2012年5月29日火曜日

理解できないこと再び

先程,ある弁護士から電話がありました。私の出身高校の後輩らしく,今年の同窓会の会報に事務所の広告を例年通り載せてもらえないかという要件でした。例年どおりでいいと答えました。

電話を切ったあと,思いました。この弁護士は直接キンバリーと面識はなかったが,僕とは会えばことばを交わすこともあったけれど,キンバリーのことで生前も亡くなったあとも一切のことばもなにもなかったのに,よくこういう要件で電話することができるもんだなあ。

僕だったらこんな頼みごとを平然とすることはできません。
こういうことができる人たちが札幌弁護士会にはたくさんいるようです。

2012年5月8日火曜日

最近読んだ本

①夢よりも深い覚醒へ-3.11後の哲学  大澤 真幸 著 (岩波新書)
②人間と国家 上・下   坂本 義和 著  (岩波新書)
③世界史の構造  柄谷 行人 著  (岩波書店)
④政治と思想 1960-2011   柄谷 行人 著 (平凡社ライブラリー)
⑤Mourning Diary   ロラン・バルト 著

並行読書の本がほぼ同じ時期に終点に来て,立て続けに読み終わることになりました。
①は今回の大震災と福島原発の最悪の事態から,我々が未来の他者である子孫たちにどんな倫理的責任とを果たさなければならないかについて深く深く考察した本で,再読して読み込みもさらに深くしなければと思わせる一冊。未来の他者に対する倫理的責任という観念については,④においても触れられているところで,ドイツの哲学者カントの思想がいかに重要なものであったかについても教えてくれます。③は「交換形態」の観点から世界の歴史,これからの世界の行方について分析し進むべき道を示唆する一冊。柄谷氏は大学時代からずっと読み続けている思想家で,わざわざ彼の話を聴きに東京の神田まで行ったのはもう4年くらい前のことでした。これも再読必至。マルクスをしっかりと読むことの必要性を痛感させられました。
②は平和について一貫して考察し実践行動を続けてきた政治学者の自伝。大学時代,大江健三郎が坂本氏の本の帯に推薦のことばを書いていたことから何冊か読んではいたのですが,しばらく遠ざかっていました。戦前の中国で過ごした幼少年時代の経験が,その後の彼の生き方に深く影響しているところは,大好きな作家J・G バラードの経験と重なって,とても興味深いものでした。

⑤最愛の母親を亡くしたバルトの彼女を追想することばに何度打たれたか分かりません。キンバリーへの僕の想いがそのままことばになっているのがいくつもありました。この本はもともとはフランス語で書かれているのを,英語に翻訳されたものです。みすず書房から翻訳が出ていて,そちらはフランス語の原書からの翻訳。その翻訳を見てみると,英語の文章と微妙にニュアンスが違うようなところがときどきありました。翻訳の難しさと問題点があるように思います。

1904年6月16日のダブリンの一日を描いたジェムス・ジョイスのユリシーズはようやく350頁に達しました。まだ半分くらいです。全部で18章あるうちの第13章に入ったところですが,その前の文体と全く違う書き方で,ジョイスの才能の凄さを感じます。翻訳も参考にしていますが,信頼している柳瀬尚紀の翻訳がこれ以降まだ出ていません。丸谷才一他の翻訳を参考にしていますが,柳瀬氏の見事な日本語訳で早く読みたいものです。

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第1番  ガルネリ弦楽四重奏団   を聴きながら

2012年5月5日土曜日

2010年子どもの日

子どもの日が来ると,2年前のことを思い出します。
アイフォンのビデオにキンバリーと彩が映っています。中庭のデッキにテーブルを出して,中一になった彩の世界地理の勉強をキンバリーが手伝っている姿が映っています。世界の国の名前を彩が言って,それが合っているかどうかをキンバリーがチェックしている姿。まだのんびりした感じが漂うGWの一日という感じです。庭に1本あるエゾ桜はまだ開花していません。
そののんびりした日もそれが最後でした。次第に頭痛が酷くなってきて,入院・退院をして,検査の結果,乳ガンが脳に転移していることが分かったのが27日。脳内圧を下げる点滴が劇的に効果があって頭痛から開放されて29~31日の3日間,たくさんの友人たちがお見舞いに来てくれて,明るく会話したりしながら過ごし,6月1日の朝,最後のアメリカ行きに向けて旅立ったのでした。

頭痛に苦しんで,動けないほど辛い思いをしていた彼女のことが忘れられません。脳転移の可能性を恐れながら,あまりに辛いので,夜,近くのドラッグストアに市販の頭痛薬を買いに車を飛ばし,それで頭痛が少し楽になったので,脳転移ではないよね・・・と言い合った夜。今思い返すと,なぜ,頭痛の訴えを聞きながら,もっと早くに検査をしなかった主治医の対応が納得行きません。
脳に転移すれば,もうそう長くはないということは分かります。でも,もっと早く分かれば,あの頭痛の苦しみをあんなに長く耐えなければならないことはなかったはずです。他にも主治医の対応には許せないことがあります。

そんなことをいくら考えてもどうしようもないことは分かっていますが,今日はどうしようもありません。

昨日からU2というロックバンドの2008年のシカゴでのライブのDVDを観ています。大好きなバンドです。何年か忘れましたが,BBキングとのジョイントライヴを東京ドームで聴いたことがあります。
彼らのONEという曲があります。この曲をCDで聴いたとき,涙が止まりませんでした。
そしてこのライヴの中で彼らがこの曲を演奏するのを観て聴きながら,また涙が止まりませんでした。
その歌詞の内容に感じるのと同じくらいに,リードヴォーカルのボノの声そのものに僕の中の深い部分が共鳴して感動してしまうようです。この曲を聴きながら,キンバリーのことが愛しくて愛しくて,
 逢いたくて逢いたくてたまらなくなっていました。

