2011年12月27日火曜日

森田芳光監督

森田監督が20日に逝去されましたが,そのニュースを聞いてかなりびっくりしました。何か予感がしていたとしか思えないことがあったからです。

3週間くらい前ですが,自宅のDVD の中から,何か見たい映画がないか探していたとき,森田監督の「それから」が目に入りました。夏目漱石原作の映画化で,大分前に買ってあったのにまだ観ていないなあ・・・と思い,「そういえば,最近森田監督の名前聞かないような気がするけど,まさか亡くなってはいないよなあ・・・」と気になって,ネットで調べてみました。
亡くなったという情報はなく,僕が知らなかっただけで,最近も何本もの映画を撮っているいることを知りました。何かホッとした気持ちになり,東京で観た「家族ゲーム」のことを思い出して,あの映画にはぶっ飛んだなあ・・・と懐かしく思い出していました。松田優作の演技も凄かったけど,伊丹十三も印象的でした。目玉焼きの目玉が口で吸えるくらいでなければいけないのに,それが固く焼けすぎていて,  何度もチュッと吸いついているシーンが浮かんできました。

「それから」を観はじめたのは,17日頃でした。寝る前の細切れ鑑賞なので,彼の訃報を知ったときは,まだ終わっていませんでした。

61歳ということです。
テレビで観た北川景子の号泣が印象的でした。
合掌

2011年12月22日木曜日

キンバリーが46歳になりました

キンバリーの46歳の誕生日です。今朝,キンバリーがやっていた「びっくり部屋」の女の子の生徒さんから花が届きました。カードに写真がついていたので,誰か分かりました。とっても明るくてキンバリーにくっついていた女の子です。2008年の今日,キンバリーは自分のために,バースディディスコパーティを開いて,たくさんの友人・子どもたちが楽しい時間を過ごしました。犬たちの散歩の途中でよく寄った北23条の喫茶店の2階を借り切って,たくさん踊っていました。踊るのが大好きなキンバリーでした。2009年の10月にはフィリピンの人たちが開いたディスコパーティに行って,1時間以上踊っていました。ほんの少しだけそのときのビデオが残っています。でも,その後,ガンが関係していると思いますが,足首が痛くなり,歩くのにしばらく苦労していました。それでも,楽しい時間を持てたことをとても喜んでいました。
アメリカで産まれたキンバリーなので,正確にはまだ誕生日にはなっていません。アメリカはあと少しで22日になります。
キンバリーの好きだったチェリーメリーのケーキを買って,今夜は二人でお祝いするつもりです。


ところで,1969年~のブログへの投稿が2件あることに先日気がつきました。全く(殆ど)反応を期待していないので(全くなかったわけではないので,ちょっと失礼かれしれません),気がつくのが遅れてしまいます。

そうでした。モコ・ ビーバー・オリーブでしたね。曲名は当時気にしなかったのか,全く記憶していなくて「海の底で歌う歌」だということを初めて認識しました。
早速,ネットで調べてみると,僕と同じように思い出の曲として記憶しているひとがかなりいるようです。記憶していた歌詞は,ところどころ違っていましたが,頭の中で再生可能な状態で残っています。

この曲にひかれた理由といっても,明確に覚えていません。ただ,曲のイメージが幻想的で,いろいろと歌の内容を映像化して聴いていました。これは記憶違いなのかもしれませんが,テレビに3人が出演して,海藻が揺れるような海の底ををイメージしたスタジオで歌っているシーンを見たような気がするのですが,そんな事実はあったのでしょうか。どなたか分かるひとがいたら教えてください。

Miles Davis    BAG’S GROOVE を聴きながら

2011年12月20日火曜日

史上最大の作戦~記憶の変容について

少し前のことですが,「史上最大の作戦」をDVDで観ました。長い映画なので,1週間くらいかかりました。寝る前の細切れ鑑賞だとそうなってしまいます。この映画は1962年12月8日に日本で公開されたとのことです。東京と札幌が同じ日に上映開始となったのかは分かりませんが,この映画は公開当時に観ました。ススキノ南4条西1か2丁目に大きな映画館があって,そこに父親に連れられて観に行ったことを覚えています。ものすごく混んでいて,立ち見がたくさんいるので,6歳の私は大人たちの間になんとか身体をもぐり込ませて観たと記憶しています。最近の映画館は立ち見ということはできなくなっているので,今の若い人には想像がつかないかもしれません。

この映画を観ようと思ったのは,自分の記憶を確認したいという理由がありました。
記憶では,こんなシーンがありました。
      ジョン・ウェインが隊長役で,ノルマンディ上陸後に行進しているとき,道路脇の十字架のように  
組まれた木に兵士の死体がキリストのようにくくりつけられている。そこで,ジョン・ウェインが何
か叫ぶように部下に言っている・・・

ノルマンディ上陸作戦を描いた映画ですが,上陸直後にドイツ軍の機関銃で死んでしまう兵士,パラシュート部隊の兵士が風に流されたりしてドイツ軍基地の上に下りてしまってすぐ射殺されたりするシーンがたくさんあって,気が重くなりました。映画がどんどん進んでも記憶にあるシーンは出てきません。
もしかすると記憶違いなのかなあ・・・と思っていると,殆ど最後のところで出てきました。
しかし,十字架に兵士がくくりつけられているのではなく,パラシュート部隊の兵士が木にひっかかってぶら下がった状態で死んでいるシーンでした。そして,ジョン・ウェインが「いつまであんな状態にしておく気だ。はやく下ろしてやれ」と命令するのでした。また,記憶ではジョン・ウェインは歩いていたのですが,実際には足を悪くしてトロッコのようなものに乗って,部下が押しているのでした。

49年の歳月を経て,記憶の確認ができました。
今思い出しました。キンバリーとこの映画の話になったことがあって,自分の記憶について確認したいんだ・・というような会話をしたことがありました。結局,一緒に観ることはできませんでした。

キンバリーは去年の2月頃から4月末くらいまで,午前中などに一人で映画を観に行っていました。
どんな気持ちで観ていたのか・・・
2009年11月頃に肝臓への転移が分かって,抗ガン剤を再開していました。「これからずっと抗ガン剤とは離れられないんだね」と言っていましたが,がんと一緒に「共生」して行くんだと思っていました。まさか,あんな経過をたどることになるとは誰も夢にも思っていませんでした。

最近,事務所で音楽を聴くことが少なくなっています。
何もかかっていません。

2011年12月16日金曜日

1969年~夜明けのスキャット,真夜中のカウボーイ・・・

由紀さおりがアメリカなどで大人気になっています。先日,ニューヨークにいるステージ直前の彼女と電話で話すのをテレビでやっていました。タイムズスクエアのすぐ近くにあるタウン・ホールでマチネーで1回目のステージがあって大成功だったようです。このタウン・ホールはニューヨークでもかなり古いホールで,5年前にビートルズのコピーバンドのライヴを聴いたことがあります。

ヒットしたのは1969年。中学1年のときで,ラジオから毎日流れていたことをよーく覚えています。夜の10時くらいにあった番組でよくかかっていて,そのときの自分の部屋の様子などが目に浮かんできます。いしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」も同じ年の大ヒット曲だったということですが,この曲は,小学校6年生のときに卒業を控えたクラスのお楽しみ会のようなものがあって,そのときに友人の一人を相手にして面白おかしく踊りながら歌ったことを覚えています。自分で言うのも何ですが,結構受けていました。
 脱線しますが,同じ頃にヒットしていたこんな歌詞の曲(3人組の女性たちの歌)が分かったらどなたか教えてください。
     わたしたちが逢ったのは,静かな海の底
     わたしたちのゆくえは誰も知らない

偶然ですが,1969年の映画をおとつい観終わりました。「真夜中のカウボーイ」です。日本公開のときに,記憶では狸小路1丁目にあった帝国座かその地下のスカラ座で観たと思います(須貝ビルの札幌劇場かも・・・)。中学1年でした。第42回アカデミー賞の作品賞を受賞していますが,「成人映画」の指定を受けた映画としては唯一の受賞作品だということです。ちなみに日本では今のようなPG12,15というようなレーティングシテテムがなかったので,誰でも観ることができました。

テキサスからハスラーでやっていこうと出てきたジョー(ジョン・ボイト)とブロンクス出身の足の不自由なリコ(ダスティン・ホフマン),ニューヨークの厳しい現実に極限まで追い詰められ,瀕死のリコが夢見ていたフロリダにバスで向かう二人。しかし,フロリダに着く前にリコは亡くなってしまいます。
バスの運転手に「彼の目を閉じてあげなさい」と言われて,そっとリコの瞼を閉じてあげたときのジョーの表情がとても印象的でした。そして,リコの肩に手を回して抱きかかえるジョー・・・

このシーンを観たとき,キンバリーのことを思い出して,涙があふれました。
去年の6月16日午前2時44分に逝ってしまったキンバリー。身体きれいにしてあげて,服を着せてあげたあと,彼女を抱いて話しかけたときのことが甦ってきました。ほんの少し前まで息をしていた彼女が,まだ暖かい体温が残りながらも,ただその身体の重みを感じることしかできなくなっていることが,本当のこととは思えませんでした。
今日で,彼女が旅立ってからちょうど1年半がたちました。

彩はアメリカの学校にも少しずつ慣れて来ているようです。宿題が多くて大変なようです。
週に2~3回,中学校の教師が,彩の勉強を見に来てくれています。精神科医のセラピーも受けています。アメリカに行ったのは正解だったのだと思います。

 真夜中のカウボーイ主題歌
「うわさの男」 Everybody's Talkin'   を聴きながら
(映画ではニルソンの歌が使われていますが,この曲の作詩・作曲者であるフレッド・ニールで)

2011年12月13日火曜日

FOR WHOM THE BELL TOLLS ~誰がために鐘は鳴る

アーネスト・ヘミングウェイの1940年発表の有名な小説です。スペイン内戦を舞台にして,ロバート・ジョーダンとマリアの恋を描いたもの,ということですが,実は,通読したことはありません。
最近,原書で読み始めているところです。自宅には2冊の原書があります。一冊は,3年くらい前にアマゾンで購入したものです。読み始めているのは,それではなく,相当読み込まれ,書き込みやアンダーラインのあるかなり古い本の方。キンバリーの蔵書です。自宅の書棚の中に,キンバリーがアメリカの自宅から持ってきた本が並んでいるところがあります。CATCH 22やカート・ヴォネガットとか,キンバリーがアメリカでの学生時代に読んだ本の中からお気に入りのものを日本に送ったり持って来たりしたものが納まっています。先日,何となく書棚を見ていたら,この本が目に入り,手に取ってパラパラとめくってみると,ところどころにキンバリーのメモやアンダーラインがあり,彼女が読んだ軌跡をたどって行けば,キンバリーと一緒にいられると思い,並行読書の一冊として読み始めたというわけです。
値段は$1.95  発行元は,この小説の初版元 であるCHARLES SCRIBNER'S SONS。値段からもかなり古いものであることが分かります。

キンバリーの書き込みは,正直なところ判読はかなり難しく,何を書いているのかはよく分かりません。それでも,キンバリーの筆跡を見ながら,そしてその文字を指でたどりながら,この本を読んでいるときのキンバリーの姿を想像しながら,一緒にそばにいるような感じを味わいながら読んでいます。
脱線しますが,アメリカの彩が,学校の先生の板書の文字が全く読めないと言っていました。日本の学校の先生の板書が,字が汚くて読めないということはまずないでしょうが,筆記体に慣れていない彩にとっては,板書の文字が判読できなくて困っているようです。

キンバリーがこの本を最後まで読んだということは,471頁ある本の469頁のところに書き込みがあることから分かります。13頁に  「まるでベラスケスの絵から出てきたような美しい馬だった」という文章があって,そのVelasquez のところにアンダーラインが引いてあります。「ラス・メニーナ(女官たち) 」などで有名なスペインの画家ですが,キンバリーがいたら,一緒に画集を見ながら話ができるのになあ・・・と思いながらしばしその名前のところで立ち止まってしまいました。

今,英語の本はジョイスのUlysses, ポール・オースターのSunset Park, デイヴィッド・ハルバースタムのThe Children, ジェーン・オースティンのPride and Prejudice,ナボコフの短編集  などを読んでいます。Ulyssesはようやく245頁まできました。長い道のりです。
最近,シャーロック・ホームズが仲間入りしました。まず,最近出ている新訳で読んでから,原書を読むという変則的方法で読んでいます。中学生の頃,ホームズに夢中になった時期がありました。懐かしさとともに,新しい発見もあり,楽しんでいます。

キンバリーがいたら,分かりづらい英語のニュアンスについて訊いたりできるのになあ・・・

Love you
Miss you so much

Beethoven     Violin Concert     Thomas Zehetmair (Vn)
                       Orchestra of the 18th Century
                       Conducted by Frans  Bruggen

2011年12月8日木曜日

君のいない食卓~川本三郎

昨日,札幌駅のステラプレイスにある三省堂書店に行きました。最近は紀伊国屋を利用することが多いのですが,駐車場の割引が三省堂の方がお得なので,紀伊国屋書店の駐車場に停めて,2階のイノダコーヒーで本を読んだりしたあと,三省堂に行くことにしました。お得というのは,紀伊国屋では2000円以上購入すると1時間の無料券がもらえるのですが,三省堂だと2000円以上で2時間無料のスタンプを押してもらえるのです。カフェがある書店としては,三省堂と同じように2時間くらいは無料にしてもらいたいと思うのですが,紀伊国屋のご検討をお願いしたいと思います(笑)。

三省堂で購入した3冊
①君のいない食卓  川本三郎 (新潮社)
②漱石の俳句・漢詩  神山睦美 (笠間書院)
③絶望名人カフカの人生論  (飛鳥新社)

①は「いまも, 君を想う」に続く,亡妻との思い出を食事に触れながら綴ったエッセイ集。
②は,漱石の短詩型のものもとてもいいと思っていたところで,グッドタイミングで見つけた本。
③は前向きに生きる力のヒントがありそうという直感に従って購入。

今日はジョン・レノンの命日。
キンバリーの誕生日が近づいてきています。

2011年11月29日火曜日

ニューヨークから札幌へ

ニューヨークから戻ってきました。

娘とリサのマンションの前でハグをしてイエローキャブに乗り込み,JFKへ向いながら,しばらくは逢えない彩のことを考えながら,遠ざかって行くエンパイアーステートビルやクライスラービルを見ながら,キンバリーとニューヨークの思い出でに浸っていました。この時期にしては暖かいニューヨークでした。
これから日本に帰って一人の生活が始まることを考えて暗い気持ちで空港に着き(運転手がターミナルを間違えて余計な1周をしてANAの入っている7番ターミナルに到着)チェックイン手続きのときに,
ちょっとだけラッキーなことがありました。ヒスパニック系の男性係員が,「530ドルでビジネスクラスにアップグレードできますが」ときいてきたのです。一ドル78円として4万円と少し。それでビジネスは超お得ということですかさず I’ll take it.
ビジネスは,昨年の6月1日にキンバリーと最後のアメリカ行きをしたとき以来でした。
エコノミーとは「天国と地獄」くらいの差があります。完全にフラットになる座席なのでぐっすりと眠ることができました。ヘッドホンは「ノイズキャンセリング機能」がついたもの。先日,ルフトハンザでヨーロッパに行った友人によると,そちらはファーストクラスだけがノイズキャンセリング付きだったとのことです。
そして,さすがは日本の航空会社だと思ったのは,トイレがウォシュレットだったことです。

冷えきった自宅に着き,切ってあったボイラーのスイッチを入れて,何日かぶりの日本のテレビをぼんやりと見ていました。彩もいなくなって,一人になったんだなあ・・・

先日,2匹いる犬のうち,ロイ(フラットコーテッドレトリーバー)の貰い手が見つかったので,連れて行ってきました。キンバリーが札幌ファクトリーのペットショップで一目惚れして生後3ヶ月くらいで我が家にやってきたロイ。新しい飼い主は,最近老衰で10年以上一緒にいた愛犬を亡くした方で,一緒に寝ていますとその後連絡があったくらい大事にしてくれる方で,ロイにとっても幸せだったと思います。さよならをするとき,僕の方を見て,「どうして行っちゃうの?これって何?」というような目で僕を見ていたロイも,きっと幸せな日々を送っていると思います。
1匹残ったライ(ビーグル)の貰い手も探しています。どなたかいたらご連絡ください。

ビル・エバァンス   パリコンサートvol 2を聴きながら

2011年11月21日月曜日

ニューヨークから

18日に彩と二人でニューヨークに来ています。彩がコネチカット州ウェストハートフォードの叔母(キンバリーの妹)の所で暮らすことに急遽決まり、急いでやってきました。札幌よりずっと暖かいニューヨークです。
グリニッジヴィレッジにあるキンバリーの親友リサのマンションに滞在。ここは、95年に出逢ったあとニューヨークに戻ったキンバリーが間借りしていたところで、僕が逢いに来たときに滞在したところで、わが家のような場所。
いつものように、近くのユニオンスクエアにある書店に行って本を買ったり、ブラブラと散歩して、しばらく逢えなくなる娘との時間を過ごしています。昨夜は、ビレッジバンガードに初めて彩と行ってきました。
こちらで生活しながら、母親を亡くした精神的ダメージを克服してほしいと思っています。

2011年11月11日金曜日

きままにクラシック~ブラームス交響曲第4番

NHK-FM で「きままにクラシック」という番組があって,月曜日の朝と金曜日の午後に放送されています。月曜日の方が再放送だったと思いますが,笑福亭笑瓶とソプラノ歌手の幸田浩子さんが進行役をやっていて,なかなか人気のある番組で,月曜日の朝によく聴いていますが,先週は金曜日に車の運転中に聴いていました。

番組の中にイントロクイズのコーナーがあります。クラシックの曲の冒頭部分をほんの少しだけ流して,その曲名を当てるというものです。
先週はブラームスの交響曲第4番でした。ラジオをつけたとき,その第1楽章が演奏中でした。それがとても良い演奏で,指揮者・オケは誰かな?と思っていると,「ただいまの演奏はクラウディオ・アバード指揮ベルリン・フィルハーモニーでした。」と紹介。「アバードのブラームスってこんなに良かったのか」と感心していると,この曲名を当てた人のハガキの内容が紹介されました。

新婚時代のことです。自宅に風呂がなかったので,妻と一緒に銭湯に行っていました。そして,私 
が支度ができたとき,口笛でこの曲を吹いて妻に知らせるのが私たちのいつもの習慣でした。


「へぇー,ブラームスの交響曲を口笛で吹いて合図にするなんて凄いなあ・・・」と思って聴いていると,
妻は亡くなってしまいましたが,この曲を聴くとあのころを思い出します。

と続いて,その瞬間,涙があふれて来ました。

それ以上のエピソードなどは紹介されませんでしたが,その方がどんなに悲しみにくれたかを想像して,悲しくて仕方ありませんでした。

キンバリーと音楽の思い出もたくさんあります。いつか書きたいと思います。

ハイドン 交響曲「オックスフォード」 チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルハーモニーを聴きながら

2011年11月6日日曜日

和田 誠~五・七・五交遊録

和田誠の「五・七・五交遊録」(白水社)を読みました。俳句を通した友人たちとの交遊についての文章がおさめられていて,気楽に楽しく読ませてもらいました。
俳句はHaiku としてアメリカなどでも結構盛んに作られていて,大きな書店に行くとコーナーがあったりします。読んでみると面白いです。いつか,ブログで紹介したいと思います。

和田誠氏は,村上春樹の本の装幀や挿絵で親しみのある人でしたが,俳句もやっていて,その関連の本もたくさん出していることを,この本を読んで知りました。紀伊国屋札幌本店の俳句・短歌・詩のコーナーはよくチェックに行くようにしていますが,6月にこの本が新刊で発売されたときに購入したのです。
並行読書なので, 読み終わるのに時間がかかりました。

僕は谷川俊太郎の詩が大好きで,大学時代から継続して彼の詩は読んでいますが( 東京での司法試験浪人時代に彼の「日々の地図」という詩集に心が救われたことがあります。),俳句・短歌という形式にはあまりなじみがありませんでした。詩よりも何だか作りやすいような気がしましたが,実際にはなかなか難しいと思います。

 この本の最後に,句会で「日傘」という席題が出たときの句があります。

    夢の中なれば母若くして日傘

  僕にも一つだけ「日傘」の句があります。


       遠目にも  想ゆる女性(ひと) の日傘かな


        東京の下宿の窓から,暑い夏の日ぼんやりと遠くを見ていると,はるか彼方に日傘を手にした女
   性がこちらに向かって歩いて来る。待ち焦がれた愛する女性が・・・顔は見えないけれど,日傘から
   その女性だと分かる・・・


       というイメージを詠んだものです。
      実際には,恋人などいなくて,「きっといつか出逢うひとがこの日本のどこかにいる」などと少し恥ずかしいくらいロマンチックな気持ちになっていたように思います。

      そのころは,まさかアメリカ人女性と出逢うことになるなどとは夢にも思っていませんでした。
     
      部屋があまりにも乱雑になってきたので,ちょっと整理をしていたら,キンバリーの2007年のスケジ
   ュールノートが出てきました。びっくり部屋のクラスのスケジュールなどが書いてありました・・・
      キンバリーが残した, 彼女が生きていた証のような品々に,思いがけずに出逢うことがあります。
   スーパーのレシート,高速道路の領収書・・・・日付や買った物を見ながら,キンバリーがそのときどうしていたのか,何を料理したのかなとか,車の運転をして料金所で料金を支払って領収書を受け取っている姿などが目に浮かんできます。彼女がいたということだけで,どんなに幸せだったのか・・今更ながら思い知らされています。

   モーツァルト 交響曲40番   チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルを聴きながら

2011年11月2日水曜日

ニューヨーク大停電(その後)

既に書いたことがあるかもしれませんが,調べるのも面倒なので( すみません),ワシントンスクエアホテルから真っ暗なグリニッジヴィレッジに一人出て行ったところから書きます。

