話かけたのですが,彩のことを僕の奥さんかも,ずいぶん若い人だな,と思っていたというのです!
これは二つのことを意味します。
①彩がとても大人びて見える(来週14歳)
②僕が非常に若く見える
キンバリーが聞いたら何と言うでしょうか・・・

マイルス・デイビス  ライブイン・トーキョーを聴きながら

2011年8月19日金曜日

天竜川川下り事件に思うこと

天竜川の川下りで船が転覆して死者・行方不明者がでています。とても悲しく残念な事件です。
船頭が救命胴衣を着けなくてもいいように言っていたということで,運営会社の安全管理責任は免れないと思います。

ただ,僕がこのニュースを知ったときまず思ったのは,川下りの船に救命胴衣を装着しないで子どもを乗船させた親のことでした。なぜ子どもたちの親は,船頭が何と言おうと,自分の子どもに救命胴衣を着けさせなかったのか,正直,理解できません。キンバリーも真っ先に同じことを言ったと思います。子どもの命や安全を守るのは親の責任です。
この船の現場にいたら,キンバリーならどうしたか,想像してみました。
まず,船会社に救命胴衣を着けるように乗船客に指導するように要請するでしょう。もし,会社が「大丈夫ですよ」などと言って聞かない場合は,乗船客の人たちに「救命胴衣を着けた方がいいですよ。」と言うでしょう。それでも,乗船客の人たちが,装着しないのであれば,僕たち家族はその船には乗らないでしょう。

2010年4月9日のブログに「子どものライター事故に思うこと」と題して,アメリカと日本の子どもの安全に対する意識の違いについて書きました。まだ,彼女が生きているときです・・・
スーパーの駐車場で子どもが一人車内で泣いていたので警察官を呼んだ妻と,そんなことまでどうしてするのか,という反応の母親の対比についても書きました。
子どもの安全については躊躇なく断固とした対応をすることが必要だと思います。
例えば,車の後部座席のシートベルトです。僕は友人の車の後部座席に乗ったとき,シートベルトを装着します。高速道路だけでなく,一般道路でもごく自然に装着します。アメリカでの経験が影響していると思います。あちらでは,全座席で常にシートベルトを装着することは当然のことで,子どもたちも小さいときからそのようにしているので,座席に着くやいなやすぐにシートベルトをします。
日本ではこういう習慣はまだできていません。安全に対する意識の格差を感じるときです。

ベートーベン  交響曲第1番   レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルを聴きながら

2011年8月15日月曜日

ビートルズ回帰現象

キンバリーが逝ってしまってから,ビートルズが戻ってきたという感じになっています。
中学・高校の3年間,毎日ビートルズを聴いていました。中学のときは一日に4~5時間はビートルズを聴いていたと思います。自宅にあった,父親のソニーのオープンリールのテープレコーダーに全部のLPを録音して,それを何回も聴くのです。レコードの溝が磨耗することを畏れて,そうやってレコードは大事に取っておくのです。
ビートルズの曲は全部で213曲あるのですが,そのすべての曲を何千回と聴いていると思います。
中学のとき,布団に入ってから2~3時間眠れないときが続きました。ビートルズの曲が頭の中で鳴り出して,いつまでたっても終わらないのです。よし,次の曲でストップして眠ろうと決意しても,あっさりとその期待は裏切られ,次の曲が最初から最後まで演奏されるのです。

ビートルズが解散したのは1970年。僕が中学2年生のときでした。この年の11月には三島由紀夫の割腹という大事件もあるのですが,僕にとってはビートルズが解散した年として記憶されています。泣きました。解散の噂は前年から伝わってきていましたが,「そんなことがあるはずがない」とラジオのニュースに気が気ではありませんでしたが,解散が現実となったとき,その事実を受け入れられず,本当に悲しくて泣いてしまいました。その当時から泣き虫だったのかもしれません・・・