2012年5月2日水曜日

豊平峡温泉

昨日,ゴルフの帰り,豊平峡温泉に行って来ました。
ようやく行くことができたという感じでした。というのは,キンバリーがとてもお気に入りの温泉で,友人たちと行っていたからです。カレーが美味しいとも言っていました。一度誘われたのに,都合が悪かったのかそのときは行く気がしなかったのか,結局,一緒に行くことはありませんでした。
行ってみて,ちょっと独特の雰囲気の温泉で,キンバリーが好きそうなところだなと分かりました。入って行って,チケットを買って,休憩所や食堂を見ながらお風呂に向いながら,キンバリーがこれと同じ風景を見ていたんだなあと思いながら,胸がいっぱいになっていました。
きっと,友達とワイワイ言いながら,キンバリーの笑い声が響いていたんだと思います。そんな彼女がもういないんだということが信じられない気持ちで,悲しくてたまりませんでした。

帰り道,夜景の灯を見ながら,何だかキンバリーが家で待っているような感覚に襲われてしまいました。そして次の瞬間,そんなことは永遠にあり得ないんだということを思い知らされて,体中の力が抜けてしまいしました。

帰宅して,大きな声で「ただいま」と言ってみました。シーンと静まり返ったまま。ロウソクに火をつけて,キンバリーに語りかけました。

5月になると2年前,彼女が亡くなる年のことを思い出します。5日に彩の地理の勉強を手伝っているキンバリーの姿がビデオに残っています。まさか,そのあと,脳転移が判明して6月1日にアメリカに最後の旅立ちをすることになるなんて夢にも思っていませんでした。
あの日々が甦ってきます。

2012年4月25日水曜日

2012年3月25日日曜日

すべてはキンバリーの思い出につながる道・・・

先日,久しぶりにJamaica に行ってきました。といっても,カリブ海にあるあのJamaicaではなく,狸小路5丁目にあるジャズ喫茶・バーのことです。今はなくなった札幌東映の地下にあった頃,高校3年だった頃に初めて行ってから,もう35年くらい通っていることになる,札幌のいや日本でも屈指の歴史を誇るジャズの店です。JBLパラゴンがこのJamaicaほど素晴らしい音で鳴っているところはないのではないかと思います。20年少し前に今の場所に移ってからも,美味しいお酒を飲みながら聴くジャズは格別で,
毎日のように行っていたものです。
キンバリーの病気治癒祈願で酒を完全にやめて4年になり,もはや酒を飲みたいという気持ちは深い井戸の中に沈めてしまってからは,Jamaicaに行く回数はぐっと減りましたが,コーヒーやノンアルコールビールでジャズを聴きにたまに行っています。

キンバリーとも何度も行ったことがあります。初めて出逢った1995年の4月8日からニューヨークに旅立った22日までの間にも,彼女を連れて行きました。そのとき,店にあったノートの切れ端に書いてくれた,
いわば初めてのラヴレターが,今も大切な宝としてしまってあります。
娘の彩が生まれてからは,まだ生後数カ月の彩も一緒に行って,ジャズの洗礼を受けさせました(笑)

そんなJamaicaに先日行ったとき,長年つきあいのある常連さんが来ていました。
彼がウェイトレスの女性と話をしているのが聴こえてきました。
「最後の晩餐になったとき,何を食べたい?」という,よくある他愛のない会話でした。

その会話が耳に入ったとき,キンバリーが人生最後に口にしたアイスクリームのこと,2010年6月11日の夜8時過ぎに昔から行っていたベン・アンド・ジェリーのアイスクリーム店で,車イスを自分で動かしながら選んでいたキンバリー,携帯に写真が一枚だけ残っている,キンバリーと彩と妹スーがアイスクリームのスプーンを持って,ポーズを取っている姿,その帰り,近くの美容室から偶然出てて来た知り合いの美容師とハグをして笑顔を交わしていたキンバリー・・・あの日のことが頭のなかいっぱいに広がって来て,涙がこぼれそうになりました。その翌日の朝,もうキンバリーの目は開きませんでした・・・あれが最後に口にするものになるとは夢にも思っていませんでした,僕もキンバリーも彩も・・・・

街を歩いていて目にした風景,友達との会話の中に出てきた店の名前・・・ちょっとしたことから,忘れていたキンバリーとの思い出が鮮やかに浮かんできてしまい,うろたえるということが本当にしょっちゅう起きています。
そして,その思い出の主人公がもういないという厳然たる事実に打ちのめされるのです。

ドメニコ・スカルラッティ/ピアノソナタ    イーヴォ・ポゴレリチ(p ) を聴きながら

2012年3月12日月曜日

高峰秀子「わたしの渡世日記」

新潮文庫の上・下2巻の「わたしの渡世日記」を読み終わりました。
凄い人生を生きたんだなあ・・・と読み終わってしばらくぼんやりとした感覚でした。
1924(大正13)年函館生まれの彼女がこれを書いたのは昭和50年のことで,そのときまでのことしか触れられていないわけですが,その後の彼女の生き方に触れることができるような文章を読みたいと思います。

一本のきっちりとした筋が通った人生を貫いた人だと思います。

スター女優だったから可能だったのでしょうが,谷崎潤一郎・梅原龍三郎など錚々たる人たちとの交流のエピソードも豊富で,黒澤明が助監督時代の恋愛など,興味の尽きない話題もたくさんで,珍しく?わりと一気読みに近い形で読み終わりました。

印象に残ったところを一つだけ。
敗戦直後,現在の東京宝塚劇場はアメリカ進駐軍専用の娯楽施設として接収され,「アーニー・  
パイル」と呼ばれていた。アーニー・パイルはアメリカ軍属の新聞記者で,沖縄に上陸し,彼我の大
激戦の最中に戦死した。どこのだれが東宝劇場を「アーニー・パイル」と命名したかは知らないけれ
ど,沖縄で死んだアーニー・パイルの話を日系のアメリカ人から聞いたとき,私はふっとアメリカ人
の中にある,優しさ,率直さをみたような気がした。日本には人の名前のついた劇場などひとつもな 
い。