まだ時間は夜の10時くらいで,寝るのも早すぎるので,一人で外の様子を見に行くことにしました。キンバリーは「危ないかもしれないから気をつけて」と言ってくれました。僕は予定していたライヴが停電の中では不可能だということで,すべて中止になっていたのは分かっていましたが,きっとどこかで音楽に出逢えると信じて,南に向かって歩き始めました。ボブ・ディランがニューヨークに出てきて初めて演奏したライブハウスなどが並んでいるブリーカーストリートに向かいました。ブリーカーストリートはサイモンとガーファンクルやフレッド・ニールなども歌にしている,特にフォークミュージックの世界では有名な通りです。

しかし,ブリーカーストリートは真っ暗で,どのライヴハウスも閉まっています。
6番街にあるブルーノートにも行ってみましたが,当然のようにクローズ。電気なしでは店内は真っ暗で,マイクなどの機器も使えないのでライヴは成り立たないし,冷蔵庫なども使えないとあっては,料理も作れない・・・しばらく歩き回ってみましたが,どこもやっていない。諦めかけたとき,どこからかサックスの音が流れてくるではありませんか。その音に向かって,少し風の出てきたビレッジを歩いて行くと,半地下のようになっている店に行き当たりました。少し曇ったガラス窓を通して,中に人がいるのが見えました。入って行くと,アルトサックス・ドラムス・生ギター・ヴォーカルの演奏中。明かりは店内のあちこちに立てられているロウソクだけ。入って行くとバーテンの男性がHiと声をかけてきて,僕はカウンターに座ってビール(確かサミュエルアダムズだった)を注文。バーテンは「冷蔵庫がとまってるので半額でいいよ」と言って,ボトルを僕の目の前に置いてくれました。ちゃんと冷えてるビールでした。

客は僕を入れて10人もいませんでした。アコースティックな雰囲気で,ジャズっぽい,でもちょっとフォークっぽい演奏が,ロウソクだけの薄暗い店内で続きました。忘れられない一夜でした。

後日談ですが,同じ年(2003年)の12月にニューヨークに行った際に,その店に行ってみると,閉店していました。ニューヨークで店が変わってしまうことは良くある話ですが,とっても残念でした。

予定が変わり,8月15日はニューヨーク郊外のキンバリーの叔母の家に泊まり,16日発の飛行機で日本に戻って来ました。叔母からのプレンゼントということでTシャツをもらいました。大停電の翌日の15日に売られていたものですが,こうプリントされています

        I SURVIVED HISTORICAL 

BLACKOUT
         (ここにニューヨークの摩天楼のシルエット)
NEW YORK CITY 
AUGUST 14TH ,2003


電気の通っているどこかで,「これはチャンスだ」とTシャツをせっせっと作っている人間がいたんだなあ・・・とあきれるやら感心するやら・・・

   キンバリーと,あのときのことを思い出しながら話ができたらどんなに楽しいか・・・
   最近,以前にも増して,iPadに入っている彼女の写真を見ています。逢いたくてたまりません。


Cyrus  Chestnut(p) Blessed Quietness    を聴きながら

       (結婚して間もなくの頃,ボストンで彼女と一緒に聴いたジャズ・ピアニストです)

2011年10月28日金曜日

二つのアップル~ポール・マッカートニー,リンダ, スティーヴ・ジョブズ

 アップルといえば,先日亡くなったスティーヴ・ジョブズのアップルコンピューターのことを思い浮かべると思いますが,僕が中・高生の頃(1969~74)はビートルズが自分たちで作った会社のことでした。ジョブズはビートルズが大好きで,それでアップルのロゴを,ちょっとだけ齧ったリンゴのデザインにしたということです。

彼が亡くなったことを知らされたとき,涙ぐんでしまいました。
アップルのパソコンはキンバリーが愛用していたし,ブログにも書きましたが,札幌のアップルストアに通ってホームページの作り方などを教えてもらっていたキンバリーが亡くなったことを知った担当者が涙を流してくれたことetcが関係していたのだと思います。結婚してから,毎年,実家やニューヨークのリサのところに行っていましたが,キンバリーはいつもアップルのパソコンを持って行っていました。
彼女の残して行ったパソコンの中に入っているたくさんの写真を,iPad2に入れて時々見ています。

スティーヴはがんであることが分かったあと,手術や化学治療は行わず,マクロビオテックの食事療法をしたようですが,そのことを後悔していたと記事で読みました。
キンバリーも手術後の抗ガン剤治療が終わったあとは,骨転移があった以降も,抗ガン剤治療はせずに,いわゆる代替療法をしていたのですが,彼女のがんの進行を止めることはできませんでした。キンバリーは抗ガン剤治療によって,日常生活に不都合な体調となり,かえって余命を短くしてしまう結果となってしまうことを避けたいと考えていました。2008年は「びっくり部屋」のクラスも再開することができましたが,厳しい抗ガン剤治療をしていたらそれもできなかったかもしれません。子どもたちと過ごす時間がとても好きだったキンバリーの選択でした。
キンバリーの母親は,かなりきつい抗ガン剤治療を勧めてきたのですが,キンバリーはそれはやらないと決めました。そのことに後悔はなかったのは,亡くなる直前のことばから分かります。

最近,ポールのアルバムを聴くことが多くなっています。
彼の初ソロアルバム「マッカートニー」はビートルズが解散した1970年4月に発売されましたが,僕はこのアルバムはあまり聴いていませんでした。というか,このアルバムを購入したのは,つい最近の2枚組デラックスバージョンが出たときです。そのジャケットを開いてドキッとしました。ポールの亡くなった妻リンダの写真がありました。
リンダは1995年(僕たちの出逢った年です)に乳ガンが分かり,手術をしたのですが,97年に再発し,98年4月17日に亡くなったのでした。57歳でした。発見されてから約3年。キンバリーと同じです。

キンバリーと,リンダは乳ガンで亡くなったんだね,という話をしたときのことが忘れられません。
彼女は「やっぱり私も助からないねきっと・・・・」と言って,しばらくことばがでませんでした。ポールの妻であり,どんなに費用のかかる治療でもできたはずのリンダが乳ガンには勝てなかったという事実には,かなりのショックを受けたと思います。でも,そのあとも自然体で生活していたキンバリーの精神力は本当にすごいと思います。

Kimberly, I miss you so much.

McCartney  を聴きながら

2011年10月27日木曜日

風になびくリオ・ブラボー~1995夏 イン・ニューヨーク

朝日新聞の土曜日朝刊に入ってくる「be」に「サザエさんをさがして」という連載があります。
サザエさんの漫画を一つ取り上げて,それにまつわる時代背景やいろいろなエピソードが紹介される読み物で,とても面白いので愛読しています。単行本にもなっていて,既に4冊?ほど出ています。

その中に,夏休みに田舎に帰省していたワカメが,学校の校庭の映画会に行くというものがあります。
そこから僕の中に,1995年のニューヨークの夏が甦ってきます。

1995年4月8日に出逢ったキンバリーが4月22日にニューヨークに旅立ったあと,6月下旬に僕がニューヨークに彼女に逢いに行き,JFKで赤いバラ1本を手にキンバリーが迎えてくれました。
緑あふれるニューイングランドをドライヴ(イーグルスが一緒),そして結婚することにお互いの気持ちを確かめあって,ニューヨークに戻ってきました。
当時は,1ドルが85円くらいの円高で(最近の75円というのは本当に凄い円高です),ちょっとリッチな気分だったのと,二人の時間をゆっくり持ちたいので,セントラルパークの南にあった「プラザホテル」に泊まることにしました。今はホテルの営業はやめてしまいましたが,そこで演奏されたマイルス・デイビスのライヴがアルバムになっている,高級ホテルでした。7月11日の僕の誕生日に日本食の朝食をキンバリーがプレゼントしてくれたホテルです。

タイムズ・スクエアから東にほんの少し行ったところの市立図書館の脇に,ブライアント・パークという大きな公園があります。冬にはスケートリンクが作られて,無料で楽しむことができます。まだキンバリーが元気だったときの家族3人でスケートを楽しんだときの写真が残っています。

その公園で,無料野外映画会が開かれ,キンバリーと一緒に「リオ・ブラボー」を観たのでした。ハワード・ホークス監督ジョン・ウェイン,ディーン・マーチン主演の大好きな映画です。
ニューヨークの生暖かい風がただよう夜に,張られた大きなスクリーンに浮かび上がるジョン・ウェインの顔が,時折吹いてくる風に揺らめくスクリーンの上でゆがんでいたのを思い出します。折り畳みイスに座って,手をつないで一緒に観ました。

この「風にゆらめくスクリーン」というのが,とても風情があっていいのです。
ニューヨークの夜に,ゆらめくスクリーンで観る映画,ちょっとレトロな感じで,音響もあまり良くなくて,セリフが良く聞き取れないのも気になりません。忘れられない,キンバリーとの思い出です。

この野外映画会は,最近も行われています。
ただ,とても残念なのは,風になびくスクリーンではなく,ハイテクスクリーンという感じで,大きなディスプレイがド~ンと設置されていて,もう風にゆがんだジョン・ウェインの顔を観ることはできません。
確かに,画面は良く見えるし,音響も良い。でも,あの夏のなんともゆったりとした感覚は,このハイテクスクリーンでは味わえません。たった16年前 のことなのに「古き良き時代」という感じです。

最近,キンバリーがたくさん夢に出てくるようになっています。
朝目が覚めると,iPhoneに入っている彼女のビデオを見るのが習慣のようになっています。


Miles  Davis  LIVE AT THE ORIENTAL THEATRE  1966.5.21     を聴きながら

2011年10月17日月曜日

ビートルズ回帰現象(つづき)

最近ビートルズが帰ってきていることについて少し前に書きました。
つい先日も,リマスターのステレオ盤の方で,デビューアルバム Please Please Meを,ボリュームを
上げて一気に聴きました。といっても,聴き終わるのに32分くらいしかかかりません。14曲でこの時間ですから,1曲だいたい2分程度の曲です。しかし,曲の長さはその質とは無関係であることがビートルズを聴くとよく分かります。
このアルバムはたった1日で殆どの曲を,スタジオライヴで収録したものですが,聴き終わって, ビートルズはなんて凄いライヴバンドだったんだろう,とひれ伏してしまいました。ビートルズは演奏が下手だったという俗説があるのですが,それが全くの事実無根であることがよ~く分かります。

どうしてビートルズが帰ってきたのか考えてみました。
ビートルズは,キンバリーに出逢う前に僕が夢中になっていた存在であることが関係しているのかもしれないと思いました。彼女と出逢ったあとのものたち,ことたちに触れると,彼女のことを思い出して,
ただただ悲しくなるばかりなので,キンバリーの思い出がしみついていない時代の,自分にとってかけがえのない存在だったビートルズに戻ることで,少しでも悲しみの色のついていないそれなりに幸せだった時代を再体験しようとしているのかもしれません。

ただのノスタルジックな再体験ではないところが,ビートルズの凄さです。リマスターされた音を,これまでのビートルズ研究の成果が盛り込まれた,全アルバムの一曲ごとが解説された本を手元に置いて聴くことで発見される今まで知らなかった,聴こえていなかった音に出逢えるという「新しい体験」でもあるのです。聞くところによると,アンソロジーシリーズのリマスターがネットでダウンロードできるということです。早くCD化されてほしいと思っています。

でも,結局は,「キンバリーと一緒に聴きたかったなあ・・・」となってしまうのですが・・・

ベートーヴェン 交響曲第7番  小沢征爾 指揮  サイトウ・キネン・オーケストラ を聴きながら

(追記)

前回のブログで藤沢周平さんの奥様が亡くなられたことが抜けていたため,誤解を招いたと思います。お詫びして訂正します。

2011年10月13日木曜日

ZUTTO~ずっと

朝日新聞の土曜日朝刊に入ってくる「be」に連載されていた「愛の旅人」をまとめた本が出ています。
連載されていたときも愛読していましたが,本にまとまってから読み直しています。とても素敵な内容でオススメです。3冊出ていますが,1冊めには漱石・獅子文六などが取り上げられています。
本の帯のコピーは

二人の愛を探しに行きませんか。語り継がれる名作に描かれた,愛のかたち。文人才人たちが生きた,一途な愛のおもい。古今東西の,さまざまな愛を訪ねる写真紀行。

とあります。
漱石のところでは,彼が熊本の旧制五高の教授をしていたときに,妻の鏡子が入水自殺を図ったエピソードが取り上げられていたり,その作品はあまり読んだことはない藤沢周平が,結婚4年後に長女誕生のわずか8ヶ月後に病死したことを教えられました。

その中に,「海は甦る  山本権兵衛と登喜子」が入っています。
日本海軍育ての親といわれる権兵衛が,貧しい生家のために奉公に出ていた,まだ年季の明け
ていない登喜子を奉公先の茶屋から兵学校の同期生らを指揮して救出するところから描かれて 
います。
権兵衛は当時の軍人としては考えられないフェミニストで,女性は乗船させないことが当たり前
だった当時に,登喜子を軍艦に乗船させ,艦内見学のあと,登喜子の履物を携えて桟橋に下り, 
彼女の前に履物を揃えて置いたというのです。ドイツ留学時代の恩師であるアレクサンダー・フォ
ン・モンツ伯爵の女性を尊重する姿に学んだのがその背景にあるとのこと。
1933(昭和8)年3月登喜子が73歳の誕生日目前に他界し,その年の12月に権兵衛も後を追
うように世を去りました(享年81)。
登喜子の没後,手文庫から巻物が見つかります。結婚を控えた権兵衛が登喜子に贈った7カ 
条の誓約書でした。

その中の一つに  夫婦むつまじく生涯たがいにふわ(不和)を生ぜざる事

とあり,妻登喜子のため,権兵衛は漢字にふりがなをつけてあり,「生涯」の二文字には「いつま
でも」とルビをふってあったということです。感動です。

これを読んだとき,キンバリーが選んだ僕の結婚指輪の裏側に彫られたことばが浮かびました。
それは「Zutto」です。「ずっと一緒に」という気持ちをこめて彼女がこのことばを彫ることを希望
   しました。キンバリーの指輪の方にはどんなことばがいいか考えて,少しだけ悩んで,彼女は「All」
 「 すべてを」ということばを選びました。

       ずっと一緒にいたかった。でもずっと彼女にはもう逢えない。
       二つの指輪は,今,自宅の僕の小さな書斎の書棚に一緒に並んでいます。

     


  

2011年10月7日金曜日

三四郎・めまい

並行読書(現在20冊くらい)の中の2冊である,漱石の「三四郎」とボワロー=ナルスジャックの「めまい」を読み終わりました。
「三四郎」は高校・大学生時代以来の再々読ではないかと思います。こんなに難しいことがいろいろ書いてある小説だったんだあ・・・という感想です。文章もかなり難解なところがあり,中・高生では理解しづらいところもあると思います。でも,面白かった。早速,読み返したいと思いましたが,他の本が待っているので書棚に戻しました。漱石全作品再読プロジェクト(笑)としては次に何を読むか検討中です。漱石は凄い人だとつくづく思います。漱石は岩波書店の全集を揃えてあります。漱石の主要作品で未読なのは「虞美人草」です。これは文体がこりに凝っていて,半分くらいで止まったままになっています。次の作品はこれにするかもしれません。

「めまい」は,ヒッチコックの映画の原作です。パロル舎から出ている,太田浩一氏の翻訳で読んだのですが,これも面白かったですね。ただ,ヒッチコックの方が人間心理が深く描かれていると思いました。高所恐怖症の元警察官という設定は同じですが,ヒロインとの関係の描き方が,ヒッチコックの方が人間心理を実に深く良く理解した表現で,さすがだなと思いました。ヒッチコックは単なるサスペンス映画の巨匠ではありません。人間心理の巨匠というべき存在です。フランスの映画監督であるトリュフォーがヒッチコック本人にその作品創造の秘密についてインタビューしたものをまとめた「映画術」(晶文社)という本は映画を本当に理解したい人にとっての必読書です。

映画の「めまい」は映画館で3回,DVDで2回は観ている大好きな作品です。何回目のときかは忘れましたが,この映画を観ながら泣いたことがあります。ジェームス・スチュワート演じる主人公の,死んだはずの女(実は生きている)と瓜二つの女(実は髪形や髪の色を変えた同一人物)を死んだはずの女そっくりに変えていくときの彼の気持ちがぐぐっと胸に迫って来て,涙が出たのでした。

キンバリーにそのことを話したことがあります。でも,なぜ涙が出るまで感動したのかをうまく説明することが出来なかったことを覚えています。今ならできそうです。でも,彼女はいません・・・

ベートーヴェン  ピアノソナタ「熱情」 ピーター・ゼルキン(p)を聴きながら

2011年10月6日木曜日

禁酒・禁煙

事務所で法律相談をして,相談者が帰った後,のどがイライラし始めました。
相談者の方はかなりのヘビースモーカーのようで,近くに来ただけでタバコの匂いがしたのですが,その方の吐く息からの間接喫煙となったのだと思います。
人前ではタバコを吸わないようにする人はかなり増えていると思いますが,外で一服したあとに話をしたりするときには,その人に息の中に多量の有害物質が存在していて,こちらはそれを吸わされることになっていることについては殆ど意識されていないと思います。

友人の外科医から恐ろしい話を聞きました。その友人の知人である呼吸器科の医師が肺ガンになったのですが,その原因が毎日診療している患者の息に混じっている発癌物質を長期間吸い続けたことにあるというのです。タバコを吸う人は,こういう事実を認識してもらいたいものです。

私は大学時代に3年間くらい吸っていたことがあります。初めてタバコを買ったときのことを良く覚えています。それは大学の入学手続きで東京に行ったときで,歌舞伎町にあるたばこ屋さんでラークを買ったのでした。もう時効ですが,未成年のときに吸ったことになります(珍しいことではないでしょうが)。そのときは,喉につかえて咳き込んで,こんなものどこがいいのか分からず,ごみ箱に捨てました。大学生活の中でタバコに慣れ親しみ,カンピースを持って歩いたりしていました。思い出すと恥ずかしいですね。
タバコをやめるのには少し苦労しました。酒を飲むと吸いたくなって,一緒に飲んでいた友人からもらって吸ってしまうということがよくありました。半年くらいそんなことが続いて,完全にやめました。

酒をやめた理由については既に書いたことがありますが,これは揺り戻しもなくすっぱりとやめることができました。動機の強さが違うということですね。

タバコについては,キンバリーの有名な?逸話があります。
彼女は7才で吸い始め,12才でやめたというのです。かなり脚色されているのではと思いますが,自分でも話のタネとして好きだったようで,ときどきその話をしていました。

タバコはまったく吸いませんでしたが,ワインや日本酒は好きでした。乳ガンが分かる前ですが,アメリカのマサチューセッツの田舎町で見つけたちょっとスモーキーなフレイヴァーの赤ワインが好きで,何本か札幌に持ってきて,一緒に飲みました。

乳ガンになって,アルコールはガンには悪いということで,キンバリーはお酒はやめました。塩分の取りすぎにも注意し,大好きだったコーヒーもやめて紅茶などを飲むようにしていました。
今,振り返ってみると,もっと好きなものを食べたり飲んだりしていてもよかったのかな・・・とちょっと思ってしまいます。
でも,キンバリー本人は自分のガンへ向かう姿勢については自分で納得してやっていました。
意識がなくなる前日に「死ぬのは何にも怖くないよ。何にも後悔していないよ。」と言っていたとおりです。

iPAD2に入っているキンバリーの写真をときどき見ます。なんて素敵なんだろう・・・と見るたびに思います。そばにいないことが理解できません。

Ludwig Lebrun作曲  オーボエ協奏曲  オーボエ/ハインツ・ホリガー を聴きながら

2011年10月5日水曜日

悲しい知らせがありました

高校1年のときの同級生の女性が乳ガンで亡くなっていたとの知らせが届きました。
子どもさんはいなかったようですが,仲の良かった夫の方の嘆きは大きく深いようです。当然です。
発見が遅く,あっという間に亡くなったとのことです。心からご冥福を祈り,夫の方の悲しみがいつか癒されることを祈るばかりです。

キンバリーとの共通の友人の女性から,今朝メールが来ました。初めて,キンバリーが夢に出てきたということでした。夢の中でキンバリーは家族を失ったことを悲しんでいて,僕と一緒に旅行したときに買ったじゅうたんを大事そうに見せてくれたということです。そして,一人なので家が広すぎて寂しいと言っていて,おなかと胸の手術のあとを見せてくれたという夢だったようです。その方は,キンバリーにとっても,家族をなくしたことになるんだなあ,と感じたということでした。おなかは彩を産んだときの帝王切開の傷跡,胸は乳ガンの手術の跡・・・・

キンバリーの周りには,父親その他の親族,親友のクリスなどがいるはずですが,家族を失った悲しさ・寂しさは同じなんだなあと思いました。

昨日,アマゾンに注文していた本が届きました。
Joan Didion 著 The Year of Magical Thinking  「悲しみにある者」というタイトルで翻訳されていて(
慶応義塾大学出版会),それが新聞の書評で紹介され,その内容が今の自分にとって意味がありそうだと思い,原書を取り寄せました。アマゾンの紹介にはこうあります。

       長年連れ添った夫,ジョン・ダンの突然の死。生死の淵を彷徨う,一人娘,クインターナ。
       一人の女性作家が,夫を亡くした後の一年間と一日を描くノンフィクション。近しい人,愛するひと 
       を 永遠に失った悲しみと,そこから立ち直ろうとする努力についての心の物語。
       いずれ誰かを失うことの意味,他者の死を悼むことの意味を深く問いかける。

      2005年度の全米図書賞を受賞し,累計200万部のベストセラーになっているとのことです。

このようなテーマが目について,手にとって何か共鳴するようなものを感じた本はつい購入してしまいます。読んで少しでも何か前に進むための力のようなものを得られないかと思ってしまいます。
まだ,目に見える効果?は現れてきませんが・・・