ちょっと調べたところ,1965年の今日,8月15日は,ビートルズがニューヨークのシェイ・スタジアムで初めてライブ演奏をした日でした。ロックコンサートが野球場で行われたのはこれが初めてのことでした。そのころ,僕は小学3年生でしたが,近所の仲間と「ビートルズって,30分くらいのコンサートでものすごいお金が入るんだってさ」と興奮しながらしゃべったことをよく覚えています。でも,まだビートルズの音楽そのものには本格的には参入していませんでした。ベンチャーズの方をよく聴いていました。エレキギターブームだったのでしょう,近所のアパートでお兄さんがたがエレキギターの練習をしていて,ベンチャーズのダイアモンドヘッドなんかをやっていて,アパートの窓にくっついて(1階の部屋でした),飽きずにずっと聴いていたことを思い出します。

ビートルズを本格的に聴くようになったなったのは小学校6年生の頃でした。
それからはビートルズなしでは生きられないというくらいのめりこみました。当時は,今のようにビデオやDVDなどないので,ロックコンサートを見ることができるのは,フィルムでした。STVだったと思いますが,フィルムコンサートが道新ホールなどで行われて,そこでストーンズなどの演奏シーンを見て興奮しています。ビートルズのライブもフィルムで見ました。四角いステージを観客が囲んでいるコンサートで,1曲終わるごとにドラムスや機材を動かして全部の方角の観客が正面から見られるようにするとか,サービス精神旺盛なビートルズに感心したり・・・

狸小路1丁目にスカラ座という映画館がありました。ハードデイズナイト・ヘルプ・レットイットビーの3本立をやったとき,母親におにぎりを作ってもらい,朝から映画館に入り浸り,それぞれを2回ずつ観るということをやったことがあります。この3本,映画館でそれぞれ16回観ています。

ビートルズ絡みは書くときりがないようです。
小休止します。
(ビートルズがシェイ・スタジアムで演奏していたとき,キンバリーは母親のおなかの中にいたことになります。12月22日が誕生日です)

THE BEAUTIFUL SOUTH   QUENCH を聴きながら

2011年8月13日土曜日

事務所で避暑~ニューヨーク,ジョン・レノン

今日も暑い一日になっています。
娘と事務所に来ています。先日,あまりの暑さに耐えかねてようやく買った自宅の扇風機では足りないので,唯一クーラーのある事務所に親子で避暑に来ています。彩は勉強道具とiPad2を持って。朝日新聞のデジダル版をインストールしたので,新聞記事を検索したり,いろいろ勉強に使えると言っています。僕はパソコン関係はちょっと苦手で,彩にインストールとか,いろいろな設定をやってもらえて助かっています。ネット環境で育っているので,初めて使う昨日でも何となくやっているうちにできるようで,いつも感心して見ています。僕が彩よりうまくできることといえば,アナログレコードプレーヤーのターンテーブルに載っているレコードの途中の曲の溝に針を正確に落とすことくらいでしょうか(実際に彩にやらせたことはありませんが)・・・

今日から事務所はお盆休みに入っています。17日から業務開始です。
キンバリーがいたころは,今頃はアメリカに行っていました。アメリカの家族みんなで湖の近くの貸別荘に滞在して過ごすのが恒例になっていました。2002年の5月に亡くなったキンバリーの父親が健在だったときが,一番楽しい夏を過ごしていました。2001年の夏,アメリカから戻って3週間後くらいにあの同時多発テロが発生したのでした。あの日はキンバリーも僕も夜9時前には寝てしまい,リアルタイムでは全く知りませんでした。翌朝もテレビを見る習慣がなかったので,ニュースも見ていなかったところ,ニューヨークの親友リサから「こちらはみんな無事だから心配しないで」というメールが入り,一体何のことか分からずにとにかくテレビをつけたら,あのシーンが目に飛び込んできたのでした。