ここを読んだとき,僕は彼女のものの見方・人の見方は絶対に信用できると思いました。
こういう感性を持った人が好きです。彼女のいうとおりだと思います。
一人一人の人間に向けた暖かい眼差しを持っているアメリカ人と,えてして,世間とかそういう個人を埋没させるものにむしろ気をつかってしまう日本人との違いを,彼女はこんなことからも見抜いたのだと思います。

彼女の唯一の小津安二郎監督作品「宗方姉妹」を小津安二郎監督全集で探したけどないので,おかしいなと思っていたら,この映画は小津監督の殆どの作品を撮った松竹ではなく,新東宝で撮影したものなので入っていないのでした。アマゾンで購入しました。

生前にもっと彼女のことに関心を持っていたかったと思っています。

ボブ・ディラン フリー・ホイーリングを聴きながら

2012年3月7日水曜日

シンディ・ローパー

アメリカの歌手,シンディ・ローパーが来日して,東北大震災の被災地を訪問して子どもたちと交流して,歌を歌っている姿をニュースで見ました。去年の3月11日,丁度来日中だった彼女は,アメリカ政府の避難勧告(?)に従わず,予定通りコンサートをやった,それは被災地の人々に勇気を与えたいいと思ったから・・・とマスコミの報道が本当に正確なものかどうかはともかく,彼女が日本を愛していて,自分のできる形で未来への希望を与えたいと思っていることは本当だと思いました。

彼女は僕とキンバリーにとっても,忘れることのできない存在です。

1996年1月20日にアメリカコネチカット州のキンバリーの実家近くの大きなコテッジのようなホテルで結婚式とパーティをしたあと,5月には札幌での披露宴をしました。京王プラザホテル札幌で。立食形式にして400人以上の人が来てくれました。
キンバリーは日本髪のかつらで着物姿,僕は羽織袴でした。
入場と退場の音楽は僕が決めました。どちらも演奏は大好きなマイルス・デイビス。
入場はマイケル・ジャクソンのヒューマンネイチャー。
そして退場に使ったのが,シンディ・ローパーのTIME AFTER TIME でした。
入場したときキンバリーの姿を見た人たちかからどよめきのような声があがり,キンバリーはお付きの人に言われたとおりにしずしずという感じで歩いていました。
アメリカからキンバリーの両親・弟夫婦・妹も来て,とても楽しい時間でした。

そして,彼女が亡くなった2010年の4月5日,家族で行った最後のカラオケでキンバリーがこの曲を歌ったのです。その姿がアイフォンのビデオに入っていて,彼女の歌声を聴くことができます。カラオケの画面にはニューヨークのダコタハウス(ジョンレノンの住んでいたところで,そこで80年に射殺されてしまいました)やセントラルパークのイマジンの碑などが写っています。

シンディの名前を聴くと,TIME AFTER TIMEを聴くと,キンバリーとの思い出がいつも甦ってきます。
もう彼女の歌声を聞くことがないのだと思うと,たまらなく悲しくなります・・・

2012年2月28日火曜日

理解できないこと(再び)

今年来た年賀状のことです。札幌のある弁護士からの年賀状に手書きで彼の息子さんが学校でどうしているとかそんな近況を書いてありました。僕には理解できないことでした。
この弁護士とはかなり長い面識があり,ある集団訴訟の弁護団で一緒に活動したこともあり,まあそれなりに親しい関係だったと思っています。亡妻とも会ったことがあります。
理解できないのは,この弁護士からは,妻の生前も亡くなった後も,全くなんのことばをかけられたこともなかったからです。そういう状況でありながら,手書きで子どもの近況を書いて来るということが,正直理解できませんでした。

そういう弁護士はたくさんいます。前にも書きましたが,同期の弁護士に限らず,それなりに交流のあった関係で,全く何のことばもないのがたくさんいます。
弁護士会というのは強制加入団体で,弁護士会に所属しないと弁護士としての活動ができないので,札幌でやる以上,所属していなければならないのですが,正直,所属しないで済むのならどんなにいいかと思っています。
同期の弁護士の奥さんたちも理解できない人たちです。亡妻と深い交流はありませんでしたが,一緒に旅行したこともあります。彼女たちからも生前もその後も誰一人としてことばをかけてくれた人はいません。理解できません。

東北大震災のあとに盛んに使われた「絆」ということば。どこにそんなものがあるのか知りません。

これ以上書くのはやめます。
今夜はちょっと精神的にまずいかも。
ではまた。

2012年2月23日木曜日

ボブ・ディランの頭の中~日本語の響き

去年の12月16日のブログに,由紀さおりのことを書きました。日本語のままで歌う彼女の歌にアメリカ人が感動しているということですが,その理由として,外国人の歌手には彼女のようなソフトでメロウな唄い方の人があまりいないこと,そして,日本語の響きが外国人の耳にはとても優しく響くので,それがいわばヒーリング効果を持っているということが言われていたように記憶しています。

日本人には,日本語が外国人にどんな風に聴こえているのかということはなかなか分かりませんよね。僕はフランス語を少し勉強していますが,フランス語はなんだかボソボソと囁くように聴こえ,何となく哲学っぽいような響きを感じます。たまに話をする友人に,ちょっとフランス語で言ってみると,必ず「くすぐったくなる」と言われます。僕の発音のせいかもしれませんが,傾向としてはそんな感じだと思います。これに対してドイツ語は「角張った響き」というか,力強いというかちょっと乱暴なというか,そんな響きを感じることがあります(ドイツ人の方ごめんなさい)。イタリア語は,スペイン語は,ロシア語は,中国語は・・・とそれぞれのことばにはそれぞれの響きがあって,それを聴いた他の言語を母国語としている人に与える印象はそれぞれ違っていて,ことばって面白いなあ・・・と思います。