VEGAS   を聴きながら

2011年10月3日月曜日

ユダヤの新年会

昨日,ダイアンの家に札幌在住のユダヤ系の友人たちが集まって,新年会がありました。
キンバリーの親友ダイアンの家族,日本人女性と結婚している飲食店・地ビール販売をしているFさん夫婦,同じく日本人女性と結婚して英会話教室などをやっているAさん夫婦と娘さんが集まりまた。
ダイアンの家で2009年の12月にハヌカのお祝いをしたのが,キンバリーと一緒の最後のユダヤの行事になりました。ユダヤにまつわる手料理を持ち寄って食事をするのですが,今回は彩が鶏肉にマーマレードにいくつかのハーブやスパイスを混ぜたドレッシングを塗ってオーブンで焼いた料理を作りました。とても美味しくて好評でした。

ユダヤの新年は,天地創造から数えるユダヤ暦に基づくもので,今年は9月28日の日没から新年になったということになります。5772年目に当たるということです。
シャナー・トヴァー(良い年であるように)という挨拶があって,リンゴに蜂蜜を浸して食べます。「甘い良い年でありますように」ということです。

年に何回か,ユダヤ系の友人たちと集まるのが恒例になっていました。
いつものメンバーの中に,キンバリーだけがいないことが不思議でなりませんでした。
今にも,どこかから「ハーイ」と言って,あの笑顔と一緒に現れるような気がして仕方ありませんでした。

2011年9月30日金曜日

3人の誕生日

今日は,私の母親,キンバリーの母親そして彩のいとこのコール(キンバリーの妹の長男)の誕生日です。3人の誕生日が同じとは,何か縁を感じます。
キンバリーの母親は,僕たち家族の誕生日には必ずカードを贈ってくれていました。彩の誕生日にはプレゼントが航空便で送られてきます。彩が生まれてから初めての父の日にもお祝いのカードを贈ってくれました。ちゃんと you’re first father’s day のための文章が印刷されたカードがアメリカでは売られています。もしかすると,「めでたく離婚が成立した日」を祝うカードもあるのかもしれません。確かめたことはないけれど・・・

母親と違って,キンバリーはいつも,誕生日が過ぎてから,母親に「電話」していました・・・
今日は,彩がアメリカの祖母といとこに電話をかけるでしょう。
日本のおばあちゃんは弟家族と大阪に旅行に行っています。

キンバリーだけがいないのが,奇妙な感じがして仕方ありません。

バーンスタイン指揮のブラームス交響曲第1番を聴きながら

2011年9月28日水曜日

ニューヨーク大停電

2003年8月14日のニューヨーク大停電のつづきです。

車を5番街19丁目付近のレンタカーに返したあと,5番街を北に向かって歩きました。
停電が長引くことで,レストランなどはすべて閉店となったので,食べ物を調達しようと思い,デリカテッセンで中華などを買いました。歩きながら見た光景が忘れられません。道路の「ふた」が開いて,そこから止まってしまった地下鉄の乗客がゾロゾロと地上に出てきました。めったに見ることができない光景でした。

歩いていると,ある店の店頭で,店員が「water 2 dollar」と大声で言っています。通常は1ドルのペットボトルの水を2ドルで売っているのです。便乗値上げ。最近評判のハーバード大学教授マイケル・サンデルが「これから正義の話をしよう」の冒頭部分で,ハリケーンに襲われたあと,同じように便乗値上げがあったことについて触れていますが,それと同じことが起きていました。
「えげつないなあ」と思って見ていると,通りかかった男性が「こういうときにそんな強欲なことをするのは許されない」とその店員に食ってかかって,店員と口論が始まりました。それがどう決着が着いたのかは確認しませんでしたが,その様子も記憶に残っています。

ホテルはワシントンスクエアの北西にある「ワシントンスクエアホテル」でした。グリニッジヴィレッジに近いので,よく使っていたホテルです。97年11月に8月に生まれたばかりの彩を連れてニューヨークに来たときにも泊まったホテルです。
夜8時頃までは明るいので,ワシントンスクエアで食事をして,ホテルの部屋へ。
ところが,部屋には懐中電灯がありません。フロントの担当が懐中電灯をつけて,各部屋に案内してくれるのですが,その後は,真っ暗。ロウソクなどももちろんありません。そこで,ろうそくを探しに僕は外に出て行きました。キンバリーはロウソクがなくても何とかなるよと言っていたのですが,まだ8時過ぎで部屋にいるのは退屈でもあったので,外の様子を見たいということもあって,外に出てみました。
通りは真っ暗ですが,ワシントンスクエア(噴水もある結構大きな公園)の中にいくつかのサーチライトが設置されていました。大停電に乗じた犯罪が起きないように,公園などの危険な場所には警察がサーチライトを設置して明るくしているのでした。
6番街を南に下がりながら,ドラッグストアに入ってロウソクを探しましたが,どこも売り切れ状態。数件回ったあと,ようやく韓国系の人がやっているドラッグストアに2本だけ残っていたのをゲット。地下鉄が止まっているので,歩いて帰宅する人などがたくさん歩いていました。
ホテルに戻って,真っ暗な中でつけたロウソクの明かり,ベッドに座っているキンバリーの姿が浮かんで来ています。
ワシントンスクエアホテルは6階建てくらいの小さなホテルですが,それがラッキーだったのです。
高層ホテルでは電気系統がダウンして,トイレも使えないので,宿泊客は部屋にいられず,外に追い出されるようにされていたのを翌日知りました。ワシントンホテルはトイレも使えて水も出るので,ちゃんと部屋で寝ることができました。

つづく

モーツァルト 弦楽四重奏曲 KV421  ハーゲン弦楽四重奏団 を聴きながら

2011年9月27日火曜日

書くことがなくなってきました

なくなってきたというより、書く気持ちになれないというのが本当のところです。
キンバリーのことばかり書いてしまうのですが、 どうしても悲しい内容になってしまい、書いていて辛くなるばかりです。以前は書くことによって、気持ちが少し落ち着くこともあったのですが、最近はそのような癒し効果がなくなりました。彼女のいないことの空虚感が大きくなるばかりです。

本を読むことが、今の自分の支えです。
思想関係が精神的に癒しになるようです。
純粋理性批判(カント) 論理哲学論考(ウィトゲンシュタイン) レビストロース(悲しき熱帯その他)
柄谷行人。。。

分からないところがたくさんありますが、それが精神的にいいようです。

ユリシーズは196頁まできました。英語の本を読むのもいいようです。

楽しいことを書けるようになりたいです。。。

北海道バンドを聴きながら

2011年9月19日月曜日

悲しい知らせ2

前回から大分日が経ってしまいました。
元ちゃんは,サイモントンのワークショップでの自己紹介のとき,「自分としては僕のガンは治療によって完全に治ったと思っています。」と力強く言っていました。治った人がいるということは,ガンを患っている人にとっては,その存在自体が励ましになるものです。キンバリーもそんな風に感じていたと思います。「自分もきっと・・・」
残念で仕方ありません。

もう一人,気になっている人がいます。
自宅のすぐ近くに住んでいる男性で,犬たちを散歩している朝早く,歩道にしゃがんでたばこを吸っているのですが,犬たちが近づくと「おー来たかい。」と言って,犬たちと遊んでくれるのでした。ペロペロとなめるのが大好きなロイの「口撃」にも平気で,しばしじゃれてから,「またね」と言って別れるのでした。
一度,少し話をしたとき,「僕は肺ガンで,もうそんなに長くないと言われてるんです。だからたばこも気にしないで吸ってます」と,自分がガンであることを伝えてくれました。
そのおじさんの姿が見えなくなって大分経ちます。

あんまり楽しいことを書くことがありません。

先日,キンバリーの親友ダイアンがテープからDVDに落としてくれたのを見ました。99年の7月にハワイに行ったときの様子が写っていました。まだうまく話せない彩。そして,若くてとってもきれいなキンバリー。ビーチで風に運ばれて転がっていった帽子を追いかけて走って行くキンバリー,拾い上げて戻ってくるとき,得意のおどけたポーズをしているキンバリー・・・・

2011年9月6日火曜日

悲しい知らせ

先週土曜日の夜,知人の男性が亡くなったことを知りました。
元ちゃん(げんちゃん)と呼んでいたので,ここでもそう呼ばせていただきます。
元ちゃんに初めて会ったのは,2009年10月にキンバリーと一緒に福島県白河市であったサイモントン療法のセミナーに参加したときでした。JR新白河駅前に会場のホテルへ行くバスが停車していて,僕たちより先に車内に座っていたのが元ちゃんでした。ちょっと目つきが鋭い感じで,第一印象は少し怖い感じでしたが,話してみると,意志のしっかりもった,でもあったかい人でした。元僧侶だったということを聞きました。

彼のことは,また改めて書きたいと思います。
ご冥福を心から祈ります。
キンバリーと逢っていると思います。

2011年9月3日土曜日

そうか,もう君はいないのか

雨の札幌です。
彩と札幌駅に行って,学校用のバックパックを買い,そばを食べて帰ってきました。
彩は,アメリカのテレビドラマ brothers & sistersにはまっています。もう4年くらい前だと思いますが,
アメリカで買ってきたシーズン1のボックスセット。キンバリーも観て面白いと言っていたドラマです。
日本のDVDプレーヤーでは,何か方式が違うため,アメリカで売っているDVDは観られないのが普通ですが(ただし音楽のライヴ映像は観られるのが普通),我が家のプレーヤーは日米両方再生可能です。アメリカで買ったやつなので,当然,日本語字幕はありませんが,彩は何の問題もなく楽しんでいます。それが僕にとっては羨ましいやら悔しいやら。僕も英語に自信がないわけではありませんが,映画やドラマの早口のセリフを完全に聞き取れるかとなると, 残念ながら限界があります。
その点,生まれたときからキンバリーが英語で話しかけ,毎年,アメリカに行って過ごしてきた彩はほぼネイティブの英語力で,僕には勝ち目はありません。ただ,読むことに関しては,まだまだ僕の方がはるかに上です(これもいつか追い越されるのかもしれませんが。いや,追い越してくれないと困るのです)。

今回のタイトルは,さきほど読み終わった 城山三郎氏の書名です(新潮文庫)。
読むのは2回目。単行本で出版されたのが平成20年1月なので,キンバリーの乳ガンが発見され,
1月4日にアメリカで手術を受けて,1月末に札幌に戻ってから,書店で見かけて買って読んだと記憶しています。そのとき,どんな気持ちでこの本を読んだのかは,あまり 記憶していません。ただ,このような内容の本は,キンバリーのことがなければ買わなかっただろうことは間違いありませんが,この書名のようなことになるなんてことは考えてもいなかったと思います。僕は城山氏の作品はほとんど読んだことがなく,氏の愛読者ではまったくありませんでした。

数日前,いつものように朝5時過ぎ頃に目が覚めて,少しぼやっとした頭でベッドの左脇の書棚(寝室のベッドを挟むようにして天井までの書棚があり,本で埋まっています。地震がきたら両側から落ちて来る本の下敷きになって死ぬかもしれないとキンバリーも恐れていました・・・)の本の背表紙を見ていると,城山氏の「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」が目に入り,手にとりました。そして,本の帯びに「そうか,もう君はいないのかの最終章」というような言葉を読んだ瞬間,涙があふれてきました。「そうか,もう君はいないのか」ということばに,激しく動揺したという感じでした。
実は,6 月27日に新潮文庫版を買ってありました。児玉清さんが解説を書いているので,単行本で持っているのですが,それを読みたくて買ってあったのでした。買ったはいいが他の本もあるので読まずに本棚に入れてあったのですが,もしかすると,「早く読んでくれ~」というメッセージが伝わってきたのかもしれません。

城山氏と奥さんの容子さんの出逢いも,奇跡的です。
昭和26年の早春,城山氏が名古屋のある図書館に行ったところ,規定の休館日ではないのに休館。そこに容子さんも来たのが出逢い。容子さんは高校生で, 学校の運動会をさぼったので時間潰しにたまたまその図書館に来たのでした。
少し違いますが,僕とキンバリーとの出逢いとオーバラップしました。

肝臓ガンで亡くなった容子さん。彼女が逝ってから7年後に城山氏も容子さんのところに旅立っていきました。その7年間がどれだけ辛いものだったか,巻末に収録されている娘さんの井上紀子さんによる「父が遺してくれたもの-最後の「黄金の日日」」が伝えてくれます。

二人の子どもが独立したあと,二人で旅行したり,夫婦二人の時間をたくさん持てたことに,ちょっとだけ羨ましい気持ちにさせられました。
お二人はきっとあっちの世界で仲良くしていると思います。僕がキンバリーに逢えるのはいつになるのか・・・

城山氏の作品を読んでみようかと思っています。

King  Crimson   Red    を聴きながら

2011年8月31日水曜日

ニューヨーク~地震・ハリケーン(つづき)

リサたちにとって,震度5の地震の揺れは初めての体験だったので,地震慣れした我々とは比べようのない怖さを感じたと思います。
先日,テレビでマンハッタンから車で1時間くらいのところに原発があるということを知りました。
そこで放射能が漏れるような事故が起こったら,ニューヨークは恐ろしいことになるのは間違いありません。そんな近くに原発があるってこと,ニューヨーカーたちが知っているのかどうか,今度訊いてみようと思います。
昔のことですが,原発反対の立場の人たちが,電力会社が言うように,原発が絶対に安全だというのなら,東京のど真ん中に原発を建設したらどうか,と原発推進派に対して「挑発的」意見を提起したことがありました。もちろん,そんなことはできないことを電力会社側は十分に知っていたのです。

今回のニューヨークを見舞った事態から,僕たち家族が体験したことを思い出していました。
2003年8月14日に起きたニューヨークその他の大停電のことを覚えていますか?その日の夜はニューヨーク市内は停電のため真っ暗でした。その日に我々家族はマンハッタンに到着したのでした。
翌日の15日にJFKから日本に戻る予定で,コネチカット州ウエストハートフォードの実家をレンタカーで出た僕たちは,午後4時頃,27丁目当たりからマンハッタンの中に入って行きました。すると信号機がどれも消えているのでした。そして,道路の両側にある店などから人々がぞろぞろと出てきました。「これはただごとではないな」と思っていると,人々が後ろのイーストリバー方向を見ながら何か言い始めました。後方を見るとなにか大きな白い煙が高く立ちのぼっているのでした。「テロかも?」と途端に不安になりました。ドライブ中はずっとFMラジオで音楽を聴いていたのですが,そんな状況になっているのに,相変わらずロックをかけています。そこで,AMラジオに切り換えると,ニュースが流れていていて,「この停電は発電所の事故によるもので,テロとは無関係です」と何度も繰り返しアナウンサーが叫んでいました(情報収集はAMに限ることを実感)。

TO BE CONTINUED

BRUCE SPRINGSTEEN        WORKING ON A DREAM    を聴きながら

2011年8月30日火曜日

ニューヨーク~地震・ハリケーン

ニューヨークでかなり大きな地震とハリケーンのニュースがあったので,今朝,キンバリーの親友リサの携帯に電話してみました。彼女の家族はみんな大丈夫ということで,「心配してくれてありがとう」ととても喜んでくれました。彼女のアパートメントはイーストヴィレッジの9丁目にあります。ブロードウェイを南下して9丁目のところで右折して,1本目のユニバーシティプレイスの手前に入口があります。隣の角には「ニッカーボッカー」というステーキの店があり,ジャズの演奏もやる結構有名な店。キンバリーの父親(2002年5月没)が,ご馳走してくれた思い出の店。

リサの家の近くには,ワシントンスクエアがあり,週末にはストリートミュージシャンの演奏がここかしこであり,チェス盤とにらめっこしている人もたくさんいます。子どものための遊具もあって,そこで彩とリサの長女ディランやエラと遊んでいるところの写真があります。

to be continued

ビートルズ  サージェントペパーズを聴きながら

2011年8月29日月曜日

早朝の札幌駅

我が家に1週間以上滞在していたドイツ人の友人ヴォルフガング・バウアー(ヴォルフガングはモーツァルトと同じ,バウアーはアメリカの大人気ドラマ「24」のジャック・バウアーと同じ)が,今朝,ベルリンに帰って行きました。
短い滞在でしたが,楽しい時間がもてました。彼は10年以上札幌に住んでいたので,友人もたくさんいて,旧交を温めていました。彼がいなくなって,話相手もいなくなり,ちょっと淋しい感じです。

昨日は,二人でニトリレディストーナメントを観に行って来ました。ドイツではゴルフは全くポピュラーではなく,彼はやったことも,ゴルフ場に行ったこともなかったので,興味深々という感じでした。

帰りは,北海道マラソンと関係しているのか分かりませんが,午後3時頃の道央道は物凄い渋滞で,ちょうど日高道への入り口付近で完全に止まってしまったので,あてもなく日高道へ入り,東千歳で降り,長沼方面へ走りました。274号線に近づいたとき,由仁町のケイトのやっているカフェが近いことに気がついて,そこに行くことにしました。ケイトはキンバリーと仲の良かった,陶芸家であるイギリス人女性です。このブログで書いたことがあったかもしれませが,1995年4月8日の土曜日にキンバリーと初めて逢った日に,ここに来て,彼女に話しかけ,帰りに車で彼女のアパートまで送ったという,僕とキンバリーの「聖地」のようなところです。その当時は,カフェはやっていませんでしたが,増築してカフェを開き,僕たち家族で何回も遊びに行った場所です。靴を脱いで,木の床に座るのですが,窓から見える景色を見ながら,キンバリーと過ごしたときのことを思い出していました。ここにキンバリーがいないのはおかしい・・・そうおもっていました。
少しゆったりとした時間を過ごして,自宅に戻り,彩とパエリアの宅配を取って晩御飯にしました。

今朝は,5時半にヴォルフガングを起こし,6時過ぎに札幌駅まで送ってきました。
まだ人もほとんどいない早朝の札幌駅。キンバリーとアメリカに行くときも,いつもこんな早朝の札幌駅からJRで千歳空港に向いました。そのときのことがよみがえってきて,ウルウルしてしまいました。JRのチケットを買ってから,スタバでカフェラテを買って,それを飲みながら千歳へ向かうのがいつものことでした。車を降りて駅に向かって歩いていくヴォルフガングを見送りながら,同じようにラゲッジを引っ張りながら3人一緒に歩いたことを思い出しました。
まだ彩が7歳くらいだったと思いますが,12月にアメリカに行くとき,朝に大雪になり,タクシーが全く進まなくなって,このままでは飛行機の時間に間に合うJRに乗れなくなるということがあり,まだ北口のまで100メートル以上あるところでタクシーを降りて,必死に思いラゲッジを引っ張って走ったこともありました。あとで,いつもギリギリで行動スケジュールを立てるのは良くないとキンバリーに叱られました。
もう叱られることもないのかと思うと,また悲しくなります。

ビートルズ アビーロード  を聴きながら

2011年8月25日木曜日

赤色のX-Trail

今朝8時少しに事務所に物を取りに来て,自宅に戻る道すがら信号で車を止めたときバックミラーに赤いX-Trailが写りました。思わずはっとしてしまいました。
キンバリーの愛車だったのと全く同じX-Trailで,まるでキンバリーが後ろについて来ているような感じがして,馬鹿げた話ですが,運転席に彼女の姿を探してしまいました。信号が緑に変わり,
その車は間もな右折して行ってしまいました。

犬たちと移動するときのために購入した車でした。
僕は別の車に乗っているので,キンバリーの愛車になっていました。
家族で使うときは僕が運転することになっていました。「もしかしたら私乳ガンかもしれない」と告げられたのは,僕が運転して,二人でどこかに行くときでした。

2 台も車は要らないのですが,キンバリーとの思い出がつまったX-Trailを手放せず,今年も車検の時機になりました。

ショスコーヴィチ  交響曲第5番  レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルを聴きながら

2011年8月24日水曜日

14歳

今日,娘の彩は14歳になりました。夏休み最後の日で,明日から新学期です。
函館方面の依頼人の方からおめでとうのメールが届きました。ありがとうございます。
また,友人が僕の不在中に事務所に彩への誕生日プレゼントを置いて行ってくれました。嬉しいです。

彩が産まれたのは日曜日の朝でした。
逆子だったので,帝王切開でした。清田区にある病院で,僕も立ち会って(そこでは帝王切開でもキンバリーの横にいさせてくれました),彩が初めてこの世界に存在する瞬間を共有しました。
いろんなことを思い出します。
キンバリーは自然分娩を望んでいたので,まず助産所に通いました。
ところが,逆子であることが分かり,そのままだと助産所では出産は難しいことが判明しました。
何とか逆子をなおそうと思って,「逆子体操」をやってる産婦人科に通ったりしましたが,だめでした。一生懸命,床の上で身体を動かしていた姿が目に浮かびます。

23日の土曜日の昼過ぎから陣痛が始まりました。一度病院に行ったら,まだ子宮口が開いていないということで,一旦自宅に戻りました。歩いた方がいいと彼女は考えていて,痛みをこらえながら,一緒に自宅のある北17条西2丁目から大通公園まで休み休み歩きました。

そして,午前0時を過ぎた頃,本格的な陣痛となり,僕の運転する車で病院に向いました。当時はまだなかった札幌ドームを過ぎたあたりで痛みに耐えられなくなり,車を降りて歩道の樹木につかまるようにして痛みをこらえていたのを思い出します。

病院に着いて,朝7時半の帝王切開まで,キンバリーは何とか自然分娩できないかと頑張りました。でも,彩の左足だけが出てきて,それが紫色になっているのを見て(見たのは僕。キンバリーには見えない),医師も帝王切開しかないと判断しました。

流行?に従って,モーツァルトをかけていました。
その年の1月にニューヨークに行ったのですが,親友のリサも妊娠中で,夫のアンディと一緒に,「出産時の妻を夫はどうやって支えるか」という体験セミナーに僕たちも参加し,陣痛に苦しむ妻にどうやって対応するかを「模擬練習」していたのですが(例えば,どんな言葉をかけるのがいいか,どうやって身体をさすったりするのがいいか など),実際には全く役に立ちませんでした。
痛みを感じているキンバリーの身体は他人に触れられることを拒絶してしまい,彼女の呼吸のリズムに合わせて僕も呼吸しながら声をかけるのが精一杯でした。