今朝,彩が好きな王様のブランチを見ていたら,ジョン・レノンの秘蔵映像を集めた新しい映画の紹介がありました。そこで流されたジョンとヨーコの映像を見ながら,またも泣いてしまいました。ジョンは80年12月8日に射殺されてしまいましたが,まだ40歳でした。ヨーコは7歳年上。しばらく別居生活を経たあと,長男のショーンが生まれて,子育てに専念。日本にもよく来ていて,軽井沢で過ごす姿が写真集に残っています。
ジョンとヨーコが出逢ったのが1966年。二人が一緒にいたのは14年間。僕とキンバリーは15年間。だいたい同じ時間の長さを共有した二人なんだなあと思いながら,ジョンが一番愛した街,ニューヨークというナレーションを聴きながら,キンバリーとの思い出の街ニューヨークに想いが行って,いろんなことが浮かんできて,涙してしまいました。

彩はパソコンに夏休みの宿題の作文を打ち込んでいます。
僕も,何かしようと思います。

ジョンのサムタイムインニューヨークシティを聴きながら

2011年8月7日日曜日

自分だけでは楽しめない

今朝,テレビを見ながら涙が出てしまいました(考えてみると,僕は相当「泣き虫」のようで,娘の彩によく言われます。「お父さん,泣きすぎ!」)

日曜日の朝9時から「題名のない音楽会」という番組があります。数少ない好きなテレビ番組の一つで(もうひとつの「ブラタモリ」はもうやらないのだろうか・・・),佐渡裕の司会も好きなので,よく見ます。
今日はバイオリンの秘密がテーマでストラディヴァリウスとガルネリという名器の特集でした。
ヴァイオリンの構造についての説明などがあって,実際の演奏が始まったとたん涙が出てきました。
曲名が今思い出せないのですが,心がうきうきするような楽しい,有名な小曲です。涙が出たのは,
その曲に合わせて身体をちょっと揺すったときでした。
すぐにはそのわけが分かりませんでしたが,キンバリーの表情が浮かんできて,その理由が分かりました。「自分だけが楽しい時間をもっている」ことに対して,キンバリーが一緒にそんな時間を持てないということに, どこかで「罪悪感」「ごめんね」という気持ちを感じてしまい,キンバリーがいないんだということを思い知らされて,心から楽しむことができず,彼女と楽しみを共有できないことが悲しくて涙となってしまうのだと思いました。

思い返すと,彼女が逝ってしまってから,心から楽しいと思えた時間は皆無です。
すべてのことが,単なる「時間潰し」のようにしか思えないのが正直なところです。
「キンバリーは僕と彩が楽しく元気に生きていくことを望んでいるよ」と言われることがあります。
そう思えるようになるものなのか,今はこの「時間潰し」感覚で,とりあえず生きていくしかないと思っています。


シベリウス  交響曲5番  ジェイムス・レヴァイン指揮  ベルリン・フィルを聴きながら

2011年8月5日金曜日

北大の思い出

今朝6時半頃,ロイ(6歳のフラットコーテッドレトリーバー。オス)と自転車で久しぶりに北大構内を散歩してきました。北大は自宅から歩いて5分の距離にあります。北大にはたくさんの思い出があります。
小学校4年生の新学期に北区北17条西2丁目の木造2階建の家に引っ越してきてから,ずっとここで生活してきました。現在の事務所は,同じ場所に建てたビルの中にあります。
当時(昭和46年。1966年)は,このあたりはまだ道路も舗装されておらず,トラックが通るたびに家が揺れていました。
北大構内の校舎ビルも今よりずっと少なくて,教養学部の校舎があるところ(今は教養学部とは言わないのかもしれませんが)は,グラウンドになっていて,野球の試合を観に行っていました。
構内には壊れたオートバイが無造作に捨てられていたりして,中学3年のとき,友人2人とそのバイクのエンジンをかけ(直結と言っていましたが,キーはないので,配線を直接結んでエンジンをかけるのです),構内を3人乗りで乗り回したりしたことがあります。「パーン」と大きな音がしてタイヤがパンクしてしまいました。