こんなことを書くのは,最近の洋楽(これって今の時代はとっても古くさい言い方かもしれませんが)の中で,日本語がそのまま使われていることが多くなっているような気がするからです。
ちょっと前に買った,MY CHEMICAL  ROMANCE というアメリカのバンドのDANGER DAYSというCDを聴いていたら,8曲目の中に突然女性の日本語が入って来てしばらく歌というより何かセリフを言っているという感じが続いたあと,何事もなかったように英語の歌に戻るというのがあって,最近,こんな風にいきなり日本語が入ってくる曲が洋楽の中に多いなあと思ったのでした。

思い出すのが,ニューヨークのW HOUSTON St.にあるAngelika Film Centerで観た,ボブ・ディランの映画「MASKED and ANONYMOUS」(邦題 「ボブ・ディランの頭の中」)という映画です。
いつか書いたことのあるニューヨークの大停電のあった2003年8月に観たのですが,冒頭にいきなり真心ブラザーズのMy Back Pages が流れて来て,びっくりしました。そのときは真心ブラザーズのことは全く知らなかったので,ただ日本語の歌がそのまま使われていることに驚いたのですが,監督はどういう意図でこの曲を使ったのか,詳しい人がいたら教えてほしいものです。

と,ここまで書いて止まっていたら,先日,NHKのクローズアップ現代で由紀さおりの海外でのヒットの分析のような番組をやっていました。日本語で詩を書いているアメリカ人のアーサー・ビナードがゲストで出ていたけど,アンカーの國谷さんとちょっと噛み合っていないように感じました。國谷さんは日本語の音としての響きを外国人がどう感じるのかという視点から訊きたかったのに, アーサーはことばの向こう側にある意味は普遍的なものがあってそれが伝わるんだということを言っていて,
僕の印象では國谷さんはちょっとやりづらかったように見えました。

これも書いたことがあったと思いますが,キンバリーはボストンの大学で,ロシア語を勉強したいと思っていたのが,その年度にはロシア語クラスがなくて,日本語にしたのでした。「ロシア語の響きがとても感情がこもっていてカッコイイ,素敵だと思った。」と言っていました。
じゃあ日本語はキンバリーにどんな風に聴こえていたのか・・・聞きそびれていたことに気がつきました・・・

意識のなくなる前日の6 月11日,キンバリーは「たけし,死ぬのはなんにも恐くないよ。何も後悔していないよ。」と言っていました。日本語でした。彼女は日本語を愛していたと信じています。

2012年2月16日木曜日

1970年6月16日~ルイ・アラゴン

昨夜11時過ぎ。モレスキンのノートに日記(のようなもの)を書き終わったとき,「そういえば,水曜日の夜だからNHKのフランス語講座をやってるな。ちょっと見てみようか。」ということで,テレビのスイッチを入れました。
僕はフランス語も好きで,最近はさぼり気味ですが,リンガフォンのCDを聴いたり,ラジオ講座を自動的に録音するラジオをセットしてときどき聴いたりしています。そういえば,ボヴァリー夫人を英訳を参考にしながら仏語の原書を読むという課題が挫折したままです・・・
大学の第二外国語にフランス語を選択し,1年の最後の試験をボイコットして2年のときに「落ちこぼれたち」の集められたクラスで出会った教師が素晴らしい人で,フランス語文法の基礎をかなりたたき込まれたり・・・その話はいずれまた。

テレビをつけると,おなじみの大好きな講師國枝孝弘(早稲田の法学部在学中にアテネ・フランセでフランス語を学び始めて,フランスに留学し,今は慶應の教師をやっているという人。ロック好きらしく,一度話がしたい人の一人。数年前,東京の新橋にあるジャズ喫茶に深夜行ったら,3人くらいで何だか熱っぽく話をしているのを見かけたことがあります・・・)と,これもおなじみのパトリス(面白すぎるフランス人講師)の顔が・・・

ちょうど「今月のテーマ」のところで,L'amour sans forme  愛 それぞれの形ということで,
Louis ARAGON ルイ・アラゴンのことが紹介されました。
シュルレアリスム運動の創始者の一人で,第二次世界大戦時にはレジスタンスとして活動した詩人。
かなり複雑な不幸な生い立ちで,自殺未遂をしたりしたあとで,生涯の伴侶となるエルザ・トリオレと出逢います。1928年のこと。パリの南西にある小さな町,サンタルヌーアンイヴリンの水車小屋を改築した家に暮らし,そこでおよそ20年をともに過ごしたそうです。

そのエルザが亡くなり,その12年後にアラゴンも亡くなるのですが,エルザの亡くなったのが
1970年6 月16日なのです。   キンバリーと同じ日,キンバリーの40年前の同じ日に亡くなったのです。そして,これが感動なのですが,アラゴンは家にかかっていた日めくりのカレンダーを6月16日のままずっと自分が亡くなるまでそのままにして生き,今も当時のままで残っているのです。

彼にとって,時間はエルザが旅立ったその日で止まっていたのだと思います。
そのあとの12年間,いったいどんな思いで生きていたのか,彼の伝記などを読みたいと思っています。

Les mains d'Elsa   エルザの手  はこんな詩です。

Donne-moi tes mains pour l'inquietude.
Donne-moi tes mains
dont j'ai tant reve.
Dont j'ai tant reve dans ma solitude.