彩を初めて抱いたときのキンバリーの最高に幸せそうな表情は忘れられません。

彩がまだ10歳のときに乳ガンと分かったことになります。治療方針の話のとき,病院の医師に「私にはまだ10歳の娘がいます。まだ死ぬわけにはいきません」と強い口調で言っていたキンバリー。

彩が楽しみにしていた,31(サーティワン)でアイスクリームのバースディケーキを買ってきました。
店に行って,いくつかある中で,どれが彩のほしがっていたものかが分からなくなりました。電話で訊くわけにもいかず(そんなことをしたら「私の話聞いてくれていないんだ」と怒られそうで・・・),直感で選びました。自宅で14本のロウソクに火をつけて,ハッピーバースディを唄いながら彩のいる部屋へ持って行きました。大喜びで,まず写真を撮ってからロウソクを吹き消して,「私の好きなやつ覚えていてくれたんだね。お父さんありがとう」と満面の笑顔を言ってくれました(内心,ひやひやしていました)。

14歳の彩をキンバリーに見てもらいたかった。

キング・クリムゾン  Starless and Bible Black  を聴きながら

2011年8月22日月曜日

ジャマイカ50周年(つづき)

僕と彩が夫婦に見えたという,あり得ない話を紹介しましたが,その理由と思われるのが一つ抜けていました。
③その人の目がとても悪かった。

でも,彩が娘ではなく,どこかの女性だと思った人が他にもいたので,目が悪かったという理由だけではないと思います。

彩が大人びて見えるということについては,こんなこともありました。
去年の10月ころでしたが,ある懇意にしている会社の社長が僕と彩を食事に招待してくれました。
キンバリーとも一緒に食事をしたことのある方で,キンバリーが亡くなったあとの僕たちを元気づけてあげようという心遣いで,美味しい和食の店につれて行ってくれました。
その帰り,社長と別れて彩と南3条通りを歩いていると,後ろから一緒にゴルフもやる,仲のいいジャズピアニストが何も言わずに追い越して行ったのです。声をかけようと思ったのですが,スタスタと行ってしまいました。
後日,彼が奥さんと経営しているライヴハウスに行って,その話をすると,やはりそうでした。
僕の横にいた彩を,何か関係のある女性だと思って,声をかけてはまずいと思って,スタスタと追い越したということでした。大笑いでした。

彩はあさって14歳になります。母親のいない2回目の誕生日になります。
キンバリーは彩の誕生日にいろいろな演出をしていました。家の中に迷路のようなものを作って,それをたどっていくと誕生プレゼントが見つかるようにしたり。
僕の誕生日に,部屋中の壁や天井を200個以上の風船で飾ってくれたり・・・

普段はほとんどキンバリーのことは口にしない彩ですが,今朝,「お母さんに逢いたい」と一言だけ言っていました。どんなに淋しいことか。
僕もキンバリーに逢いたくてたまりません。

ドビュッシー  ベルガマスク組曲 ポール・クロスリー(p)  を聴きながら

2011年8月21日日曜日

Jamaica  ジャズ喫茶50周年記念

札幌の老舗ジャズ喫茶(Bar) ジャマイカの開店50周年記念パーティに行ってきました。彩も一緒に。
180人くらいの出席だったようで,Q.ISHIKAWA(今年80歳になるということですが,とても元気に1時間以上の演奏を休みなしで聴かせてくれました)のテナーサックスを札幌在住の豊口健(p)田中久雄(b)館山健二(ds)が強力サポートして,楽しい宴という感じでした。

ジャマイカは開店当初から21年くらい前までは札幌市南2 条西5丁目にあった東映映画館入ったビルの地下にありました。僕が初めて行ったのは高校3年のときだったと思います。1974年。ものすごい音量で,30分くらいいると耳が痛くなるくらいの凄さでした。当時は,札幌にもジャズ喫茶がたくさんありましたが,今はほとんど残っていません。50年間続けるということは大変なことだと思います。

ベルリンから僕の友人ヴォルフガングもこの日のためにやって来ました。19日の夜に札幌に着いて,僕の家に滞在しています。彼と出会ったのもジャマイカでした。20年くらい前になります。東映のビルが壊されることになって狸小路5丁目に移転してからのジャマイカでしたが,いつものカウンターの席に着くと隣に彼が座っていたのです。それ以来,彼とは親友となり,楽しい思い出がたくさんあります。北大の大学院でアジアの経済史を勉強して,ベルリンで博士号を取った優秀な彼ですが,きさくでジャズが大好きなナイスガイです。今でもヘビースモーカーなのが残念なところですが。
彼は,1996年5月に札幌で開いた僕とキンバリーの結婚披露宴でスピーチをしてくれました。日本語で原稿を準備してそれを見ながらスピーチしてくれたのですが,緊張のあまり原稿を持つ手がガタガタと震えていたのを覚えています。昨日も,もしかしたら何かスピーチを頼まれるかもしれないと,スピーチの内容をメモしていましたが,杞憂にすぎなかったのでホッとしていました。

ジャマイカとは,キンバリーと初めて逢った95年の4月に一緒に行っています。僕の大好きな店を彼女にも知ってもらいたいと思って。結婚してからも,ときどき行っていました。

帰りにQ.ISHIKAWAさんのCDを購入して,サインをしてもらいました。TAKESHI SAYAKA そして
KIMBERLY とサインしてもらいました。キンバリーがいたらどんなに楽しんでくれたかなあと思っていました。

同じテーブルに,ジャマイカで札医大のジャズ研時代にウェイトレスをしていた女性が娘さん二人と夫の方と座っていました。僕も彼女のいたときを知っているので話かけたのですが,彩のことを僕の奥さんかも,ずいぶん若い人だな,と思っていたというのです!
これは二つのことを意味します。
①彩がとても大人びて見える(来週14歳)
②僕が非常に若く見える
キンバリーが聞いたら何と言うでしょうか・・・

マイルス・デイビス  ライブイン・トーキョーを聴きながら

2011年8月19日金曜日

天竜川川下り事件に思うこと

天竜川の川下りで船が転覆して死者・行方不明者がでています。とても悲しく残念な事件です。
船頭が救命胴衣を着けなくてもいいように言っていたということで,運営会社の安全管理責任は免れないと思います。

ただ,僕がこのニュースを知ったときまず思ったのは,川下りの船に救命胴衣を装着しないで子どもを乗船させた親のことでした。なぜ子どもたちの親は,船頭が何と言おうと,自分の子どもに救命胴衣を着けさせなかったのか,正直,理解できません。キンバリーも真っ先に同じことを言ったと思います。子どもの命や安全を守るのは親の責任です。
この船の現場にいたら,キンバリーならどうしたか,想像してみました。
まず,船会社に救命胴衣を着けるように乗船客に指導するように要請するでしょう。もし,会社が「大丈夫ですよ」などと言って聞かない場合は,乗船客の人たちに「救命胴衣を着けた方がいいですよ。」と言うでしょう。それでも,乗船客の人たちが,装着しないのであれば,僕たち家族はその船には乗らないでしょう。

2010年4月9日のブログに「子どものライター事故に思うこと」と題して,アメリカと日本の子どもの安全に対する意識の違いについて書きました。まだ,彼女が生きているときです・・・
スーパーの駐車場で子どもが一人車内で泣いていたので警察官を呼んだ妻と,そんなことまでどうしてするのか,という反応の母親の対比についても書きました。
子どもの安全については躊躇なく断固とした対応をすることが必要だと思います。
例えば,車の後部座席のシートベルトです。僕は友人の車の後部座席に乗ったとき,シートベルトを装着します。高速道路だけでなく,一般道路でもごく自然に装着します。アメリカでの経験が影響していると思います。あちらでは,全座席で常にシートベルトを装着することは当然のことで,子どもたちも小さいときからそのようにしているので,座席に着くやいなやすぐにシートベルトをします。
日本ではこういう習慣はまだできていません。安全に対する意識の格差を感じるときです。

ベートーベン  交響曲第1番   レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルを聴きながら

2011年8月15日月曜日

ビートルズ回帰現象

キンバリーが逝ってしまってから,ビートルズが戻ってきたという感じになっています。
中学・高校の3年間,毎日ビートルズを聴いていました。中学のときは一日に4~5時間はビートルズを聴いていたと思います。自宅にあった,父親のソニーのオープンリールのテープレコーダーに全部のLPを録音して,それを何回も聴くのです。レコードの溝が磨耗することを畏れて,そうやってレコードは大事に取っておくのです。
ビートルズの曲は全部で213曲あるのですが,そのすべての曲を何千回と聴いていると思います。
中学のとき,布団に入ってから2~3時間眠れないときが続きました。ビートルズの曲が頭の中で鳴り出して,いつまでたっても終わらないのです。よし,次の曲でストップして眠ろうと決意しても,あっさりとその期待は裏切られ,次の曲が最初から最後まで演奏されるのです。

ビートルズが解散したのは1970年。僕が中学2年生のときでした。この年の11月には三島由紀夫の割腹という大事件もあるのですが,僕にとってはビートルズが解散した年として記憶されています。泣きました。解散の噂は前年から伝わってきていましたが,「そんなことがあるはずがない」とラジオのニュースに気が気ではありませんでしたが,解散が現実となったとき,その事実を受け入れられず,本当に悲しくて泣いてしまいました。その当時から泣き虫だったのかもしれません・・・

ちょっと調べたところ,1965年の今日,8月15日は,ビートルズがニューヨークのシェイ・スタジアムで初めてライブ演奏をした日でした。ロックコンサートが野球場で行われたのはこれが初めてのことでした。そのころ,僕は小学3年生でしたが,近所の仲間と「ビートルズって,30分くらいのコンサートでものすごいお金が入るんだってさ」と興奮しながらしゃべったことをよく覚えています。でも,まだビートルズの音楽そのものには本格的には参入していませんでした。ベンチャーズの方をよく聴いていました。エレキギターブームだったのでしょう,近所のアパートでお兄さんがたがエレキギターの練習をしていて,ベンチャーズのダイアモンドヘッドなんかをやっていて,アパートの窓にくっついて(1階の部屋でした),飽きずにずっと聴いていたことを思い出します。

ビートルズを本格的に聴くようになったなったのは小学校6年生の頃でした。
それからはビートルズなしでは生きられないというくらいのめりこみました。当時は,今のようにビデオやDVDなどないので,ロックコンサートを見ることができるのは,フィルムでした。STVだったと思いますが,フィルムコンサートが道新ホールなどで行われて,そこでストーンズなどの演奏シーンを見て興奮しています。ビートルズのライブもフィルムで見ました。四角いステージを観客が囲んでいるコンサートで,1曲終わるごとにドラムスや機材を動かして全部の方角の観客が正面から見られるようにするとか,サービス精神旺盛なビートルズに感心したり・・・

狸小路1丁目にスカラ座という映画館がありました。ハードデイズナイト・ヘルプ・レットイットビーの3本立をやったとき,母親におにぎりを作ってもらい,朝から映画館に入り浸り,それぞれを2回ずつ観るということをやったことがあります。この3本,映画館でそれぞれ16回観ています。

ビートルズ絡みは書くときりがないようです。
小休止します。
(ビートルズがシェイ・スタジアムで演奏していたとき,キンバリーは母親のおなかの中にいたことになります。12月22日が誕生日です)

THE BEAUTIFUL SOUTH   QUENCH を聴きながら

2011年8月13日土曜日

事務所で避暑~ニューヨーク,ジョン・レノン

今日も暑い一日になっています。
娘と事務所に来ています。先日,あまりの暑さに耐えかねてようやく買った自宅の扇風機では足りないので,唯一クーラーのある事務所に親子で避暑に来ています。彩は勉強道具とiPad2を持って。朝日新聞のデジダル版をインストールしたので,新聞記事を検索したり,いろいろ勉強に使えると言っています。僕はパソコン関係はちょっと苦手で,彩にインストールとか,いろいろな設定をやってもらえて助かっています。ネット環境で育っているので,初めて使う昨日でも何となくやっているうちにできるようで,いつも感心して見ています。僕が彩よりうまくできることといえば,アナログレコードプレーヤーのターンテーブルに載っているレコードの途中の曲の溝に針を正確に落とすことくらいでしょうか(実際に彩にやらせたことはありませんが)・・・

今日から事務所はお盆休みに入っています。17日から業務開始です。
キンバリーがいたころは,今頃はアメリカに行っていました。アメリカの家族みんなで湖の近くの貸別荘に滞在して過ごすのが恒例になっていました。2002年の5月に亡くなったキンバリーの父親が健在だったときが,一番楽しい夏を過ごしていました。2001年の夏,アメリカから戻って3週間後くらいにあの同時多発テロが発生したのでした。あの日はキンバリーも僕も夜9時前には寝てしまい,リアルタイムでは全く知りませんでした。翌朝もテレビを見る習慣がなかったので,ニュースも見ていなかったところ,ニューヨークの親友リサから「こちらはみんな無事だから心配しないで」というメールが入り,一体何のことか分からずにとにかくテレビをつけたら,あのシーンが目に飛び込んできたのでした。

今朝,彩が好きな王様のブランチを見ていたら,ジョン・レノンの秘蔵映像を集めた新しい映画の紹介がありました。そこで流されたジョンとヨーコの映像を見ながら,またも泣いてしまいました。ジョンは80年12月8日に射殺されてしまいましたが,まだ40歳でした。ヨーコは7歳年上。しばらく別居生活を経たあと,長男のショーンが生まれて,子育てに専念。日本にもよく来ていて,軽井沢で過ごす姿が写真集に残っています。
ジョンとヨーコが出逢ったのが1966年。二人が一緒にいたのは14年間。僕とキンバリーは15年間。だいたい同じ時間の長さを共有した二人なんだなあと思いながら,ジョンが一番愛した街,ニューヨークというナレーションを聴きながら,キンバリーとの思い出の街ニューヨークに想いが行って,いろんなことが浮かんできて,涙してしまいました。

彩はパソコンに夏休みの宿題の作文を打ち込んでいます。
僕も,何かしようと思います。

ジョンのサムタイムインニューヨークシティを聴きながら

2011年8月7日日曜日

自分だけでは楽しめない

今朝,テレビを見ながら涙が出てしまいました(考えてみると,僕は相当「泣き虫」のようで,娘の彩によく言われます。「お父さん,泣きすぎ!」)

日曜日の朝9時から「題名のない音楽会」という番組があります。数少ない好きなテレビ番組の一つで(もうひとつの「ブラタモリ」はもうやらないのだろうか・・・),佐渡裕の司会も好きなので,よく見ます。
今日はバイオリンの秘密がテーマでストラディヴァリウスとガルネリという名器の特集でした。
ヴァイオリンの構造についての説明などがあって,実際の演奏が始まったとたん涙が出てきました。
曲名が今思い出せないのですが,心がうきうきするような楽しい,有名な小曲です。涙が出たのは,
その曲に合わせて身体をちょっと揺すったときでした。
すぐにはそのわけが分かりませんでしたが,キンバリーの表情が浮かんできて,その理由が分かりました。「自分だけが楽しい時間をもっている」ことに対して,キンバリーが一緒にそんな時間を持てないということに, どこかで「罪悪感」「ごめんね」という気持ちを感じてしまい,キンバリーがいないんだということを思い知らされて,心から楽しむことができず,彼女と楽しみを共有できないことが悲しくて涙となってしまうのだと思いました。

思い返すと,彼女が逝ってしまってから,心から楽しいと思えた時間は皆無です。
すべてのことが,単なる「時間潰し」のようにしか思えないのが正直なところです。
「キンバリーは僕と彩が楽しく元気に生きていくことを望んでいるよ」と言われることがあります。
そう思えるようになるものなのか,今はこの「時間潰し」感覚で,とりあえず生きていくしかないと思っています。


シベリウス  交響曲5番  ジェイムス・レヴァイン指揮  ベルリン・フィルを聴きながら

2011年8月5日金曜日

北大の思い出

今朝6時半頃,ロイ(6歳のフラットコーテッドレトリーバー。オス)と自転車で久しぶりに北大構内を散歩してきました。北大は自宅から歩いて5分の距離にあります。北大にはたくさんの思い出があります。
小学校4年生の新学期に北区北17条西2丁目の木造2階建の家に引っ越してきてから,ずっとここで生活してきました。現在の事務所は,同じ場所に建てたビルの中にあります。
当時(昭和46年。1966年)は,このあたりはまだ道路も舗装されておらず,トラックが通るたびに家が揺れていました。
北大構内の校舎ビルも今よりずっと少なくて,教養学部の校舎があるところ(今は教養学部とは言わないのかもしれませんが)は,グラウンドになっていて,野球の試合を観に行っていました。
構内には壊れたオートバイが無造作に捨てられていたりして,中学3年のとき,友人2人とそのバイクのエンジンをかけ(直結と言っていましたが,キーはないので,配線を直接結んでエンジンをかけるのです),構内を3人乗りで乗り回したりしたことがあります。「パーン」と大きな音がしてタイヤがパンクしてしまいました。

今朝は北大病院のわきにある有名な銀杏並木から構内に入っていきました。北大病院では,2008年1月にアメリカで右乳房全摘出手術をして日本に戻ってから抗ガン剤と放射線治療をしました。抗ガン剤治療が終わるまで娘と一緒にキンバリーのそばにいて,いろんな話をしたりしました。一人で歩いて北大に向かうキンバリーの後ろ姿が目に浮かびます。

北大はキンバリーが姉妹校であるマサチューセッツの大学から交換留学生として勉強していたところ。この留学がなかったら僕たちは出逢っていなかったはずですから,北大は特別な存在になります。

キンバリーは日本語が素晴らしく上手でした。彼女の発音は,電話で聞いたときなどは日本人かと思うくらい自然な日本語でした。2年間アメリカの大学で勉強してからこちらに来たのですが,日常会話は大丈夫だったと言っていました。語学の才能があったと思います。
彼女が日本語を勉強することになったのは偶然でした。キンバリーはロシア文学が好きだったので,ロシア語のコースをとろうと思っていたのですが,その学期にはロシア語コースがなかったので,じゃ日本語にしようか,という感覚で日本語の勉強をしたのです。よく笑い話で,「あのときロシア語コースがあったら,今頃,ロシアで凍えているかもしれない。」と言っていました。

北大の留学期間が終わっても,キンバリーは札幌が好きで,語学学校の教師をしたりしながら3年くらい札幌にいました。もし,留学期間終了とともにアメリカに戻っていたら,僕とは出逢わなかったでしょう。そして,日本での就職希望が叶わず,一旦,ニューヨークの大学院に行こうと決めて,札幌を発つ日のちょうど2週間前に僕と出逢ったのでした。その出逢いのことは書いたことがありますが,あのとき,大通西2丁目のミスタードーナッツの前で,キンバリーが一人で立っていなくて,他の友人たちと一緒にいたとしたら,あんなに強烈な印象を受けることはなかったかもしれません。
いろいろな偶然が積み重なって,僕たちは出逢ったのだと思います。

そんな彼女がいないことの理不尽さに, ときどき耐えられないような気持ちになります。
理不尽なことで埋めつくされているような世の中ですが・・・

キング・クリムゾン  太陽と戦慄  Lark’s Tongues in Aspic  を聴きながら
(原題と全く関係のない邦題がつく典型)

2011年8月3日水曜日

8月になりました

8月は娘の彩の誕生日が24日にやってきます。母親のいない2回目の誕生日になります。14歳。
まだ12歳のときに母親を亡くしたことになります。
僕は男ばかり4人兄弟の長男なので,娘と母親との関係がどんなものなのかは,よく分かりません。せいぜい,映画・テレビドラマ・小説などで描かれたものを知識としてもってるだけです。
キンバリーのような母親との関係をずっと持てたとの持てないこれからと,比較することはできませんが,彩が失ってしまったものはとっても大きいと思わずにはいられません。
キンバリーの代わりにはなりようがありませんが,彩にとって良い父親でいたいと思っています。

最近,あるコンペで一緒になったのをきっかけに,ゴルフに誘ってくれる方ができました。僕よりずっと人生の先輩になる方ですが,一緒にラウンドするのがとても楽しい方です。

雄大な景色が見えるコースを回っているとき,いつも,この景色をキンバリーに見せてあげたいなあと思います。北海道の自然が大好きなキンバリーでした。
毎日,キンバリーが本当に死んだんだなあ・・・もう逢えないんだなあ・・・ということが「本当のこと」なんだということを,少しずつ少しずつ受け入れているのが続いているのだなあと思います。
何度も携帯に残っている彼女のビデオを見ます。笑っているキンバリー。その彼女がこの世にはいないんだということが,いまだに本当なんだと完全には納得できていません。

新しい人と出会えることのできるゴルフを始めていて良かったなあと思います。

ショパン ピアノ協奏曲1番  ポゴレリチ(p)を聴きながら

2011年7月28日木曜日

とりかえしのつかないこと

キンバリーの命日の2日ほど前(6月14日頃),岩見沢の同期の弁護士から電話がありました。
キンバリーの命日が近づいてきて,「会えないかな,岩見沢に来ることはない?」というような用件でした。断りました。
昨年,「理解できないこと」と題して,生前キンバリーと何らかの交流がありながら,一言も言葉のなかった弁護士たちのことを書きました。そのときの気持ちは今も変わっていません。キンバリーが亡くなってしまったあと,そんな人間たちと話す気にはなりません。もう取り返しはつかないのです。

数日前,裁判所のある西11丁目の地下鉄駅の階段を上がって地上に出るとき,前方に他の同期の弁護士が立っているのが見え,僕と目が合いました。僕はとっさに左方向に進路を変えて彼の存在を黙殺しました。僕の内面には,怒りとか嫌悪感とか,特段の感情はわいてきませんでした。ただただ,その彼の存在を認識する時間を極小にしたかったという感じでした。