今朝は北大病院のわきにある有名な銀杏並木から構内に入っていきました。北大病院では,2008年1月にアメリカで右乳房全摘出手術をして日本に戻ってから抗ガン剤と放射線治療をしました。抗ガン剤治療が終わるまで娘と一緒にキンバリーのそばにいて,いろんな話をしたりしました。一人で歩いて北大に向かうキンバリーの後ろ姿が目に浮かびます。

北大はキンバリーが姉妹校であるマサチューセッツの大学から交換留学生として勉強していたところ。この留学がなかったら僕たちは出逢っていなかったはずですから,北大は特別な存在になります。

キンバリーは日本語が素晴らしく上手でした。彼女の発音は,電話で聞いたときなどは日本人かと思うくらい自然な日本語でした。2年間アメリカの大学で勉強してからこちらに来たのですが,日常会話は大丈夫だったと言っていました。語学の才能があったと思います。
彼女が日本語を勉強することになったのは偶然でした。キンバリーはロシア文学が好きだったので,ロシア語のコースをとろうと思っていたのですが,その学期にはロシア語コースがなかったので,じゃ日本語にしようか,という感覚で日本語の勉強をしたのです。よく笑い話で,「あのときロシア語コースがあったら,今頃,ロシアで凍えているかもしれない。」と言っていました。

北大の留学期間が終わっても,キンバリーは札幌が好きで,語学学校の教師をしたりしながら3年くらい札幌にいました。もし,留学期間終了とともにアメリカに戻っていたら,僕とは出逢わなかったでしょう。そして,日本での就職希望が叶わず,一旦,ニューヨークの大学院に行こうと決めて,札幌を発つ日のちょうど2週間前に僕と出逢ったのでした。その出逢いのことは書いたことがありますが,あのとき,大通西2丁目のミスタードーナッツの前で,キンバリーが一人で立っていなくて,他の友人たちと一緒にいたとしたら,あんなに強烈な印象を受けることはなかったかもしれません。
いろいろな偶然が積み重なって,僕たちは出逢ったのだと思います。

そんな彼女がいないことの理不尽さに, ときどき耐えられないような気持ちになります。
理不尽なことで埋めつくされているような世の中ですが・・・

キング・クリムゾン  太陽と戦慄  Lark’s Tongues in Aspic  を聴きながら
(原題と全く関係のない邦題がつく典型)

2011年8月3日水曜日

8月になりました

8月は娘の彩の誕生日が24日にやってきます。母親のいない2回目の誕生日になります。14歳。
まだ12歳のときに母親を亡くしたことになります。
僕は男ばかり4人兄弟の長男なので,娘と母親との関係がどんなものなのかは,よく分かりません。せいぜい,映画・テレビドラマ・小説などで描かれたものを知識としてもってるだけです。
キンバリーのような母親との関係をずっと持てたとの持てないこれからと,比較することはできませんが,彩が失ってしまったものはとっても大きいと思わずにはいられません。
キンバリーの代わりにはなりようがありませんが,彩にとって良い父親でいたいと思っています。

最近,あるコンペで一緒になったのをきっかけに,ゴルフに誘ってくれる方ができました。僕よりずっと人生の先輩になる方ですが,一緒にラウンドするのがとても楽しい方です。

雄大な景色が見えるコースを回っているとき,いつも,この景色をキンバリーに見せてあげたいなあと思います。北海道の自然が大好きなキンバリーでした。
毎日,キンバリーが本当に死んだんだなあ・・・もう逢えないんだなあ・・・ということが「本当のこと」なんだということを,少しずつ少しずつ受け入れているのが続いているのだなあと思います。
何度も携帯に残っている彼女のビデオを見ます。笑っているキンバリー。その彼女がこの世にはいないんだということが,いまだに本当なんだと完全には納得できていません。

新しい人と出会えることのできるゴルフを始めていて良かったなあと思います。

ショパン ピアノ協奏曲1番  ポゴレリチ(p)を聴きながら