                                                不安な僕に君の手をさしのべておくれ。
                                                僕があんなにも夢見た,
                                                孤独の中であんなにも夢見た君の手をさしのべておくれ。

ユリシーズの1904年6月16日とともに, エルザが亡くなったこの日も,僕にとっての特別な日として残ることでしょう。

今日はキンバリーの月命日。
彼女がいないということが,まだどうしても納得できません・・・
2年前のあの日から,僕の時間も止まっているような気がします・・・

マリアンヌ・フェイスフルのクルト・ワイルを聴きながら

2012年2月7日火曜日

35年の時を隔てて・・・・ロッドスチュワート,浅川マキ~Sailing

車で運転中は,FMラジオかCDを聴いています。
先日夕方,NHKFMをつけたら, 女性ヴォーカルが流れていました。どこかで聴いたメロディ・・・
ロッド・スチュワートのIt's not the spotlightではないですか。この女性ヴォーカルは誰だろう・・・何だか浅川マキのような・・・と思っているうちに曲が終わり,DJのつのだひろが「それはスポットライトじゃない」浅川マキでした,と紹介。浅川マキがこの曲を歌っていたことは全く知らなかったので驚きました。

この曲はRod Stewart のAtlantic Crossing という1975年発売のアルバムに入っている曲。ちょうど大学に入学した年で,東京練馬区の下宿の4畳の狭い部屋で,よく聴いたアルバムです。ロッドのアルバムの中では一番すきなやつ。ラストに入っているSailingが有名ですが,僕は I don't want to talk about it
が一番好きです。しかし,彼の声は今も昔と殆ど変わっていません,驚きです。

このアルバム,2010年の4月から5月, 頭痛や吐き気が出てきたキンバリーを病院に車で送るときに,
いつもかけていました。だから,このアルバムは35年の時 を超えて,キンバリーとの最後に聴いたアルバムとして永遠に残るものになりました。その日以来,車で移動するときは,殆どこのアルバムをかけています。何度も何度も聴いています。多分,世界中でこのアルバムを一番聴いているのは僕だと思います。聴いていると,助手席にキンバリーを感じます。だんだんと体調が悪くなる日々,どんな気持ちでいたのだろう・・・と思うと,涙が出ます・・・

僕があの世に行くときがきたときには,このアルバムのSailing を流してくれるように彩に伝えてあります。

I am sailing, I am sailing
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.

I am flying, I am flying,
like a bird 'cross the sky
I am flying , passing high clouds,
to be near you, to be free.

Can you hear me, can you hear me
thro' the dark night, far away,
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.

We are sailing, we are sailing,
home again 'cross the sea.
We are sailing stormy waters,
to be near you, to be free.

キンバリーのところに海を空を超えて旅立つのです・・・

2012年1月31日火曜日

小澤征爾さんと音楽について話をする~タングルウッドの思い出

最近,評判になっているこの本を読みました。村上春樹とのコラボレーションですが,音楽特にクラシック好きにはたまらなく面白くて,そしてとっても勉強になる一冊です。村上氏がジャズ喫茶マスターだったことは有名で,ジャズ関係の本はいくつも出していますが,クラシックについても実に深く聴き込んでいるということを知りました。
まあ,音楽という大きなくくりで行けば,ジャズもクラシックもロックも,いいものはいいというわけで,僕自身もできるだけ幅広く聴いてきているつもりですが,二人の対話を読み終えて,もっともっと深くクラシックを聴き込みたいと「決意」を新たにしました。

この本の初めのところでは グレン・グールドとレナード・バーンスタインのブラームス作曲ピアノ協奏曲1番が取り上げられて,グールドの演奏のスタイルが本来自分のスタイルとは違うということを演奏前にバーンスタインが聴衆に向かってアナウンスしていることや,カラヤンとベートーヴェンのピアノ協奏曲3番を演奏したのを聴き込んで,そのあと内田光子が弾いたのと聴き比べたりと,実際に聴きながらでないと正確には理解できない話が続いていて,かなりマニアック。僕は取り上げられているCDは一応全部持っているので,改めてじっくり聴きながら二人の対話を味わいたいと思っています。

小澤さんはがんを患ってから体調は万全ではないようで,最近予定されていた指揮を医者の指示もあってキャンセルしたということで心配です。

この本の中で(267~8頁),ブリテン作曲の「戦争レクイエム」を演奏したときに休憩を取ったという話が出てきて,小澤さんは「以前にもどこかで休憩を取った記憶がある,どこだったから思い出せないが,ひょっとしたらタングルウッドだったかもしれない。」と言っているところがあります。

タングルウッドはバーンスタイン,小澤さんとで作り上げてきたと言ってもいい,夏の音楽祭で,札幌のPMFのモデルとなったものですが,キンバリーとの思い出もたくさんある音楽祭です。毎年,夏休みの頃に,キンバリーのアメリカの家族と合流してサマーハウスを借りて過ごすのが恒例になっていました。そして,必ず,タングルウッドにも行っていました。ネットで調べてみると,2006年の8月5日に小澤さんがタングルウッドでマーラーの交響曲2番を演奏しています。そのときに僕たちも聴きに行って,
休憩を取ったと記憶しています。この2番の交響曲については,マーラー自身の指示で第1 楽章の後に少なくとも5分の休憩を入れることとなっているのですが,通常の演奏会では休憩なしで演奏されます。野外コンサートでもあることから,2006年のときには第1楽章の後に休憩を入れたと記憶しています。この本のさっきの発言から,タングルウッドのことを思い出しまた。
野外の広い空間に,シートを敷いて,イスやテーブルを出して,ワインを飲んだり,持ち寄った料理を食べたり,楽しい時間を過ごしました。7月4日の独立記念日のときは,演奏終了後,真っ暗な空に花火が上がって,それを見ながら片づけをして家路に着くのでした。

タングルウッドはクラシックに限りません。
ジェームス・テイラーとキャロル・キングのデュエットにチェロのヨー・ヨー・マが参加するという信じられないくらい豪華な演奏も聴きました。

キンバリーが亡くなってから,タングルウッドに行っていません。
今行ったら,そこにキンバリーがいないことの悲しさだけで胸がいっぱいになってしまうと思います。
いつか,彩と行ける日が来るかもしれませんが・・・