電話の話をある友人にしました。「ブログを読んでいるはず。それでも電話して来たのはとっても勇気がいったのだと思うな。」 そうとも言えるのかもしれません。

キンバリーの妹のスーは,キンバリーの乳ガンが分かったあと,精密検査をしたところ,極小の乳ガンの腫瘍が発見され,両方の乳房切除の処置を取り,乳房再建手術をして,元気に過ごしいます。キンバリーに命を救われたと,キンバリーへの感謝の気持ちと一緒に生きています。
スーが手術をしたとき,友人たちが食事作りのチームを作り,ローテーションを組んで,スーのために家事を手伝ってくれました。自然発生的に直接は面識のなかった友人の友人も加わって,あっというまに行動を開始したのでした。
日本なら,まず「おせっかいになるんじゃないか。かえって迷惑かも」などといいながら時間だけが経過するというパターンになることが多いような気がします。
何事につけ,行動力の違いを感じさせられることの多いアメリカ人気質とでもいうべきものです。

一番の取り返しのつかないことは,もちろん,キンバリーがいなくなってしまったこと。
キンバリーの大好きだった夏が来て,彩の夏休みが始まり,明日の花火大会に友達と行くのをとても楽しみにしています。キンバリーがいないのが信じられません。
2009年の夏,アメリカからキンバリーの母親と叔母が10日くらい我が家に滞在して楽しい時間を持ちました。あとで聞いたのですが,もうキンバリーと札幌で逢えるのは最後になるだろうと思って,二人で来たのでした。みんなで,豊平川の花火を観に行きました。そのときは,キンバリーは元気に歩けて,母親の方が体調が悪くて,車イスを使っていました。その車イスは東区役所で無料で借りたものでした。そんな風に無料で借りられることに,母親たちはびっくりしていました。「日本って凄いね。」 日本にだっていいとこはある,とそのときは思いました。

最近ずっと繰り返し聴いているパットメセニーです
ラストのビートルズの AND I LOVE HER を聴きながら  

2011年7月25日月曜日

なでしこジャパン~アンガールズ田中~エグザイル

このタイトルでは何のことかさっぱり分からないと思います。先週の日曜日の夜,この順番で泣いてしまいました。

なでしこジャパン
アメリカとの決勝戦を控えて,テレビではこの話題がひっきりなしに出てきました。
アメリカに勝って,ワールドカップ初の優勝になるかどうか・・・隣にキンバリーがいたらなあ・・と思いました。アメリカ人であるキンバリーは当然ながらアメリカを応援するでしょう。僕はとりあえず日本人としてなでしこを応援。両方の国籍を持つ彩はどうするかな・・・「両方応援する」と言うのかな・・・
夜更かしの苦手なキンバリーは生中継を見ることは無理だろうけど,朝起きてきて「どうだった?」と真っ先にきいてきただろうな・・・

そんな風に,彼女とのいろんなやりとりを想像しているうちに涙がこぼれてきました。二度とそんな時間は持てないことを思い知らされて・・・


アンガールズの田中君が,高校時代に母親に冷たい態度を取ったことを,それから10年以上経ってから謝るというシーンがありました。母親もそのときのことをよく覚えていて,彼が「ごめんなさい」と言って,母親が涙ぐむというシーンでした。
彩には,将来,キンバリーにあんな風に謝ったりすることはできないんだな・・・そう思うと涙がでました。

その後,エグザイルの番組があり,杉良太郎がゲストで出ていました。エリチエミと親友だった杉氏の話があり,彼女の代表曲だった「テネシーワルツ」をエグザイルのアツシが唄いました。その歌を聴いたとたん涙がでてきました。
キンバリーの生まれた国アメリカのイメージがこの歌とともに頭のなかに溢れてきました。彼女を通じて感じ取ってきたアメリカの姿が浮かんできて,そこに彼女の思いでが重なって,とても切ない気持ちになって,大泣きしてしまいました。

こんな風に,いつどんなときに涙腺が洪水状態になるか予測がつかない日々が続いています。


PAT METHENY   WHAT’S IT ALL ABOUT  を聴きながら
  1曲目の サウンドオブサイレンスを聴いて,これも涙でした

2011年7月21日木曜日

朝の犬たちとの散歩

今朝は4時半に目が覚め,5時にベッドを抜け出して犬たちの散歩をしてきました。
昨夜は11時にベッドに入り,最近習慣になっている10~15分くらいDVDで映画を観るというお楽しみの後,プレーヤーのスイッチをオフにした次の瞬間には眠っていました。キンバリーにも寝付きの良さには感心されていましたが,映画にも催眠作用があるようで,見始めて10分くらいすると眠たくなります。従って,1本の映画を見終わるのに1週間以上かかることになります。たいていの人は,一度見始めたら最後まで観ないではいられないと言います。キンバリーも同じことを言っていまた。僕はその点全く違います。ある映画を見始めて(ベッドの中ではなく,居間でのこと)30分くらいすると,他のことをしたくなります。たいていは本を読みたくなります。DVDで1時間半から2時間の間映画を観るということに耐えられません。プレーヤーをポーズにして,何冊かの本を音楽を聴きながら読んで,しばらくしてから映画を再スタートさせる,その繰り返しです。特に,本当に面白い映画のときが細切れ頻度が高くなるという傾向があります。こんな面白い映画,一気に見てしまうなんてもったいない,と思うようです。同じ傾向の方がいたらご連絡ください。何もありませんが(笑)

朝の犬たち散歩をしていると,通りかかったアパートの開いた窓から目覚ましの音が聞こえてくることが良くあります。見知らぬ人たちの朝が始まる瞬間に立ち会っているような感じがします。
キンバリーは眠るのが大好きでした。目覚ましが鳴り続けても微動だにしないで眠っていたのを思い出します。

追伸 昨日のブログで「ユルスナールの靴」をちくま文庫としたのは間違いでした。河出文庫でした。

ピンク・フロイド  エコーズを聴きながら

2011年7月20日水曜日

須賀敦子~福永武彦~見つけたらすぐ買えの法則

手元に「須賀敦子全集」(河出書房新社)の第1巻と第2巻があります。
2009年3月28日東京神田神保町のBOHEMIAN’S GUILDという古書店で購入しました。
その日は,家族で八王子市にあるがんの代替医療を行っている病院に行くために27日に二泊三日で上京したのでした。キンバリーはできるだけ強い抗ガン剤を使わずに,身体に優しい治療をすることに決めていたので,僕が見つけたそこの院長の書いた本を頼りに,診察と相談を受けに行ったのでした。
温厚なおじいちゃん先生で(失礼),キンバリーもその先生が気に入って,何カ月後かにもう一度行ったりしました。
 

翌日の28日は浅草に行き,花屋敷で遊んで,プリクラを撮ったりして楽しい時間を過ごしました。
まだ元気だったキンバリー。素敵な笑顔が残っています。

そのあと,神田の古書街に行きたいという僕の希望をきいてくれて,3人でぶらぶらしたのでした。
この古書店でまず目についたのは,福永武彦の「草の花」の単行本の初版でした。福永武彦は大学時代に一時夢中になって読んだ作家で,懐かしさもあって買おうかと思ったのですが,ちょうど夕食の時刻で,その古書店のある通りに自然食のレストランがあったので,そこで食べてから買おうと思い,一度手にとった「草の花」を書棚に戻しました。

食事が終わり40分後くらいに戻って書棚を見ると,なくなっていました。どこを探してもありません。
「古書は,見つけたときに買え」という鉄則をすっかり忘れていました。
がっかりしながら,他の書棚で見つけたのが須賀敦子の2冊の全集でした。

最近,須賀敦子の文章に癒されています。「遠い朝の本たち」「ユルスナールの靴」(いずれもちくま文庫)を読み返しています。「ミラノ 霧の風景」を読んでいます。考え抜かれた簡潔な彼女の文章は読むだけで心地よい。そして,彼女の考え抜いたことの意味をよく味わうとさらに気持ちよくなります。彼女は最愛のイタリア人の夫を結婚後6年足らずで亡くしてしまいます。
その後の彼女の生き方に,これからの僕の人生に対する何らかのヒントのようなものがあるかもしれません。全集は全8巻です。残りの巻を,どこかの古書店で見かけたら,すぐ手にとって放さないことにします。

John Medeski  Billy Martin  Chris Wood
   Notes From The Underground  を聴きながら

2011年7月19日火曜日

フィリピンからの電話~フェイスブック

先日,自宅にフィリピンから電話がかかってきました。
2009年の約1年間,週に2回ほど自宅に来てくれて,掃除をしてくれていたフィリピン女性(まだ20代前半)からでした。その日,誰かからのメールでキンバリーが亡くなったことを初めて知って,すぐに電話をかけてくれたのでした。僕の携帯にもかけてくれたのですが,「通知不可能」のディスプレイだったので取らなかったので,自宅の方にかけたところ,僕が在宅していたので話すことができました。キンバリーの体調が思わしくないとき,彼女が来てくれたあとの我が家はまるで別の家のようにきれいに整頓されていました。もともとは,看護士の資格を取るために札幌の専門学校に通うために来日したのですが,少しでも収入が必要な彼女と我が家のニーズが合致して,来てくれることになったのでした。たどたどしい英語でキンバリーへのお悔やみと僕と彩のことを気づかう言葉をかけてくれました。本当に嬉しかった。

そして,翌日,フェイスブック宛に彼女からのメールが来ました。札幌にいる間に,どんなにキンバリーに優しくしてもらえたか,それで自分はsurviveすることができたとのメーセッージでした。キンバリーは彼女の相談相手にもなっていて,それが心の支えになったと感謝の言葉が書いてありました。1年以上もキンバリーのことを知らせることができなかったことをお詫びしました。フィリピンの連絡先が分からないので,伝えようがなかったのです。

キンバリーに逢いたいです。
先日,彩が6歳のとき,釧路湿原に行ったときのビデオを見てしまいました。ガイドに案内されて湿原を楽しそうに歩いている彼女の姿が写っていました。あの笑顔と笑い声・・・

ベートーベン ディアベリの主題による変奏曲   ポリーニ(p)を聴きながら

2011年7月15日金曜日

英語の仕事

キンバリーの両親の友人でもあり,アメリカでの結婚式にも来てくれた,コネチカットで弁護士をしているピーターからメールがきました。彼の依頼人であるアメリカの放射線測定器メーカーが日本で試作品のテストをする予定で,それに関する責任問題の発生を事前に防止する英文の法的文書をチェックしてアドバイスしてもらえないかという仕事の依頼でした。
以前にも書いたことがありますが,英語が関係する仕事が来ると,そばにキンバリーがいてくれてどんなに助かったかを痛感します。

僕の英語は,中学入学から始まった,ごく普通のスタートでしたが,ビートルズを入り口のようにして,とにかく英語が好きで,英語ばかりやっていたようなものでした。当時(40年以上前)は今のように豊富な英語教材はないので,研究者の時事英語研究という雑誌のテープを何回も聴いていました。今でも,ロバート・ミッチャムの息子であるクリス・ミッチャムとオリビア・ハッシー(布施明と結婚したのにはびっくりしましたが,「ロミオとジュリエット」での美しさには圧倒されました)の主演した映画でのセリフが頭の中で再現できるほど聞き込んだりしました。同時通訳のパイオニアである國弘正雄氏がNHKテレビで「トークショー」という30分の番組をやっていて,毎回,さまざまな分野の外国人をゲストに議論するとても内容の濃いのをテレビからカセットテープに録音して何度も聴くというのをやったりもしていました。

先日会合で会った,某大手ハウスメーカーの支店長が,「わが社でもいよいよトーイックを受験することが義務になりました。」と言っていましたが,同じような企業が相当増えているようです。

このトーイックですが,その点数で昇進に影響がでるとかということがあるようですが,果たして,そんなに重視されるべきものか少々疑問です。本当の英語が使えるかどうかはこのテストでは分からないと思うからです。
3年ほど前に僕も受けてみました。10数年前に835点を取ってやめていたので,今はどんなものか試しで受けてみたのです。910点でした。正直,あまり出来が良くないなあと思っていたので意外でした。そして,トーイックってこんなものなんだ,この点数がいいからといったってあんまり意味はないなあと思い,それ以来受験していません。もっと,本物の英語力をつけたいと思いました。
キンバリーと一緒に英語で議論することができないのがとてもとても寂しく悲しいです。

ARCTIC MONKEYS   SUCK IT AND SEE を聴きながら

2011年7月13日水曜日

55歳になりました

11日で55歳になりました。娘と二人で大通西6丁目にあるうなぎ屋さんに行って,鰻重を食べてきました。彩が「お父さんの好きなもの食べよう」と言ってくれたので,久しぶりにうなぎにしました。
この店は,昔,南3条西3丁目で海鮮の店をやっていて,家族で何度も行っていました。1996年5月に札幌で披露宴をしたのですが,アメリカからキンバリーの家族全員が来てくれて,前日にその店で食事をしたことが懐かしいです。キンバリーはアメリカ人なのに?くじらベーコンが好きで,必ず注文していました。彩が生まれてからも,ときどき行っていたのですが,鰻屋さんになってからはキンバリーは行ったことはありませんでした。
中学2年生になった彩を見て,おかみさんが「大きくなりましたね。あんなにちっちゃかったのに」と言ってくれました。キンバリーが亡くなったことを伝えると,一瞬言葉を失っていましたが,彩に「辛いでしょうけれど頑張ってね」と激励してくれました。

去年の誕生日はニューヨークにいました。キンバリーが6月16日に亡くなったあと,いつ日本に帰るかということになったのですが,誕生日はニューヨークにいたいと思いました。キンバリーと初めての僕の誕生日を過ごしたのがニューヨークなので,そのときのことを思い出していました。

キンバリーのいない誕生日は,本当に味気ないものでした。
これが今後何年も続くのかと思うと・・・

2011年7月6日水曜日

読書アンケートの勧め

政治家の言葉が政治や社会を混乱させた事例は過去枚挙にいとまがありませんが,今回の松本復興大臣の辞任劇もあきれるばかりです。

今国政に携わっている議員たちにこれまでどんな書物を読んできたのかのアンケートを取るといいと思います。それによってその人間が信頼に足るものかどうかがかなりはっきりと分かると僕は思います。

何年前か忘れましたが,最高裁判事の国民審査のための各判事の経歴等を紹介する新聞記事を覚えています。そこには各判事が関与した裁判の紹介などとともに,「愛読書は何か」という質問に対する回答が載っていました。それを見て驚きました。7~8人の国民審査の対象となる判事のうち,(記憶は正確ではありませんが)4人くらいが塩野七生 著「ローマ人の物語」を挙げていたのです。ちょうどその頃,このシリーズが話題のベストセラーになっていたのでした。
この本を読むことがいけないということは全くありません。僕も全巻持っています。
しかし,日本の司法の最高機関である最高裁判事が4人も同じベストセラー本を愛読書として挙げているということに僕は正直がっかりしました。新聞用と考えて,一般受けするような本を選んだのかもしれませんが,同じことがアメリカの最高裁判事だったらあり得ない回答だと思いました。
「古典」といわれる書物の名前が挙がることを期待する僕は古いのかもしれませんが。

誰のことだったか忘れましたが(不確かな記憶に自分でがっかりしてます),欧米の政治家がある困難な局面に立たされたとき,まずやったことが,イギリスの首相だったチャーチルの「第二次世界大戦回顧録」を書棚から取り出して読むことだったということを何かで読んだことがあります。そのエピソードに感動しました。

先日亡くなった児玉清さんが,ほとんど最後に書いた原稿の中で,大震災後の政治家たちの言動に対して「幼稚きわまりない」と痛罵していたことをテレビ番組で知りました。凄い読書家だった児玉さんですが,きっと「政治家どもはろくな本を読んでいないに違いない」と呆れ返っていることと思います。

バッハ オルガン曲集 プレストン(オルガン)を聴きながら

2011年6月29日水曜日

訂正 その他

先程のブログで「温かさ」を感じるのは「アメリカ人の方が」で,「日本人と」は削除します。
読み返したのですが,他にも誤植があったりして,もしこういう形で裁判所の準備書面を提出したら恥ずかしいですね(何度かそんな経験あります)。

彩が担任に「食事は誰が作っているの?」ときかれたそうで,彩は「父です。でも最近同じメニューが続いていて正直飽きてきてます」と答えたと聞かされました。
早速,ネットで簡単レシピを検索して「厚揚げとキャベツの生姜みりん醤油炒め」というものを昨日の夕食に作りました。レシピにはないピーマンとしめじを加えて。好評でした。「やればできるんだね。」と言われました・・・

食材の買い物は,自宅近くの生協ですることが多く,組合員になってポイントが溜まって500円券が発行されるとちょっと嬉しくなったり,「主夫」生活です。帰り道,こうやってキンバリーのいない自宅に買い物をして帰るという生活がこれからもずっと続くのかと思うと,やるせなくなることがあります。

繰り返し,ブランデンブルグ協奏曲を聴きながら(バッハはやっぱりいいです)

友人 friend と 知人 acquaintance

今朝の朝食時の彩との会話でした。
彩 「学校で,お父さんとけんかしちゃった,たいした理由はないんだけど,最近いろいろあっていら   
 ついてたからかな・・・というようなこと彩は友達につい話しちゃう。」
私 「でも,友達はそういう話しないだろ?」
彩 「うん,日本にはそういう習慣ないからね」

彩が「習慣」という言葉を使ったのは,自分の知っているアメリカの家族の普段の会話や学校での友達との会話が日本とはかなり違うということを知ってのことでした。アメリカでは,友達どうしでお互いの家族のことを,何のことはない日常であったことなどを気軽に話したりするのは普通のことですが,日本ではそういう「習慣」はあまりありません。

会話は続きました。
私 「よく欧米は個人主義で日本は集団主義っていうけど,どう思う?」
彩 「要するに世間というか社会の中では日本は集団主義で,個人的をことになると秘密主義って  
 いうか・・・」
私 「アメリカだと,ある程度親しくなると,お互いの家庭のこととかかなり何でも話すようになるけ 
 ど,日本は「プライベート」なことには立ち入らないなんて感じで,表面的なつきあいで終わってい  
 ることが多いよね。」
彩 「ちょっと極端な話だけど,クラスメートに父親がいるのかどうかも知らないからね。でもそういう 
 社会なんだから仕方ないんじゃない・・・」


今回のタイトルは,このことと関係があります。
キンバリーは「札幌にはacquaintanceはいるけどfriendはいない」と言っていたことがありました。
「友達」という言葉の持つ意味,深さというものが日本とアメリカとではずいぶん違うと違うと感じます。日本で「友達」と言っても,アメリカ的にはacquaintance というべき関係が多いと感じます。
キンバリーは,乳ガンと向き合う生活の中で,そんな風に感じて,寂しくなってアメリカに帰りたいと思うようになっていたのでした。
こう書いてしまうと,キンバリーを慕っていた人たちの気持ちを害することになるかもしれませんが・・・

大分前のブログで日本はテレパシー社会だと書いたことがあります。それと同じことです。
「プライバシー」の意味が日本とアメリカでは全く違うと思います。学校でクラスメートの自宅の電話番号を外部に知られないように秘密にするために,クラスメート同士でも分からないようにするのが日本の「プライバシー」です。

こんなたとえはどうでしょうか。
それぞれの人間がもっている個人的な世界が「プライバシー」という名前の球体としてあるとします。その中身は自分の名前・生年月日・職業・趣味・世界観その他たくさんのものが入っています。
球体の表面から中心の核に向かって,まず名前などのどちからというと表面的なプライバシーから始まり,中心に向かって,だんだんとその人の尊厳(ちょっと難しいですが,絶対に人には譲れない侵すことを許さないその人の本質的なものとでもいいますか)という核に向かってその内容が濃くなっていきます。「プライバシー」といってもいくつもの「レベル」があります。

日本の「プライバシー」はこの表面が境界線のようなものです。そこを超えて立ち入ると「プライバシー侵害」です(あえて極端に言います)
(僕の知っている限りでの)アメリカでは当然のことながら表面を超えてかなり深いところまで立ち入ることになっても「プライバシー」を侵害したとは受け取られません。残念ながら,日本人とアメリカ人の方が,知り合って間もない段階でも「温かさ」を感じることが少なくありません。それは「プライバシー」というものに対する考え方が全く違うからではないかと思っています。

「文化の違い」という声が聞こえてくるような気がしますが,そういう紋切り型の常套句ではすまないものがあると僕は思っています。

ジェームズ・テイラーやキャロル・キングの歌にyou’ve got a friend  という名曲があります。
「君の友達」と日本の題名がついていますが,ここで歌われている friend という言葉の持つ意味は,日本人が普通に考えている「友達」とは相当にその意味が異なっていると思います。

バッハ・ブランデンブルグ協奏曲を聴きながら

2011年6月24日金曜日

アメリカの弁護士ジョーク 

牧師・医師・弁護士がゴルフ場でラウンドをしていました。
前の組の進行速度が非常に遅いので,ゴルフ場支配人に「どういう人がプレーしているのか」と訊きました。
支配人「チャリティコンペで目の見えない方々がプレーしています。」
それを聞いて
牧師「あの方々の目が見えるようになるように神にお祈りしましょう。」
医師「視力回復の名医を紹介して,目が見えるようにしてあげたい。」

弁護士「目が見えないのなら,夜にやってもらいたいもんだ。」


本当にアメリカの弁護士ってひどい人間ですね(笑)。
日本人にはピンと来ないですが。

ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」が原書で115頁まで進んできました。700頁以上あるのでまだ7分の1です。6月16日がしばらく続きそうです。