ロリン・マゼール指揮ウィーンフィル  マーラー交響曲9番を聴きながら

2012年1月27日金曜日

キンバリーの三省堂デイリーコンサイス辞典

手元に,三省堂のデイリーコンサイス英和辞典と和英辞典が合冊された辞典があります。キンバリーが愛用していたもので,1991年7月1日発行です。最初の半分が英和辞典,後半が和英辞典。
小口の部分見ると,明らかに和英辞典の部分を何度も引いたのでしょう,手あかで黒くなっています。きっと何度も何度も,分からない日本語を引いていたのだと思います。
ひらがなで「おいらん」という文字が背表紙の内側に書いてあります。
キンバリーは日本の文化にもとても興味を持っていて,ススキノのお祭りのときにやる,花魁道中を見るのが好きでした。一緒に観に行ったことを思い出します。
この辞典の発行された1991年は,キンバリーが北大に留学に来てからそんなに日が経っていないころだと思います。2年間,ボストンの大学で日本語を勉強してから来たのですが,毎日の生活の中で分からない日本語をこの辞典で引き引き生活していたのだと思います。黒くなった部分に,キンバリーの努力している姿が見えてくるような気がします。

この辞典,先日,びっくり部屋に行ったときに見つけました。壁には絵入りのアルファベット文字を書いた紙が順番に張られています。2005年10月にここでびっくり部屋を再開したのでした。その前は,北20条東1丁目にある3階建のビルの2階に部屋を借りて,そこでやっていました。
「びっくり部屋」という名前の由来は,「そこに行くと何かびっくりするような新しい体験ができる場所」というものでした。ちょっとどういうところなのか分かりづらいので,名前を変えたら?と言われたこともありましたが,キンバリーはこの名前が気に入っていたので,変えませんでした。

キンバリーは一戸建ての家に住むのが夢で,真駒内・宮の沢などの中古の家が建っているところを何カ所か見に行ったりしたのですが,なかなかいいところがなく,また,彩が転校することを嫌がっていたこともあって,殆ど諦めていたときに,今の自宅を見つけたのでした。新聞の不動産広告欄を毎日チェックしていたらしく(そのことは知りませんでした),ロケーションがいいのに,何カ月も売れていない物件が気になって,見に行ったところ,そこは1階で「ドッグカフェ」をやっていた家で,1階と2階の両方に大きなキッチンがあるため,普通の家庭には向いていないので売れていないことが分かりました。築3年の家でした。増改築してそこでびっくり部屋をやれるようにするということで購入して,びっくり部屋の部分を増築したのでした。
2009年には体調があまり良くなくて,クラスをすることがなくなったので,約3年間のびっくり部屋になりました。
今びっくり部屋に行くと,子どもたちと楽しくクラスをやっていたときのキンバリーの姿が見えるような気がします。

2012年1月25日水曜日

町内会の新年会~タイガース

22日(日)の午後6時から町内会の新年会に行ってきました。自宅近くの集合場所で北37条付近のホテルのマイクロバスに乗り込んだのは28人。顔見知りの人もいますが,初対面の人が多い。
Tさんが「キンバリーさんの旦那さんです」と紹介してくれました。「お~」というような歓声のような声が・・・キンバリーは僕よりずっと有名でしたが,今もそうです・・・

僕は酒を飲まないので,ウーロン茶で乾杯となったのですが,酒を飲まないということを分かってもらうのにちょっと苦労しました。キンバリーのガンが治るのを祈願して酒を止めたのですが,そのことを説明するのも面倒なので,「飲まないもんで・・・」と曖昧に受け答えしていると,「いかにも飲めそうに見えるんだけどね。」と,体質的に飲めないというような感じになってきたので,そのままにしておきました。

始まって25分くらいで,カラオケタイムになったのにはちょっと驚きました。もう少し話をしてからなのではと思っていたのですが,僕以外はよく知っている関係なので,話というよりカラオケを楽しみにして来ているということが判明。
曲は忘れましたが,ダンスを始める方が出てきて,僕も斜め向いに座っていた熟女(笑) の方に誘われて,ダンスすることになってしまいました。
僕も歌え!ということになり,尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を熱唱(笑)。
最後の方でもう一曲歌え!ということで,沢田研二の「勝手にしやがれ」を。
ウェーブをする女性が数人・・・

ジュリーといえば,タイガースの再結成ライヴがあったと新聞で読みました。写真ではジュリーもかなり太ってしまったようですが,70歳の女性ファンの方の感想もあったりして,青春の思い出としてタイガースを心の糧にしている方がたくさんいるのだと分かりました。

僕の小学6年生の頃はグループサウンズの全盛期でした。赤松愛のオックス,カーナビーツ,
テンプターズ, ゴールズンカップス・・・ジャガーズのキサナドゥの伝説だったかな,この曲が好きでした。その曲がアメリカの曲のカヴァーだとは知らず・・・

新年会では,キンバリーのことが話題になりました。一度しか会っていない女性も, 「元気一杯で明るくて,これからいろいろと交流できると楽しみにしていたのよ」などと言ってくれました。
今朝,びっくり部屋の教室に行ったとき,2008年から9年にかけてのアメリカの大学院の勉強スケジュールについてのファックスに気がつきました。見ているうちに彼女の文字がぼやけてきました。

ヴィヴァルディを聴きながら

2012年1月16日月曜日

町内会~キンバリーの思い出

最近は,町内会というのがどうなっているのか良く分かりませんが,僕の自宅付近の町内会は「それなりに」活動しています。キンバリーと町内会のかかわりについて書いてみます。

今朝,町内会長の奥さんと電話で話をしました。今度の日曜日に町内会全体の新年会が某ホテルで行われることになっていて,私は回覧板の案内に出席するといういことで回答していたのですが,僕の下の名前の方が読めないということで,その確認の電話でした。町内会の新年会に参加するのは人生において初めてのことです。「おひとりさま」になってしまったので,町内の人と少しは面識をもっていないと万が一のときに心配になって・・・というのは冗談ですが(半分くらい本気(笑)),出席する気持ちになったのは,キンバリーのことを思ってでした。

町内会の奥さんが言っていましたが,キンバリーは近所つきあいを大事にしたいと思っていて,町内会の役員にもなったりして,とても積極的に活動していました。今の自宅に移って初めての冬のことでした。自宅が中通にあり,市の除雪が入らないため,雪解け時期になるとシャーベット状になった雪のために車のタイヤが空回りしてしまい,抜け出せなくて大変な目に会ったので,キンバリーは中通沿いの人たちがお金を出し合って除雪を頼むべきだと考えて,町内会の奥さんのところに「ねえねえ,Tさん,皆で協力して除雪しましょうよ」と言いに来たことがあったそうです。今朝の電話で「キンバリーさんは日本人以上に日本人的だったですね」と言われたので,思わず僕は「日本人には彼女のような人はいませんよ」と言っていました。同じようなやりとりが他にもあったことは,以前このブログに書いたことがありますが,彼女のように近所付き合いを大事にしようと考え,そしてそれを実行に移すような人は,
今の日本にはあまりいないと思います(少なくとも,札幌の僕の知っている範囲にはいません)。
「町内の人を誘ってバーベキューとかしたいね」と言っていたキンバリーでしたが,残念ながらそんな機会をもつことはできませんでした。

会長の奥さんのところに行って話し込んでいるキンバリーの姿が思い浮かんで,電話で話ながら涙ぐんでしまいました。新年会で,キンバリーのことをいろいろと話したいと思っています。きっと泣いてしまうでしょうが,なかなかキンバリーのことを話せる相手がいないので,少し楽しみにしています。

マーラー交響曲第9番     ジュゼッペ・シノポリ指揮フィルハーモニー交響楽団  を聴きながら

2012年1月13日金曜日

高峰秀子のエッセイ

高峰秀子の「にんげんのおへそ」(新潮文庫)を読みました。久しぶりに素敵なエッセイを読んだという感じです。同じときに文庫化されて出た「私の渡世日記」上・下も読む予定です。
5歳から映画界に入り,小学校に数十日しか行っていないというのに,その文章のうまいこと!技術的に上手いというより,彼女の人間性が実に的確な表現で文章に現れているという感じで ,文才とはこういう人のことをいうのだなあ・・・と感じ入りました。

高峰さんは,成瀬巳喜男の映画 「流れる」「女が階段を上るとき」「めし」「浮雲」その他で観ていて,とても好きな女優です。ただ代表作の一つである「二十四の瞳」を観ていないという恥ずかしい状態なので,近いうちに観たいと思っています。
彼女の本を読みたいと思ったのは,昨年12月に函館の裁判に行くとき,札幌駅の本屋に立ち寄ったとき,彼女を特集している「芸術新潮」を買ったのがきっかけでした。彼女は函館生まれで,母親を亡くし,
5歳頃から養母に引き取られて東京の鴬谷で生活するようになったのですが,その養母という人がとんでもない人で, スター女優となった高峰さんの収入を吸い取って生きたような人でした。その人の浪費の仕方も物凄いものがあります。

文筆業で生活できたらいいなあ・・・と思います。そうすれば,アメリカで彩と一緒に暮らすことができるのに・・・ニューヨークに住んで,早朝から午前中は執筆,その後は美術館・書店巡り,夜は音楽・芝居・・・
妄想が膨らんできます・・・

The Flying Burrito Bros   ANTHOLOGY 1969-1972  を聴きながら

2012年1月12日木曜日

DM ダイレクトメール

ときどき,キンバリー宛のダイレクトメールが届きます。英語クラスの教材関連・デパートなどのセールの案内・化粧品会社etc

連絡しないかぎり,これからもずっとこういうダイレクトメールは来続けるのでしょう。僕のような状況になったとき,他の人はどうしているのかなと思います。連絡して今後は送らないように伝えるのでしょうか。
そんな気にも なれないため,今までずっと来ているのですが,宛て名を見るときに感じる,言いようのない哀しみのことを考えると,いつまでも続くのに耐えられなくなるときが来るのかもしれません。

司法研修所の同じクラスだった東京の弁護士からキンバリーの名前も併記された年賀状が来たので,メールで事情を伝えました。ときどき, 彼女が亡くなったことを知らない,久しぶりの知人からの手紙などが来ることがあり,そんなときは,連絡をするようにしています。

2012年1月9日月曜日

カントリーミュージック

事務所に来て,何か普段聴いていない音楽にしようと思って,いろいろ探してみたら,George Strait のTroubadour (吟遊詩人)が目についたので,かけています。2008年に出た比較的新しいCDで,その頃,
最近のカントリーミュージックは昔とはかなり違って来ているという話を聞いて,タワーレコードで数枚買ったことがあるのを思い出しました。買ったものの,あまり聴いていませんでした。

カントリーミュージックはアメリカをドライヴしながら聴くのが最高だと思います。
キンバリーとドライヴしたとき,ラジオからカントリーミュージックが流れて来て,アメリカにいるんだという実感がじわじわと沸き上がってきたのを思い出します。音楽にはいろいろな種類がありますが, その音楽が生まれた場所で聴くのが一番その音楽にふさわしいと感じられる音楽があると思います。カントリーはそんな音楽のひとつかもしれません。

でも,札幌の冬にかかっているカントリーから,想いはアメリカに飛んで行って,キンバリーといつか行きたいねと言っていたナッシュビルのことが浮かんできていますから,どこで聴いてもいい音楽はいい!
ナッシュビルとカントリーといえば,クリント・イーストウッド監督・主演の「センチメンタル・アドヴェンチャー」Honkytonk man が浮かんできます。東京時代,池袋の文芸座で観て,ボロボロと泣いてしまった映画です。結核で最初で最後の録音をしながら血を吐いて亡くなってしまうカントリーシンガーをイーストウッドが演じています。息子のカイルとの初共演だったと記憶していますが,カイルはジャズベーシストとして何枚かアルバムも出しているミュージシャンになっています。
この映画の中のイーストウッドは,実は冒頭の登場シーンから死んでいて,幽霊となって甥ッ子のカイルを一人前の大人にするために彼をナッシュビルまでの旅に連れ出したんだ・・・というのが僕の解釈です。