友人のダイアンが,カセットテープ時代のビデオカメラで撮った家族のビデオなどをDVD化する作業をやってくれています。15本を彼女に預けて,少しずつやってもらっていて,この前5枚のDVDをもらいました。
でも,まだ中身を見ることができません。心の準備ができていません。

jim o’rourke    insignificance ped-23192 を聴きながら

2011年6月20日月曜日

時間

16日のキンバリーの命日が過ぎました。
よく時間が悲しみを癒してくれるといいますが,1年たった今,彼女のいないことの喪失感,そこから来る無力感は大きくなるばかりです。
1年がたって,「本当にキンバリーはもう帰ってこないんだな。もう逢えない,声も聞けないんだ。それがこれから死ぬまで続くんだ・・・」という「実感」とでもいうものが大きくなって,悲しみは癒えるどころか,大きく深くなってきています。

一人で抱えていくしかないことは分かっているつもりですが,I don’t know what to do.という状態です。

2011年6月14日火曜日

Synchronicity

ポリスのアルバムタイトルと同じですが,「共時性」というか,去年の今日と心理的に似たような状態になっているのかもしれません。静かにキンバリーを見守っているような心理状態になっています。

12日の朝には目が開かなくなり,問いかけに対して頷いたりしていたキンバリーは,午後からその反応も全くなくなり,ひたすら眠っているような状態が続きました。
僕たちにできることは,彼女のそばにいて,ずっと語りかけること,汗を拭いてあげること,キンバリーの好きだった音楽をかけてあげること・・・そして,定期的に口からモルヒネを入れてあげること。

12日(土) 彩に「お母さんに聞かせてあげたいCDを何か買ってきてくれる」と頼みました。クラシックの小曲を集めたものを買ってきました。それをかけてびっくりしました。1曲目はパッヘルベルのカノンでした。1996年1月20日の結婚式のときキンバリーの入場のときに演奏された曲でした。
彩が選んだCDの1曲目にこの曲が入っていることに何かを感じました。

16日の午前2時44分まで,キンバリーとの静かな時間が続きました。

彩は最後までキンバリーは少し調子が悪くて眠っているけれど,いつか目が覚めると思っていました。キンバリーが最後に2回大きく息をして,そして静かに逝ってしまったとき,彩もすぐそばにいました。それがどういうことなのか,そのときも,そしてそのあともよく分からないような精神状態にいました。それが,どんなに辛いことなのか,今もその辛さと悲しさが彩を苦しめています。
父親として何がいえるのか,できるのか,正直分かりません。

2011年6月11日土曜日

2010年6月11日

とうとう11日になってしまいました。
10日の午後,懸念していた発作の痙攣がありました。時間にすると1分もなかったと思いますが,白目をむくようになって身体が動かなくなるということが,ベッドの上で起きました。それを見たときのショックと非現実感の混じった感覚は忘れられません。
それでも10日は一緒に歩くこともできました。

そして11日。昼ころ,キンバリーは何とか一人でトイレに行こうとしました。僕が支えてトイレに入ったところで発作が起きました。床に崩れ落ちて(僕が支えていたのでゆっくりと静かに倒れ込むという感じでした),前日より長く2分くらいじっと動かなくなりました。義妹がスポイトで発作を抑える薬をキンバリーの口から流し込みました。気がついたキンバリーをベッドに運びました。
発作が起きたことを本人は全く覚えていません。
本人に伝えることを決意して,僕が伝えました。半信半疑な表情のキンバリー。

キンバリーのように脳髄膜炎となった場合に,どのような治療するかしないのかの考えは日本とアメリカで全く異なります。アメリカに来てから,ホスピスから医者や看護士が来てくれていました。キンバリーのように保険に入っていない場合に,無料で派遣してくれる組織があって,そこから来てくれたのでした。さすがアメリカだなあと思いました。
しかし,栄養の点滴や脱水症状防止の生理食塩水の点滴など日本なら最低限するはずのことがアメリカでは一切されないのでした。どうしても納得できなくて,僕と議論になりました。
11日,どうしても点滴をしてくれと主張して,生理食塩水の点滴だけはするということになりました。
病院に行き,午後4時過ぎから点滴になりました。車イスで病院内を移動するとき顔なじみの看護士と笑いながらあいさつするキンバリー。自分がどんな状態にあるのか十分知りながら,明るさを全く失わずにいたキンバリー。

10日と11日の2回,二人きりでいるときキンバリーは「猛,死ぬのは何にも怖くないよ。なんにも後悔していないよ」と言っていました。

点滴が終わり,アイスクリームを食べようということになり,何度も行ったことのある「ベンアンドジェリー」に行くことにしました。いろいろな店が道路沿いに並んでいる商店街で,車を停めたのは,小さなスポーツ店の前でした。キンバリーが「猛,そこでゴルフのクラブを買って練習したらいいんじゃない。店の人に聞いたら誰か一緒にゴルフできる人見つかると思うよ。」と言ってくれました。「キンバリーがよくなったらそうするね」と言いながら車を降り,車椅子の彼女をおしてベンアンドジェリーに入りました。自分で車椅子を動かしながら,アイスクリームを選んでいたキンバリー。彩・義妹のスーそしてキンバリーがアイスクリームを手に持ってポーズをとっているところを携帯で撮影しました。それが亡くなる前の最後のキンバリーの写真になりました。

店を出て,20メートルくらい先の車に戻る途中,美容室から男性が出てきました。昔から知っている美容師の男性でした。キンバリーと久しぶりらしく,言葉を交わして,ハグをして・・・

家に戻り,ベッドに入ったキンバリー。

そして翌朝には目が開かなくなっていたのでした。


ベートーヴェンの最後のピアノソナタ 作品110  Piotr Anderszewski(ピアノ)を聴きながら

2011年6月10日金曜日

フラッシュバック

去年の今日のキンバリーが写ったビデオがアイフォンにいくつか残っています。
妹のスーの運転する車の助手席に座っているキンバリー,彩が英語の本を朗読するのをじっと聞いているキンバリー,スーの家の庭を僕と一緒にゆっくり散歩したあとベンチに座って,僕に「リサに電話したい。」と言っているキンバリー,彩に手の爪を赤くネイリングしてもらっているキンバリー,
そしてそのあとに残っているのは,意識がなくなって昏睡状態となった12日の翌日の13日のキンバリー・・・

アメリカとは13時間の時差があるので,今はまだ真夜中です。アメリカに着いてから,キンバリーのそばにずっといて,ほとんど睡眠を取らなかった,取れなかったことを思い出します。

10日の朝は,僕が作った卵オジヤと味噌汁をキンバリーは食べてくれました。「美味しい」と言って食べてくれました。だんだんと食べることができなくなっていたので,食べてくれてとても嬉しかった。
昼に母親が野菜と豆腐を炒めたものを作り,キンバリーは美味しそうに食べていましたが,僕と最後の散歩をしたときに,庭の隅に吐いてしまいました。油を使ったものはだめだったのだと思います。何か食べないと体力が落ちると思い,うどんを茹でたら,これは美味しいと食べてくれました。

あの日のことがまるで昨日のことのようによみがえってきます。キンバリーを感じます。
でも次の瞬間,そこにはいないことを思い知って,自分のまわりがなんだかぼやけたように感じます。

2011年6月8日水曜日

白寿のお祝い

昨日,僕が入っているある会の例会が札幌のホテルでありました。
会長の白寿をお祝いするのが主目的の例会でした。99歳の会長が元気な姿で(しっかりと歩くことができます),スピーチと歌を披露される姿には感動しました。会長は亡くなった森繁久弥さんと同年齢で仲のよい友人同士でもあって,「知床旅情」の元になった歌を3番の歌詞まで澱みなく,音程もしっかりと歌いきりました。凄い方です。

本物の芸者さん二人,三味線・唄による舞踊があり,ソプラノ・バリトンのオペラアリアがあり,とても楽しい時間でした。
通常の例会は男性会員だけですが,昨日は夫婦同伴の日として7~8人の奥様たちも出席していて,彼女たちに囲まれて写真を撮ったり,歌を唄ってもらったりと,会長はご機嫌でした。
会長の奥様も94歳で,元気な姿を見せていただきました。

会員の方は僕よりずっと年配の人生の大先輩が多いのですが,昨日は僕と同年代やもっと若い方が新会員となって,40年以上続いているこの会のこれからの発展も楽しみなところでした。
2次会で行ったスナックでコーラを飲みながら,幹事長のリクエストに答えて3曲歌ってきましたが,隣に座った,今まで話をしたことのなかった68歳になる方が,「大変なことがありましたね」と声をかけてくれました。そして「私も28歳のとき,結婚して3年の妻を亡くしました。それから3年くらいはとても辛い日々でした。」「時間がきっと癒してくれます。」と言ってくれました。

奥様たちを見ていて,ちょっと悲しくなりました。
キンバリーもこの会の毎年2月の夫婦同伴の例会に2回参加したことがあり,会場の奥様たちを見ながら,「キンバリーがいたら一緒に楽しめるのに。もうこんな機会をもつことはできないのだな。」と思って悲しくなりました。キンバリーも,暖かく声をかけてくれるこの会のことは大好きでした。

それと対照的なのは,高校の同窓会でした。僕の出身校では毎年8月に同窓会を大々的にやるのですが,一度キンバリーと一緒に出席したものの,二度と行きたいとは言いませんでした。
一般的に日本の同窓会というものは,そこの出身者だけが参加して行われていて,実に閉鎖的な自己満足的催しになっていると思います。僕も今後は出席する気持ちはありません。
日本にもそんな閉鎖的なものではない同窓会もあるのでしょうが。

キンバリーの卒業した高校(コネチカット州の私立の高校)から,今も同窓会誌が送られてきます。
彼女が亡くなったことの連絡をまだしていないので,定期的にアメリカから郵送されてきます。卒業生の家族の近況や,学校の様子,そして家族が出席した同窓会のニュースなどが載っています。
日本と本当に違うなあ,いいなあ...と思います。いつか家族で出席したいねと言いながら,できないままになってしまいました。

グリーグ  抒情小曲集 エミール・ギレリス(p) を聴きながら

2011年6月7日火曜日

最後のプール~6分14秒

アイフォンのビデオに,去年の6月7日午後4時13分から撮影した6分14秒の映像が残っています。義妹の家のプールに腿のあたりまで入って,腕を組んで少し寒そうにしている姿から,ちらっと僕の方を見て,(水が冷たいため)まだ入るのに躊躇している姿があって,そして意を決したように水に入って平泳ぎでプールの端まで行き,帰りはクロールで。そんな風に泳ぐ姿が5分以上残っています。意識がなくなる12日の朝までわずか4日くらいしかありません。こんなに泳げるほどだったキンバリーが翌日から足が動きづらくなり,10日に小さな,そして11日には大きな痙攣が来てしまい,12日からは昏睡状態になったのでした。

プールの中で僕を見ながら「you’re busy」 と言っています。左手にアイフォン,右手に携帯を持って写真を撮っている僕を見て,そう言っています。日本の友人たちにキンバリーが元気に泳いでいる姿を見せてあげたくて,メール送信機能は携帯だけ使えたので,両手に持って彼女を写していたのでした。中学校時代には水泳部に入っていたほどキンバリーは泳ぎが得意でした。本人はこれが最後の泳ぎになるなどとは思っていなかったと思います。脳に転移したと知っても,そんな簡単には死なないと信じていました。いや,最後まで信じたかったのだと思います。
今,ビデオを見て,泣いてしまいました。

札幌にいて,ちょっと辛いのは,あのアメリカでのキンバリーとの日々を少しでも知っている人が回りには誰もいないことです。一緒に看病したり,彼女との時間を共有した人が誰もいません。あの日々については自分の中で反芻するしかないのが,辛いです。彩は,最後までキンバリーは死んだりしないと信じていました。彩とあの日々の話をすることはできません。

五嶋みどりのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いています。(ベルリン・フィル 指揮マリス・ヤンソンス)

キンバリーと一緒にキタラで彼女の素晴らしい演奏を聴いたのが懐かしい。
今月17日にキタラでの演奏会があります。行く予定です。私が弁護士になって2年間お世話になった事務所のI先生が誘ってくれました。嬉しいお誘いでした。キンバリーの命日の翌日です。
I先生は,キンバリーが亡くなる前の年に円山で偶然会ったときに声をかけてくれ,帰ってきたキンバリーから「嬉しかった」と聞いていました。声をかけるということが,どんなに慰めや勇気を与えるかということを,キンバリーとの時間の中で知らされました。










函館の依頼人の女性から,思いやりのこもった暖かいメールをいただきました。ありがとうございます。

2011年6月2日木曜日

2010年6月2日ニューヨーク

去年の6月1日午後にロスアンジェルス空港に着きました。マイレージのアップグレードが使えたので,ビジネスクラスでゆったり行くことができました。キンバリーは右隣に座った黒人男性と「どこに行くのですか?」とか,楽しそうに話をしていました。これが最後のアメリカへの旅になるかもしれなと思っていたと思います。それでも,母親や妹に逢えることがとても嬉しかったのでしょう,頭痛もなくなり(点滴の効果があるということは,脳に転移していることの証明なのですが),家族で旅行に行くときのような気持ちにもなっていたのだと思います。医師に余命が最悪で2週間と宣告されているような人の姿ではありませんでした。

ロスで大学時代の友人シンディと会って,食事をして彼女の家に行き,お茶をごちそうになって,夜10時半頃の飛行機でニューヨークに向いました。
JFKに着いたのは2日の朝7時頃。母親・妹のスー・親友のリサが迎えに来てくれました。スーの家までは約2時間。助手席に座ったキンバリーが僕が撮影していたビデオに向かって「ハーイ」と言って笑っている姿が残っています。

一旦,スーの家に行き,少し休んでから,ガンセンターに行き,アメリカの主治医であるシーゲル医師に会いました。日本と同じく,最悪で2週間と言われました。治療方法についての話で,頭蓋骨に穴を開けて抗ガン剤のような治療薬を腫瘍部分に注入する方法があると図解して説明されましたが,そうするともう飛行機には乗れないと言われ,キンバリーは即座に「それはだめ。」と答えました。日本に帰ることができなくなるような治療はしたくないのでした。

それからの日々。まだプールで泳ぐこともできたキンバリー。

何だか音楽を聴く気持ちになれません・・・

2011年6月1日水曜日

今日からアメリカです

といってもアメリカに行くというわけではありません。
去年の今日6月1日妻と娘と3人でアメリカ コネチカット州ウェストハートフォードの妻の実家に向けて最後の旅に出発したのですが,これからの毎日は僕の心はあの日16日までアメリカに行っているような感じなのでこんなタイトルになりました。

5月28日に脳転移が確定診断され,脳内圧を下げる点滴を始めると,動けないほどの頭痛が嘘のように消えてとても喜んでいたキンバリー。病院に来てくれたたくさんの友人たちとの時間を過ごし,31日の夕方に外出許可をもらって自宅に荷造りに帰ってきました。本当は,アメリカから母親と妹が札幌に来るということになったのですが,義妹のパスポートが失効していることが分かり,こちらからアメリカに行くことになったのです。頭痛があまりに酷くて,とても飛行機に乗ることなどできない状態だったのが,点滴が効果をあげたので,急遽,飛行機の手配をして1日に出発することになったのでした。医者は反対でしたが,アメリカの家族に会いたい気持ちは強く,自分で点滴をしながら行くことになったのです。妻の胸部には点滴のためのポートが埋め込まれていたので,自分で点滴することができるとういことで,看護士にその手順を教えてもらって,メモもしてもらい出発したのでした。

朝の6時頃,病院の前を私の弟の運転する車で出発しました。友人たちが12~3人見送りに来てくれました。
成田空港までの直行便に乗れないというアクシデントがあり,羽田経由で成田に行くことになりました。ポートは医療器具でそれを埋め込んだまま飛行機に乗ることについて医者の許可書のようなものが必要だとういこと主治医に頼んでいたのが,千歳空港に着いてからそれがないことが分かり,結局成田直行便には乗れなかったのです。

夕方の出発だったので,それまでに空港の休憩室のようなところで点滴。終わるのに3時間くらいかかるので,その間,私と娘は空港内で時間をつぶしたり,点滴が終わったキンバリーの車椅子を押しながら,カメラを買ったりしました。

娘はキンバリーが亡くなるまで,脳転移が,余命2週間から2ヶ月だということを知らずにいました。
それが,あとで娘に辛いを思いをさせることになるのですが・・・

これから,1年前の日々が,痛みを伴ってよみがえって来るのは辛いです。
日本にいたなら,私の両親や弟家族などとの最後の日々を共有することができたでしょうが,アメリカでは僕と娘だけが,私の家族としてキンバリーの最後の日々に向かいあっているという感じで,正直,とても孤独でした。いろんなことがありました。まだ整理しきれないという感じです。


今日から1泊で,娘は中学校の宿泊学習で小樽の方に行っています。
久しぶりに一人です。
どんなことをしてもキンバリーを抱きしめることは二度とできないんだということが,1年の時間が経過するなかで,むしろだんだんと重く感じるようになっているこの頃です。

GARTH BROOKS   SEVENS を聴きながら

2011年5月26日木曜日

植草甚一さんのようになりたいもんです

昨日は裁判で函館に行ってきました。JRを利用しました。
座席について反対側を見ると,70歳くらいとおぼしき男女が座っていました。聞こえてくる会話からこれから登別温泉に行く夫婦だということが分かりました。
次の瞬間,突然涙が溢れてきました。自分でもびっくりしました。
そして,「あんな風にキンバリーと一緒に旅行したりすることはもう絶対にできないんだなあ・・・」という思いで胸が満たされました。
登別駅で降りて,改札口に向かって行く二人の後ろ姿をぼんやりと眺めていました。

仕事をリタイアしたらアメリカに住みたいという話をキンバリーとしていました。
キンバリーは緑がいっぱいある田舎に住みたい,僕はニューヨークのマンハッタンと意見の相違はありましたが,音楽・美術館などを満喫して週末は田舎に帰るというのはどうかとか,夢をいろいろ語り合ったことが懐かしいです。

二人で老後ということはかなわなくなりましたが,いつかマンハッタンに住みたいという気持ちは変わっていません。そんなとき,植草甚一さんのことが浮かんできます。J.Jの愛称で親しまれている植草さんは1908年生まれで1979年,僕が大学4年のときに亡くなっていますが,48歳を過ぎてからジャズを聴き始めてあっというまに精通して評論を書いたり,1974年66歳のときに初めてニューヨークに行ってからは何度も滞在して古本・中古レコード蒐集などでマンハッタンを隅から隅まで歩き回り,その中から何冊もの本が生まれた,とっても素敵なを方でした。一度もニューヨークに行っていないのに,どこにどんな店があるとかの情報がすべて頭に入っていて,ニューヨーカーよりマンハッタンのことは知っていたという話は有名です。
植草さんのように,スニーカーでマンハッタン・ブルックリン・クイーンズ・ブロンクス・スタテンアイランド,ニューヨークのすべてを味わうような日々を過ごせたらいいなと思います。まあ,ブロンクスは動物園(家族で行ったのが懐かしい)くらいしか今のところ思い浮かびませんが,クイーンズはルイ・アームストロング(サッチモ)の自宅を改装した記念館に行きたいですね。マンハッタンが中心になるでしょうが。
ニューヨークのいろんなところに現れる,名物東洋人じいさんになれたらいいなと思っています。

ジミ・ヘンドリックス  ライヴ・アット・バークレー  を聴きながら

2011年5月20日金曜日

酒類のテレビコマーシャル 多すぎませんか

妻の乳ガンが分かってから,治ることを祈願して酒を止めてから3年以上が経ちました。
キンバリーは亡くなってしまい,もう少しで1年が経つのですが,飲酒を再開しようと思う気持ちは全くありません。ビール・ワイン・焼酎・ウイスキー・バーボン・日本酒・・・大学1年の頃から51歳になるまで,かなりの酒を飲んできたわけですが,今では全く飲みたいという気持ちは起きません。
妻が亡くなって,酒を止めた事情を知っている人に,また飲んでもいいんじゃないかということを言われたりすることがありますが,飲みたいと思わないものをまた始める必要もないので,月に一回ある異業種の集まりでスナックにカラオケに行くときも烏龍茶やコーラで歌っています。酒は読書の大敵。起きている間はひたすら本を読んでいたいので,酒をやめていつも頭すっきりは最高です。

酒を止めるまえは,自分はお酒が好きだと思っていたのですが,ほとんど禁断症状もなくいきなり止められたところをみると,勘違いだったのではないかと思うくらいです。思えば,酔っぱらって帰宅してキンバリーにいやな思いをさせたことがありました。ごめんねキンバリー・・・

自分が酒をやめると勝手なもので,酔っぱらった人を見ると,実にいやな気分になり嫌悪感でいっぱいになります。そして,かつての自分もあんな無様な状態になっていたのかと思うと,何か取り返しのつかない恥辱感に襲われます。酒を飲んでいたころの僕を知っている人には,僕が一滴も飲まないということが信じられないという顔をされます。それだけ飲んでいたということなのでしょう。

そんな自分からすると,テレビでの酒類のコマーシャルの多さには驚きます。酒を飲んでいた頃にはそんなことは全く思っていなかったのですが,人気タレントなどを使い,うまそうにビールを飲み干し,そして必ず「カーっ」「プハーっ」というような声とともに顔をしかめるようにビールの美味さを強調しているコマーシャルがあまりに多いので驚いています。それに昔はこういうのは男性タレントなどがやっていましたが,今は若い女性タレントなども同じような声と表情です。何か笑ってしまいます。
僕などの世代では,三船敏郎の「男はだまってサッポロビール」のコマーシャルが懐かしいのですが,昔のはもっと「謙抑的」ではなかっのかと思います。

こんな風に感じるのは, アメリカのテレビでビールや酒類のコマーシャルを見た記憶がほとんどないからです。確か, バドワイザーがアメリカンフットボールの試合中継のときに宣伝してたような記憶はありますが,それ以外にはほとんどありません。アメリカもそしてヨーロッパなども酒類のコマーシャルは厳しく制限されています。日本の状況はそんな観点からみると異常です。

キンバリーと生活するなかで,日本の中にいるだけでは何の疑問も持たなかっただろうことが,実は「チョット変だ」ということに気づかされるということがいろいろありました。もう直接キンバリーと話をすることはできませんが,自分の中で「キンバリーだったらどう思うかな・・・」という対話をこれからもずっとしていきたいと思います。

自宅の庭にある1本の桜がほぼ満開になって,  「たわわに実る」という感じでその重たい花で枝を揺らしています。去年の今日はキンバリーは頭痛がひどくて入院していました。彼女に見せたくてそのときに撮影したビデオが残っています。あれが最後の桜になってしまいました。まだ脳に転移しているとは思ってもいませんでした。脳に転移するともうどうしようもないことは分かっていますが,せめてその事実をもっと早くに発見して,脳内圧を下げる点滴で頭痛から開放してあげたかった,どんなに辛かっただろうと考えると涙が出ます。なぜもっと早くに検査をしなかったのか,当時の主治医の対応に疑問をもっています。今さらどうしようもないのですが・・・

THIRD RAIL   SOUTH DELTA SPACE AGE    を聴きながら
(ジェイムズ・ブラッド・ウルマー(ギター) 入ったファンキーのアルバム)

2011年5月17日火曜日

娘と私が手元にあります

このブログを読んでOさんが「娘と私」(新潮文庫)をわざわざ実家から取り寄せて,事務所のポストに届けてくれました。こんな嬉しい驚きは久しぶりです。ありがとうございます。早速読み始めました。

Oさんの娘さんは彩と小学校の同級生で,今も大の仲良しです。
2007年の夏,言語教育のマスターコースを受けるキンバリーと一緒に,娘さんの I ちゃんが彩と一緒にアメリカに行って,約2ヶ月地元の学校に通ったりして過ごしたのでした。バーモント州のブラッドボローという小さな町にある学校に,車で20分ほど離れたところにあるシンシアという女性の家に間借りをして通う生活でした。僕も最初に行くときに同行しました。シンシアの家について楽しそうに荷物を出したりしているキンバリーの姿が携帯に残っています。2ヶ月後,Oさんの家族もアメリカに来て合流し,ニューヨークで楽しい時間を過ごしました。みんなでブルックリンブリッジを歩いて渡り,ブルックリンのステーキレストランで対岸の信じられないくらいきれいなマンハッタンの夜景を見ながらの食事は最高でした。
その年の11月にキンバリーの乳ガンが発見されるなどと夢にも思っていませんでしたが,キンバリーもとても楽しい思い出を作ることができました。

キンバリーは翌年の2008年の夏もバーモントの大学院でマスターコースを受けました。2回の夏のコースを受けて,論文が通ってマスターの資格が得られるのでした。同じコースを受けているクラスメートたちと,乳ガンを闘う女性を支援するためのウォーキングに参加したりしていました。僕もコースの途中の時期に行ってきました。授業の合間に,ストレッチやヨガのクラスに参加しているキンバリーと一緒に,ヒイヒイ言いながら固まった身体をひねったりしたことが懐かしいです。
その年の受講生4~50名の中から3人だけ選ばれる優秀者にキンバリーは選ばれ,コースの最後に受講生の前で勉強の成果を発表するという栄誉を授けられて,それをとっても誇りに思っていました。
しかし,その年の11月に胸椎への転移が分かったのでした。

あんなに一生懸命生きた彼女を連れ去ったガンが本当に憎い。

THE VERY BEST OF THE EAGLES を聴きながら

2011年5月11日水曜日

ケープコッドの思い出

前回のブログで川本三郎氏が逮捕された罪名を「犯人隠匿」と書きましたが,「証拠隠滅罪」の間違いでした。お詫びして訂正します。

記憶だけで「マイ・バック・ページ」で確認しなかったので,川本さんに迷惑をおかけしなかったか心配です。

記憶が実に曖昧で不明確なこと,キンバリーとの思い出を思い返すたびに痛感します。食事をしたレストランのことは覚えていてもそれがいつだったのかはっきりせず,メモ程度でもいいから日記をつけておけば良かったと思うようなことが度々あります。

マサチューセッツ州のケープコッドという半島があります。肘を曲げたような形をしていて,避暑地として有名です。1995年の夏,初めてキンバリーと車でドライブしたとき,ケープコッドの肘の当たりにあるチャダムという町に行き,キンバリーの幼なじみのパムの別荘に泊まりました。キンバリーの祖母からとても古くてオンボロの車を借りて(このドライブのあとで廃車にしました),ニューヨーク郊外の叔母の家を出発したときの高揚感とでもいうものの記憶が身体に今も残っています。太陽が照りつける暑い日でした。車にはラジオしかついていないので,CDプレーヤーを買って後部座席に置いて,スーパーマーケットで買ったイーグルスのCDをかけながらのドライブ。イーグルスの音楽が夏のニューイングランドの風景にぴったりで,「あ~,今僕はアメリカにいるんだなあ・・・キンバリーと出逢えてなんて幸せなんだろう・・・」と感激しながら外に流れる風景を,そして運転しているキンバリーを見つめていました。
ニューヨークの北にあるサラトガという町でロックコンサートに行き(そのとき聴いたリトル・リチャードが最高でした),ビデオで撮影していたら係員に見つかり(通路に立って堂々と撮影していたのだからすぐ見つかるのは当然でしたが,興奮していて撮影してはだめだということを全く考えなかった)かなり遠くにある駐車場までビデオを置きに行かされたこと(係員がずっとついてきました)・・・

ケープコッドには結婚した後の夏に何度か家族で行きました。キンバリーの弟家族や妹も一緒に。


5月になってから,毎日のようにキンバリーが夢に出てきます。今朝,目覚める前,一緒に踊っている夢を見ていました。目が覚めて,横に彼女がいないことが,何だか不思議な感覚でした。今もベッドの左側に寄って寝ています。右側が彼女の場所でした・・・

J.S.バッハ  音楽の捧げもの   有田正広・寺神戸 亮 他を聴きながら

2011年5月10日火曜日

川本三郎~マイ・バック・ページ

川本三郎氏の著書を読みました。
①「小説家たちの休日 昭和文壇実録」(文藝春秋)
②「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」(平凡社)

①は樋口進氏撮影の小説家の写真に川本氏の文章が組み合わさったもので,永井荷風から江藤淳まで65人の小説家・評論家についてのいろいろなエピソードが簡潔なしかし暖かい眼差しを感じる文章で描かれています。
獅子文六の筆名が「百獣の王ライオンの獅子に,文豪(文五)に勝る文六」から来ていることを初めて知りました。この筆名が何となく古くさい感じがして,今まで彼のものを読んだことはほとんどありませんでした。その彼が,29歳のときにフランスに留学し,そこで知り合ったフランス人女性と結婚して娘が生まれたが,その女性は若くして病没したということを知りました。男手で娘を育てることになり,その娘との物語「娘と私」という,昭和10年頃,身体の弱かった小学生の娘とひと夏を房総、九十九里の片貝海岸で過ごした思い出を描いたものがあるとあったので,探してみましたが,今売られている文庫にはなく,全集も書店にはないので,残念ながらまだ読めていません。彼の写真は,庭でパターの練習をしているところが使われています。同じような境遇だった彼に親近感がわいています。何とか「娘と私」を読んでみたいと思います。

②は川本氏がアサヒジャーナルの記者だったときに,ある事件に関わって,犯人隠匿の罪で逮捕され,会社を解雇されるまでの経過の中で,60年代の雰囲気を描いたもので,松山ケンイチ主演で映画が公開される予定です。このタイトルはボブ・ディランの歌から取られたものだと思います。

そして,「今も、君を想う」(新潮社)です。
氏の愛妻、川本恵子さんは,2008年6月17日の未明,食道ガンで亡くなっています。57歳。
川本氏が会社を解雇されたとき,婚約していた恵子さんに,婚約を解消したいと言ったとき,21歳の彼女は「私は朝日新聞社と結婚するのではありません」と言って,二人は結婚したのでした。

この本は,昨年の7月23日に購入して,8月19日に読了していますが,また読み直しています。キンバリーが亡くなって,娘の彩と札幌に帰って来たのが7月13日。何か自分を支えてくれる本がないかと書店を見て回る日々が続き,そのときにこの本に出会ったのでした。読みながら涙が止まりませんでした。恵子さんの亡くなったのが,2年前のキンバリーと1日違いであることにも何かのつながりを感じました。食道ガンは苦しむことが多いのに,恵子さんは医者も驚くくらい安らかな旅立ちだったとのことです。この題名は,今の僕のキンバリーへの気持ちそのものです。

映画評論もすばらしい川本さんにいつか会ってみたいなと思っています。
本が,今の僕の大きな支えのひとつです。

リスト  ピアノソナタ ロ短調 イーヴォ・ポゴレリチ(p)を聴きながら

2011年5月2日月曜日

1年前のGW

GWの谷間の2日です。
娘の彩は学校に行っています。連休の谷間に平日があって,学校がカレンダー通りにあるときには,キンバリーはいつもちょっと不満でした。会社などはその日を休みにして連休にすることが多くなっているので,親は休みで子どもが学校となると,家族で旅行したり外出できなくなってしまうことが理解できないのでした。

去年の5月1日には,キンバリーと二人で「ぬか風呂」に行きました。これは,糠が発酵するときに発する熱を利用したもので,大きな木枠の箱の中に糠が入っていて,その中に10分~15分入り,身体についた糠をシャワーで洗い落としてから,ゆっくりと横になって休むのです。すると汗が大量に出てきて,新陳代謝を良くして免疫力も高めるという効果が期待できるというもの。キンバリーはこのお風呂が大好きで,ときどき一緒に行っていました。去年の今頃は,まだ脳に転移しているなんて思ってもいないので,ぬか風呂を続けてガンを治そうねという気持ちで行っていました。

その後,頭痛がどんどんひどくなり,入院したりするようになりました。あまりにひどいので,脳の検査をすることを医師に相談すると,CTで検査するということになりました。MRIでなければ脳は分からないのではないかと言いましたが,脳の周辺部を診るにはCTの方がいいという答え。結果は「何も異常は認められない。偏頭痛ではないか。」でした。その後,それがぬか喜びだったことが分かるのですが,「良かった」と喜んで,頭痛専門医を紹介され,偏頭痛に即効性があるという薬(鼻から吸引するもの)を処方されましたが,全く効果がありませんでした。5月24日頃のことです。そして,MRIで脳髄膜炎と診断されたのが5月28日。最悪で2週間,もって2~3ヶ月と言われました。その日,確定診断のために脊髄液を採取するとき,痛いのを怖がって,僕の腕にギュッと強くつかまっていたキンバリー。僕は涙が止まりませんでした。

急激に体調が悪くなって,脳転移が判明し,急遽アメリカに向けて6月1日に出発することになった5月。1年前の日々のことが蘇ってきます。

モーツァルト 交響曲33番 ムラヴィンスキー指揮レニングラートフィルを聴きながら

2011年4月28日木曜日

ゴールデンウィーク2011

去年の5月5日の子どもの日に自宅のデッキで撮影したビデオが残っています。
テーブルを出して,地理の勉強で彩が世界の国名を覚えるのをキンバリーが手伝っている様子が写っています。
桜の木が一本あるのですが,まだ蕾です。
「アルゼンチン・ペルー・・・」白地図を見ながら国名を挙げていく彩,合っていたら「ウン」と答えているキンバリー。
そのときはキンバリーの頭痛も小康状態だったので,家族の時間が持てたのでした。

僕の財布の中にはたくさんのポイントカードが入っています。「主夫」?としては当然のことだと思いますが,彩には財布が膨らんでみっともないと言われています。その中に札幌駅の地下街にある「おきなわや」という沖縄料理のポイントカードもあって,さっき見てみたら去年の5月5日に行っていることが分かりました。夕食をそこで食べたのでした。

ことしのゴールデンウィークは彩と二人です。
ビデオに写っているキンバリーの姿を見ていると,彼女がもういないということが本当に本当なのか分からなくなるような感覚になることがあります。ビデオも写真も,直接彼女に触れることはできません。当たり前のことですが,当たり前に思えないのです。そんな話をすると,彩に「お父さん大丈夫? 」と言われます。大丈夫なんでしょうか・・・

キング・クリムゾン 21世紀のスキゾイドマンを聴きながら

2011年4月27日水曜日

最後の映画~夫婦50割

手元にシネマフロンティアの半券があります。
去年の4月22日の「ゴッドファーザー」 24日の「アリス・イン・ワンダーランド」

ゴッドファーザーはアメリカ映画史に残る傑作だと思っていますが,キンバリーはマフィア映画は好きではないということで,観たことはありませんでした。僕も,この映画が封切られたときは,あまり興味が持てなくて観ていませんでした。その後,DVDでパート3までボックスセットで購入して,何度か観ていましたが,映画館で観たことはありませんでした。そんなとき,シネマフロンティアで一日に1回だけ昔の映画を上映する企画の中でこの映画が上映されたので,キンバリーを誘ったのでした。
見終わって「こんないい映画だとは思っていなかった。」と言っていました。

監督のコッポラは,サンフランシスコの北にあるナパヴァレーにワイナリーを持っていて,1999年の夏,キンバリーの家族がみんな集まって一軒家を借りて過ごしたとき訪問しました。彼の映画の博物館のようになっていて,「タッカー」で使われた自動車とか,いろいろな小道具が陳列されていたのを思い出します。彼の名前の入ったワイングラスを買って,しばらく使っていました。

ゴッドファーザーが彼女と最後に観た映画だと思い込んでいました。ところが,ある日,5年ダイアリーを開いてみたら,アリスの半券が3枚挟んであったのです。娘の彩と3人で観に行き,混んでいたので前から3列目の席で3Dのメガネをかけて観たのでした。とても楽しそうに観ていた彼女を思い出します。

最後に二人で観た映画としてゴッドファーザーは永遠に残ります。


アリスの半券に「夫婦50割」と印刷されています。僕が50歳になってからは,これで割安で観られるのをいつも利用していました。もう「夫婦50割」で観ることもないんだなあ・・・とこの印刷文字をじっと見ていました。

テレビで3月29日に録音したというスーちゃんのメッセージを聴きました。
穏やかな声でしたね。

シベリウス 交響曲第2番(コリン・デイビス指揮ロンドン交響楽団)を聴きながら

2011年4月22日金曜日

田中好子さん スーちゃん

元キャンディーズのスーちゃんが乳ガンでなくなったことをニュースで知りました。昭和31年生まれの55歳。僕と同じ年だったんですね。とても,とても悲しいです。

早稲田大学に入学した1975年はキャンディーズの全盛期で,僕は法学部英語会というサークルに入ったのですが,部室のカセットレコーダーで「年下の男の子」が流れていたことをよく覚えています。1号館地下の暗い部室に響いていた彼女たちの歌声がちょっとミスマッチで,余計に印象に残っています。ネットで調べたら,ミキちゃんも僕と同じ年齢なんですね。大学4年のときに解散したキャンディーズは,同時代を共有した忘れられない存在です。実は,解散コンサートのdvd持っています。山口百恵も持っています。

なんて残酷なことかと思います。

キンバリーと逢っていると信じています。

キャット・スティーブンスを聴きながら

2011年4月21日木曜日

1972年

車で移動中には,FMラジオかCDを聴いています。
3日くらい前のことですが,車のコンソールボックスに入っていたCDを何気なくかけました。
グラス・ルーツの「恋は二人のハーモニー」から始まる1972年のヒットソングを集めたCDでした。
スリードッグナイトの「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」が2曲目で,当時,大好きだったので懐かしいなあという感じで聴いていました(ちなみに,1975年に大学で東京に行き,初めて武道館でライヴを聴いたのがスリードッグナイトでした)。3曲目はニルソンの「Without you」これはシングル盤で買って,何度も聴いた曲です。4曲目はニューシーカーズの「愛するハーモニー」。

そして5曲目にかかったのが Cat Stevens の Morning Has Broken(雨にぬれた朝)。

あの朝のことがあざやかに蘇ってきました。妻が亡くなったあの朝。
僕と娘とで彼女の身体をきれいにしてローションをぬってあげて,服を着せてあげたあと,妻の母親が彼女の眠っている部屋に来ました。ベッドの上で彼女を抱き抱えて,彼女に声をかけながら泣いていました。そのとき,僕はこの曲をかけたのです。天国に旅立っていく彼女の初めての朝に初めて聴かけせてあげる曲はこの曲しかないと思って。

Morning has broken
Like the first morning
Blackbird has spoken
Like the first bird

Praise for the singing
Praise for the morning
Praise for them springing
Fresh from the world

母親と一緒に彼女を抱き抱えたときの感触がそのまま,この曲と一緒に感じられました。

このCDの最期の曲はドン・マクリーンのアメリカンパイでした。
キンバリーの大好きだったこの2曲が同じ1972年の曲だったことに初めて気がつきました。

2011年4月19日火曜日

ジム・キャリー

前回の2つ目のジョークで「全身」が「前進」になっていました。お詫びして訂正します。
アメリカ大統領はクリントンやオバマと弁護士出身が多く,もしかすると,こんなジョークを読んで笑っているのかもしれません。いや絶対読んでいるはずです。

ジム・キャリー主演の映画に,彼が弁護士の設定のがあって,英語の冒頭で彼の子どもが学校の先生か誰かに父親の職業を訊かれるシーンがありました。小さい子どもなのでまだ舌足らずで, 「Lawyer」と言ったつもりが「liar」(嘘つき)に聞こえるような発音になって,それを聞いた先生が
「あー,弁護士なのね」と答えるというオチでした。

ジム・キャリー 僕はわりと好きです。キンバリーはいまいちと言っていましたが。
先日観た「イエスマン」も面白かった。

マレイ・ペライア(ピアノ)  ベートーヴェン ピアノソナタ第2番を聴きながら

2011年4月18日月曜日

アメリカの弁護士ジョーク つづき

1  列車にロシア人・キューバ人・アメリカ人そして一人の弁護士が乗り合わせ,自分の国の自慢  
  話が始まった。
   ロシア人  わが国には最高級のウォッカがいくらでもあるのでいらくでも飲める。
   そう言って,飲みかけの最高級ウォッカのビンを窓から放り投げた。

   キューバ人 わが国には最高級の葉巻がいくらでもある。そう言って,ほんのちょっと吸いかけ    
   た最高級葉巻を窓から放り投げた。

   するとアメリカ人が立ち上がり,窓を開けてそばにいた弁護士を放り投げた。

2 マークはひどい交通渋滞に巻き込まれ,もう30分も動かない状態になっていた。
  そこに,一人の少年がスケートボードに乗って渋滞している車の間を縫って彼の方にやってき 
 た。「君。何でこんなに渋滞してるんだ?」
 「頭のおかしくなった弁護士のせいですよ。路上に寝ころがって,前進にガソリンを浴びて,火をつけるぞと大声で叫んでいるんです。それで彼のために何かできないかと僕が回っているんです。何か寄付しますか?」
 「いくら集まったんだい?」マークが尋ねました。すると,少年が答えた。
 「えーと,マッチ箱30個くらいとライター23個だよ。」


こんなジョークが手元にある本に120ページにわたって集められています。

この本 The Best Lawyer Jokes は,7~8年前にニューヨークで買ったものです。キンバリーにも読んで聞かせてあげて,笑っていました。

ときどき英語を使う仕事があります。キンバリーが生きていたときは,彼女に手伝ってもらっていました。英語の文書を書くのは,正直大変に難しい。私の英文をそのまま使ったら,とても弁護士の書いた文章とは思ってもらえいないでしょう。
昨日,キンバリーの親友のアメリカ人女性のところに行って,英文チェックをしてもらってきました。
キンバリーがいないんだということを実感させられました。その女性はキンバリーより1歳下でしたが,12月22日生まれでキンバリーと同じす。去年6月1日,病院前を出発したときただ一人ハグしてくれた大の仲良しでした。
また,英文を書いたり,ノンネイティブには分かりづらい英文が出てきたとき,いつでも相談できたキンバリーがいないことを思い知らされるでしょう。


ミカラ・ペトリ Michala Petri(リコーダー)のSCANDINAVIAN MOODSを聴きながら。
(リコーダーがこんなに豊かな表現力があるのかと驚く,とっても素敵な演奏です)

2011年4月16日土曜日

2ヶ月

今日はキンバリーの月命日。2ヶ月であの日がやってきます。
去年の4月13日は中学1年になった彩の初めての授業参観日でした。一緒に担任の国語の授業を参観しました。7日は入学式で,式の終わったあと,PTAの役員を決める集まりがあり,キンバリーは真っ先に手を挙げて,「教養部」の担当になりました。僕も一緒にやりたいと思い,手を挙げたのですが,夫婦でなるのはちょっと・・・ということで辞退。PTAの活動をたくさんやりたいと思っていたキンバリーですが,13日にあった第1回の会合に出席はできたものの,5月の会合は体調が悪くもう参加できませんでした。彼女の脳ではどんどんと癌細胞が増殖していました。頭痛もひどくなっていました。それでも,娘の彩の学校生活に積極的にかかわろうとしていたその姿を思い出し,自分にはとてもできないと思います。最期まで本当に素敵な女性でした。

これから,去年のあの日までのことをいろいろと思い出すと思います。

今日は彩とちょっと買い物などに出てきました。大丸のエスカレーターに乗り,たくさんの買い物客の行き交う姿を目にしながら,「キンバリーは本当にいないんだな・・・本当にもう逢えないんだな・・」ともう何度も繰り返している想いに胸がいっぱいになりました。

Bonnie Raitt    Fundamental   を聴きながら
(キンバリーの好きだった女性シンガーです)

2011年4月15日金曜日

弁護士ジョーク 日米比較

ときどき弁護士にかかわるアメリカのジョークを紹介していますが,先日,依頼人の方に,ある雑誌で読んだジョークの面白さがよくわからないので,解説?してほしいと言われました。
読んでみるとこういう内容でした。