彩から学校の宿題で書いた,読書感想文が2つメールで送られてきました。
3つの質問に答えることが求められています。

①主人公のキャラクターについて,いつどこでストーリーが展開するかとともに説明せよ。
②主人公・ストーリーを通じて,作者が生きていくということについて伝えようとしているテーマ・メ  
ッセージについて述べよ。テーマについては,この本を通じて,私たちが人生について何を学  
ぶことができるかという観点から述べること。
③上記テーマやメッセージとあなた自身の人生とのつながりについて,具体的な例を挙げて説 
明せよ。



一読して,ぼくがこれだけのことを書くのには相当時間がかかるし,英文もこんなに「英語らしく」 
は書けないないなあ・・・と嬉しい驚きでした。いつの間にこんなに書けるようになっていたのか・・・
ちょっと悔しい気持ちもあるので,書く英語に本気で取り組もうと思っています。

日本語のことが心配で,漱石読んでるかい?とかつい言ってしまい「今はこっちの学校に追いつ
くのに大変なんだから,もう少し待ってよ!」と嫌がられています・・・


    

2012年1月7日土曜日

ソラリス

ポーランドの作家,スタニスワフ・レムの「ソラリス」を読み終わりました。
沼野充義が初めてポーランド語の原典から翻訳したものです。これまでに出ているものは,ポーランド語からロシア語に翻訳されたものからの日本語訳だったため,ロシアでの検閲で削除されたような部分がかなりあったということです。かなり長くて,並行読書のためもあり,読み終わるのに時間がかかりましたが,面白かったです。

ソラリスはこれまでにタルコフスキーやソダーバーグらによって映画化されています。
その影響でしょうが,亡くなった恋人とうり二つの女性が,その名前を名乗って主人公ケヴィンの前に現れるという設定を,ロマンティックなストーリーなんだと思いながら読み進めるとその期待は大きく裏切られました。この小説は,人間側の作った基準からは絶対に理解も了解もできない存在との遭遇がテーマで,これをロマンティックな物語として映像化した二人の監督に対して,レム自身は非常に不満で批判的だったようです。

確かに作者の意図はそうなのでしょうが,僕はロマンティックな読み方もいいと思っています。
ソラリスに行って,キンバリーに出逢いたい・・・そう思うのは病的でしょうか・・・

夫の仕事の関係でスイスに在住している,キンバリーとの共通の知人からメールがきました。
空港でのことですが,キンバリーのこともよく知っている息子さんが「あっ,キンバリーだ! 」と思わず叫んだほど,キンバリーに顔も・服装もそっくりな女性を目撃したというのです。亡くなったというのは間違いで,実は外国に住んでいたんだ・・・と思うほどよく似た女性だったようです。

もしそこに僕がいたらどうしただろうか・・・
キンバリー本人であることは絶対にあり得ない,でも,どう見てもキンバリーがそこにいるとしか思えないような女性に出逢ったら・・・・
声をかけずにはいられないと思います。きっと,迷惑がられるでしょうが・・・
世界には自分と瓜二つの人が一人はいるといわれます。その女性はその一人だったのかもしれません。いつか出逢うことがあるかもしれない・・・

ジミ・ヘンドリックス   未発表デモテープ集を聴きながら

2012年1月6日金曜日

ぎっくり腰

新年早々ぎっくり腰をやってしまい,昨日は一日寝ていました。ようやく鎮痛剤を飲めば動けるようになっています。駐車場に停めてあった車に戻ったとき,前輪のあたりに凍った雪が溜まっていたのを足で落とそうと蹴ったところ,腰に違和感が走り「あっやばい」と思ったときは既に遅く,ようやく運転して帰ってきました。ぎっくり腰になったのはこれで4回目です。
初めては,彩が小学3年の頃でしたが,運動会で綱引きをした後でした。キンバリーも一緒に一生懸命綱引きしたときで,少し時間が経ってから発症して大変な目にあいました。キンバリーはぎっくり腰の経験はありませんでした。

ということで,あまり幸先の良くないスタートですが,この後はスムーズに時間が流れるように願いたいところです。
では

2012年1月1日日曜日

新年おめでとうございます

大晦日は,夜9時40分上映のNew Year's Eve を観てきました。結構広い館内に観客は10名くらいでしょうか,一人で観ていたのは僕だけでした。
タイムズスクエアのカウントダウンでボールを落とすのですが,2009年から2010年にかけてのときに,リサの別荘でキンバリーや彩と一緒にテレビで観ていたことを思い出していました。最後の新年になるとは夢にも思っておらず,ノートに「来年も来れたらいいね」と書いていたキンバリーでした。

映画は予想通り?たいしたことはありませんでしたが(クリスマス直前のさまざまな人間模様を描いたラヴ・アクチュアリーの方が数倍良い出来です) ニューヨークの懐かしい場所がいくつも出てきて,楽しめました。ラストの方で,Stardust という店が出てきましたが,ここはブロードウェイを目指す役者たちがウェイター・ウェイトレスをしている店で,食事や飲み物を運んだりしながら,唄いだすのです。それもさすがブロードウェイを目指すだけあって,とっても上手で,初めて聴いたときは,てっきりレコードか何かを流していると思いました。まだキンバリーのガンが分かる前の新年に,ボストン在住のキンバリーの幼なじみで親友のパムとその娘と一緒に行ったのが初めてでした。

正月という気分はまったくなく,いつもと同じく,朝起きて,味噌汁を作って,朝食後は音楽を聴きながらユリシーズその他の読書。
キンバリーのいない世界は,色のない,無味乾燥な日常が続くような感じです。

何か明るいことを書けるような年になれればいいのですが。


今年もよろしくお願いいたします。