 道路にヘビと男の死体があった。ヘビの前には急ブレーキをかけた跡が残っていたが,男の死体の前にはブレーキをかけた跡は全くなかった。男は弁護士だった。

 アメリカ人ならきっと大笑いするでしょう。
 強欲で嘘つきで人情など何もない,というアメリカの弁護士イメージがよーく身についていると,この手のジョークは面白くてたまりません。


ちょっと急用ができました。
この続きはまた。

THE WHO  MY GENERATION を聴きながら

2011年4月13日水曜日

初めてかも

このブログでキンバリーのことに触れなかったのは,彼女が亡くなってから初めてだったかもしれないと,この前のブログを読み直して気がつきました。書きながら,去年の今頃,今年と同じようにマスターズを見ていたとき,キンバリーも起きて来て,一緒に見たことを思い出したりしていたのですが,文章中では触れませんでした。

まだ1年前にはキンバリーに逢うことができました。4月には映画も観に行っています。カラオケにも行きました。
もう二度とそんなことができないということが,まだ信じられません。

ビートルズ A DAY IN THE LIFE を聴きながら

2011年4月11日月曜日

マスターズ2011

南アのシュワーツェルが13アンダーで優勝でしたね。マキロイがあっと言う間に崩れてしまい,マスターズの,ゴルフの怖さを思い知らされました。タイガーが10アンダーまで伸ばしたのはさすがです。今年は復活もあるのでは。

オーストラリアのジェイソン・デイも良かったですね。早くに父親を亡くして,道を踏み外そうになったとき,母親に勧められて始めたゴルフが彼の人生を救った,ということのようですが,そういう話には弱いので,あとで調べてみようと思いました。

アメリカの弁護士ジョークからゴルフ絡みをひとつ

ティーショットが大きくフックして隣のホールに行ってしまいました。ボールを探しに隣のコースに向かうと,ボールの近くの地面で痛みに呻いているゴルファーがいました。その男いわく
「私は弁護士だ。5000ドルの賠償でどうだろう」
フックボールの男「すみません。本当に申し訳ない。でも,私は「fore」と叫んだのだけど」
すると弁護士は立ち上がり,土埃を払いながら言いました
「それでいいよ。」

お分かりでしょうが,ボールが隣のホールに飛んで行ったときなどに「ファー」と大きな声で言って,危険を知らせますが,英語では「fore」=「four」と発音されるので「4000ドル」で交渉成立と弁護士は解釈したというオチでした。


シベリウス~交響曲1番  ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団  を聴きながら

2011年4月8日金曜日

マタターズが始まりました

今年のマスターズが始まりました。
朝4時前に起きて,テレビの前に。石川遼・藤田は1アンダーでホールアウト。
去年のマスターズも早起きして見ました。キンバリーがよくそんなに早起きできるねと感心していました。番組が始まるときに流れるテーマソングとオーガスタの景色がとても気に入っています。
いつか家族でマスターズ見に行きたいねと話していたことが思い出されます。

娘は今日と来週月曜日学力テスト。ちょっとナーバスになっていました。

あと2ヶ月ちょっとで妻の命日です。もうそんなに時間が経っているのかと思います。信じられません。


ハイドン ピアノソナタ イ短調 ポゴレリチ(p) を聴きながら

2011年4月6日水曜日

ユリシーズ(その後) その他

ようやく暖かくなってきました。
我が家の犬たち(フラットコーテッドレトリーバーのロイ(オス)とビーグルのライ(メス)二人とも5歳)の散歩も楽になりました。私は5歳頃に右足ふくらはぎを噛まれて7針くらい縫ったというトラウマがあるためか,犬はあまり好きではなかったのですが,亡き妻が,一戸建てに住むようになったらどうしても欲しいということで,ビーグルなら私も漫画のスヌーピーが好きだったこともあって,いいだろうということで,まず生後3ヶ月くらいのライがやってきました。ところが,それから2ヶ月くらい経ってから,ペットショップに室内の柵を買いに行ったとき,生後4ヶ月くらいのロイに妻が一目惚れしたということで,世話は全部やるからという約束でロイも我が家にやってきたのでした。

2008年の今頃は,抗ガン剤治療と放射線もほぼ終わった頃で,毎朝,妻と二人でロイ・ライと散歩していました。近くの北大構内を通り,北に向い,北24東1にある喫茶店に寄って帰ってくるというのが日課になっていました。毎朝,散歩しながらあのときのことがよみがえって来て,一人で散歩していることがたまらなく悲しくなってきます。まだ元気だった彼女の姿が,散歩中の風景の中に見えるような気がします。

読み始めたユリシーズの歩みは遅く,ようやく46頁に来たところです。しかし,注釈本だけで数百ページになる凄い小説だと思います。少しずつですが,面白くなってきています。

新学期になり,NHKラジオ講座でフランス語を始めました。ラジオ講座を自動的に録音してくれるラジオサーバーにフランス語と実践ビジネス英語が毎日録音されています。フランス語も聴き始めてから3年になり,応用編がかなり理解できるようになっています。ニューヨークでこの冬,フローベールの「ボヴァリー夫人」の新英語訳を買ってきたので,これと仏語の原書と日本語訳を並べて読むというのも始めました。もともと語学は何時間でもやっていられるという体質で,英語や仏語を読んでいるときが最高に幸せな時間です。

去年の昨日は,妻と娘と3人でカラオケに行った日でした。そのとき撮ったアイフォンのビデオにシンディ・ローパーのtime after timeを歌っている妻が残っています。ドン・マクリーンのアメリカンパイもよく歌っていました。妻が意識をなくしてから旅立つまでの数日間もこの曲を何度もかけてあげました。ビデオを見ていると,彼女がもういないなんて信じられない気持ちです。

今日は娘の中2の始業式でした。小学校からの親友と同じクラスになれて,大喜びで帰ってきました。中1の1年は娘にとっても大変な年でした。これからが楽しく充実した毎日になるように祈っています。娘の希望で,今日は妻とも良く行っていたススキノにある寿司屋で夕食にする予定です。

モーツァルト 交響曲40番を聴きながら

2011年3月29日火曜日

By the time I get to Phoenix その2

前回のブログでこの曲名がどういう関係で出てきたのかちょっと不明でしたね。
たまたまこの曲が聴きたくなり,探してみたら,グレン・キャンベルのベストCDが見つかり,聴いてみたのでした。そして,長年,この歌の歌詞について全く勘違いをしていたことに気がつきました。

この歌は,フェニックスにいる恋人に逢いに行こうとしている男性の気持ちを歌っているものとばかり思っていました。ところが,この曲は,恋人と別れることを決心した男性の歌で,恋人のいる町から車げオクラホマに向かうまでのことを歌っていて,彼がフェニックスに着く頃に彼女が起き出して,「僕は君と別れて町を離れるよ。」というメモを見つけ,今までも何度もそんなことがあったので彼女は信じないだろうななどと思いながら車を走らせ,アルバカーキ,オクラホマへと彼女から離れていくことを描いているのでした。恋人にもう少しで逢えると想って,喜びに浸っているものとばかり思っていたのですが,全く逆でした。

この曲の邦題は「恋はフェニックス」になっています。全く歌詞の内容に合っていません。昔はこんなことがよくあったのは知っていましたが,これほど違うとは...

妻は大学時代,親友のリサと二人で,車でアメリカ横断旅行をしました。出発の朝,大きなバックパックを背負った妻の写真が残っています。リサはアンディと結婚してニューヨークに住んでいます。95年6月に妻に逢いにニューヨークに行ったとき,グリニッジヴィレッジ9丁目のリサのマンションに泊まりました。それ以来,毎年,コネチカットの実家に行くときの行き帰りには,リサのところに泊まって,楽しい時間を持っていました。2008年1月4日の乳ガン手術のとき,マンハッタンから車で5時間以上かけて,手術が行われたメリーランド州フレデリックの妻の弟のところまで来てくれました。妻が亡くなった後も,ニューヨークではリサのところに泊まっています。娘と同じ年の長女ディランとその妹のエラ。みんなでブロードウェイにミュージカルに行ったり,マサチューセッツ州タングルウッドの夏の音楽祭に一緒に行ったり,たくさんの思い出があります。

マイルス ESPを聴きながら

2011年3月23日水曜日

By the time I get to Phoenix

今朝は6時頃目が覚めました。すぐベッドを出る気になれず,ベッドのすぐ脇にある本棚に並ぶ本の背表紙を何となく眺めていました(地震が来たら,本に埋まって助からないよと娘に言われています。)。
一冊の本が目に止まり,手にとってみました。「シェークスピア&カンパニー書店の優しき日々」ジェレミー・マーサー著でした。読みかけのまま,他の本に浮気して,いつの間にか本棚に戻されていた本でした。本を開こうとしたら中に挟まっていた写真が5枚ほど落ちてきました。去年の5月31日に自宅のこのベッドの上に私の弟家族や友人たち総勢12名が乗って,妻と一緒に撮った写真でした。アメリカに向けて出発したのが6月1日。入院先から荷造りのために外出許可をもらって,自宅に帰っていた妻と,家の片づけなどを手伝いに来てくれた家族友人たちとの,旅立ち前のちょっと興奮した雰囲気の漂う,思い返すと,楽しい時間だったように思います。28日に乳ガンが脳に転移していることが分かり,余命2週間~2,3ヶ月と医者に言われていたとは思えない,笑顔の妻が写っています。

いつ買った本なのかなと思って,裏表紙を見ました。買った書店名と日付を裏表紙に書くのが,大学時代からの習慣です。去年の5月16日にJRタワーにある三省堂書店で買ったことが分かりました。記憶がよみがえってきました。去年買って,時々書いていた5年日記の5月16日を見てみました。
その日はニッコーホテルで妻とブランチを食べた日でした。二人で行って,ヨーグルトやフルーツを食べていた彼女のことを思い出しました。日記には「胃(吐き気),頭痛。歩けないので,レストラン前のベンチにKimを残して,三省堂へ」と書いてありました。歩くのがしんどいので,書店まで行けないというので,一人で三省堂に行って,この本を買ったのでした。その日がちょうど亡くなる1ヶ月前であることに気がつきました。そのときは,脳転移も1ヶ月後に逝ってしまうなどとは夢にも思っていませんでした。書店から戻って来て,ベンチの彼女が僕を見て立ち上がったときの姿が目に浮かびます。

娘が, 「お母さんが死んでしまうなんて,最期まで信じていなかった。まだ,本当に死んだなんて受け入れられない」と言って泣くようになっています。亡くなるまでのアメリカでの2週間の日々のことを思い出すようです。

東北の地震であっという間に愛する家族・友人などを亡くした人たちのことを思うと,涙が出ます。
妻は私の目の前で息を引き取りました。それは,間違いのない事実です。でも,まだそれが本当のことなのか信じられない気持ちが残っています。愛する人の死を受け入れるということは,本当に簡単なことではありません。被災者の方々がどんなに悲しい想いをしているか,テレビでその様子を見ながら,彼女がいないのだということを思い知らされています。

By the time I get to Phoenix   by  Glen Campbell   を聴きながら

2011年3月10日木曜日

マイルス・デイビス~バースデイライヴ

妻のことで,とても羨ましいと思っていることがあります。僕は音楽全般が大好きで,ロック・クラシック・ジャズなど何でも聴くのですが,その中で別格の存在はビートルズ・ベートーベンそしてジャズトランペットのマイルス・デイビスです。マイルスには公式盤の他にいわゆる海賊版といわれるものが大量にあり,僕は,中山康樹著「マイルスを聴け!Version8」(双葉社)に紹介されている562枚のうち,560枚を持っているくらい大好きなジャズミュージシャンです。

マイルスは,1965年12月22日,シカゴのPLUGGED NICKELというライブハウスでウェイン・ショ-タ-,ハービー・ハンコック,ロン・カーター,トニー・ウィリアムスと演奏していて,それがアルバムになって発売されています。この日は,妻の誕生日。マイルスは彼女のために,そのバースデイプレゼントとしてすばらしい演奏をシカゴで繰り広げてくれたのです。あのマイルスが誕生日に演奏してくれたなんて,何と羨ましいことかと,妻に言ったことがあります。彼女はあんまり乗ってくれませんでしたが・・・

ちなみに,僕の誕生日は1956(昭和31)年7月11日(セブンイレブンと覚えてください(笑))ですが,残念ながら,その日にマイルスが演奏したかどうかは分かりません。他の年の7月11日の演奏はあるのですが。

去年の12月22日に,妻のバースデイパーティをしたのですが,終わって帰宅してから,一人で(その頃は娘はまだアメリカにいて,僕一人の生活でした)プラグドニッケルのライヴを聴きました。マイルスがシカゴで演奏しているとき,そこから飛行機で5時間ほど離れたコネチカット州ウェストハートフォードの病院の産まれたばかりの妻のことを想像しながら聴きました。妻の母親から何度も聞かされています。「キンバリーはその病院で産まれた赤ちゃんの中で一番可愛い子で,たくさんの人が見に集まってきたの」 
キンバリーと出会って結婚した頃,実家にある古い写真アルバムを見ました。小さい頃からの妻の写真がたくさんありました。僕が言うのもあれですが,信じられないくらい可愛くて素敵でした・・・

去年の今頃は,脳に転移していることも知らず,頭痛を何とかしたいと,友人に紹介された漢方薬局に一緒に行っていました。とても親身に対応してくれる薬剤師の方と話しをして,薬をもらって,帰りに近くのスーパーに寄って帰ってきたりしていました。いろいろなことが思い出されます。彼女の不在はあまりにも大きくて,まだまだ時間が必要です。

マイルス プラグドニッケルライヴを聴きながら

2011年3月2日水曜日

残酷な運命です

先日,妻の友人と知人の二人の方がお参りに来てくれました。
二人とは2009年10月にYさんを偲ぶ会でご一緒しました。妻も一緒でした。
Yさんはその年の6 月,パリで亡くなっていました。41歳という若さでした。肝臓ガンだったとのことです。フランス人男性と結婚してパリで暮らしていました。

Yさんは,僕と妻の出会いを「演出」してくれた人でした。1995年4 月8日の土曜日午後3時頃,僕は初めて妻に逢いました。場所は,大通2丁目にあるミスタードーナッツの前。その日は由仁町で,帰国することになったオーストラリア人女性のためのお別れパーティが催されることになっていて,それに参加する人たちの集合場所がミスタードーナッツの前だったのです。妻はYさんと一緒に来ていました。僕は他の友人から教えられて,軽い気持ちで行ってみようかなと思っていたのでした。車を停めて降りたとき,歩道に一人で立っていたのが妻でした。目が合って,お互いビビッと来たのでした。これを言うと必ず「自惚れ~」と言われるのですが,妻は僕に一目惚れしたのでした。妻に何度もきいたのですが,本当のようでした(笑)

パーティの場所は,由仁町にある一軒家で,ちょっと変わった建物でした。数年前までは宗教施設だったということで,広い広間があって,そこでたくさんの人が踊っていました。妻と話をするようになって, 翌日になったとき,帰ろうと思った僕は,妻にもし帰るのなら車で送って行くけど・・・と勇気を出して言ってみました。妻は「友達と来ているから,ちょっと聞いてくる」と言って,その友達のところに行きました。それがYさんでした。きっと友達と残ると言うんだろうなと思って待っていると,妻は戻って来て,
 「送ってください」と言ってくれました。それから2週間後の土曜日にアメリカに帰ることになっていた妻でした。2週間後の土曜日,千歳空港まで妻を送って行きました。連絡を取り合おうね,と約束し,妻はニューヨークに飛び立ちました。その後のことは,また書く機会があるかもしれません。

そんなYさんが亡くなったことを知ったとき,妻自身も乳ガンと闘っているときでした。一旦は治ったと思っていたガンが再発してあっという間に体調が悪化したとき,ちょうどYさんのお母さんはパリに向かっていました。お母さんは,まさかYさんがそんなに悪いとは夢にも思っていなかったということです。そして,お母さんが着くのを待っていたかのように, Yさんはお母さんが到着して間もなく亡くなったということでした。

そして,ほぼその1年後の6 月に妻は旅立っていきました。

何という残酷な仕打ちかと思います。

由仁町の僕たちの出会いの場所は,今は,英国人女性で陶芸家でもあるケイトが窯を持って,週末にはカフェとして営業しています。ダンスを踊った広間は改装されてなくなってしまいましたが,ケイトの自宅部分は当時のままで残っています。家族で何度も行って,バーベキューをしたりした思い出の場所です。妻が亡くなってから,何度かケイトに逢いに行ってきました。妻の思い出,初めて一緒に踊った場所が今も残っています。
でも妻と踊ることはもうできないのですね。

ボブ・ディラン 1981/7/14 西ドイツ(当時)ライブを聴きながら

2011年2月24日木曜日

ULYSSES ユリシーズ

読み始めて途中で挫折して最後まで読めていない本がいくつかあります。
例えば,プルーストの「失われたときを求めて」を集英社文庫の鈴木道彦個人全訳で読み始め,1巻目の途中で中断してしばらく経っています  (最近,岩波文庫と光文社新古典文庫で全訳が出始めているので,再挑戦しようと思っていますが)。

ジェイムス・ジョイスのユリシーズも原書で20頁くらいのところで止まったままでしたが,最近,また最初から読み始めています。今度は最後まで読み切ろうと思っています。20世紀文学の最高傑作とまで言われている小説ですが,あらゆるタイプの文体を駆使してダブリンの一日の時間の流れを描いた英語は,難解で,辞書を引くだけではとうてい太刀打ちできないので,最初から日本語訳や注釈書を横に置いて読んでいます。丸谷才一ほかの全訳(集英社文庫),柳瀬尚紀の部分訳(河出書房),「ユリシーズ」注解(北村富治 洋泉社),「ユリシーズ」の詩学(金井嘉彦 東信堂)などを参照しながらの読解なので時間がかかって仕方ありませんが,面白くなってきています。NAXOSというレーベルから出ているユリシーズの全朗読CDもあり,ときどき朗読の声を聞くのも楽しみ。北村氏の本で, ユリシーズを読むために絶対に参照すべき本として Don Giffod著 Ulysses Annotated が挙げられていたので,早速アマゾンで注文しました。便利な時代です。

手元にあるユリシーズの原書は,1997年の夏にニューヨークのワシントンスクエアの東側にあった書店で購入したものです。 ニューヨーク大学のすぐ近くの書店で, 大手の書店にはない,こじんまりとして品揃えも個性的な素敵な店でした。残念ながら今はなくなってしまい, デリカテッセンになってしまいましたが,キンバリーとニューヨークに行ったときは必ず寄った店でした。キンバリーも本が大好きだったので,今のようにアマゾンなどで簡単に手に入れることができなかった当時は,アメリカに行くたびにたくさんの本を買ってきたものでした。ボストン近郊のケンブリッジに行ったとき,二人して両手いっぱいの本をカウンターに持って行って,店員が大げさなジェスチャーでOh my god.と言ったときのことが昨日のことのように思い出されます。そんな思い出のこもった一冊です。

今回は絶対に最後まで読みきる自信があります。それは,この小説の描いてるのが1904年6月16
日の一日だからです。キンバリーの亡くなったのと同じ日付の一日を描いたものであることに,今年のはじめ頃気がつきました。そして,これを絶対にきちんと読み切りたいと思ったのです。あの日の一日の流れを自分の中で思い返しながら,ユリシーズの世界に入っていくつもりです。

キンバリーに褒められたことがあります。
ウラジーミル・ナボコフの「LOLITA」と「SPEAK,MEMORY」を原書で辞書を引き引き,約2年間かけて通読したのを, 「絶対に私にはそんなことできない。たけしのそういうところ凄い」と言ってくれました。私は英書を読んで辞書を引いたとき,辞書の余白にその本の略号を使って,その単語がある頁を記入します。例えば,Ulyssesの25頁にあった単語であれば,原書のその単語をエンピツで囲み,
辞書の余白に「U25」と書いておくのです。他の本で同じ単語を引いたときは,その下に同じように書き込みます。すると,他の機会に辞書を引いたとき,その単語がどの本のどこで, どのような文章の中で使われていたのかを参照することができます。辞書の表紙に書かれている略号は50個くらいになっています。この読み方はなかなか優れているのではないかと思っています。

キンバリーが今にも事務所の僕の部屋のドアを開けて,入ってくるような気がしてしまいました。
逢いたくてたまりません。

FRANZ FERDINAND    Ulysses を聴きながら

2011年2月17日木曜日

最後の授業

手元に小さな写真アルバムがあります。去年の3月25日。北区にあるはぐくみ保育園での妻の最後のクラスの様子を撮影した25枚の写真を1ページに1枚ずつ印刷して,それをアルバムの形にしてくれました。もうその頃は,頭痛も出るようになり,胃の調子も悪く,体調は良くなかったので,写真の中の妻の表情はあの輝くような笑顔ではなく,やつれたような疲れた表情で,見るのがつらいですが,子どもたちに英語の絵本を表情豊かに読んであげたりてしている姿が,びっくり部屋でのクラスの様子を思い出させてくれます。元気な頃のキンバリーのクラスは笑い声があふれて,見ているだけで楽しくなる時間でした。去年は,4月からびっくり部屋を再開したいと思っていましたが,それは叶いませんでした。保育園が最後のクラスになりました。

びっくり部屋の生徒のお母さんが,まだ乳ガンがわかる前の2006年のクラス風景を撮った写真のアルバムを作ってくれました。ハロウィーンパーティをしたとき,ピエロに扮したキンバリーの姿が写っています。近所の家にお願いしてtric or treat (日本の七夕のようにお菓子をくれないとイタズラするよ,と言って,お菓子をもらって歩く)をしたこと(私が悪魔の扮装をして先頭に立ったこともありました)が思い出されます。

妻は,今はなくなりましたが,HBCの花テレビにコメンテイターのような役割で出ていたことがあり,びっくり部屋のクラス風景が放送されたこともありました。そのときのアナウンサーだった人とひょんなことから知り合いになり,テレビ放送されたものが放送局に残っていたらDVDに落としてもらえないかと頼んだら,ひとつだけ残っていたとのことで,DVDを作ってくれました。北20条のビルの一室を借りてやっていたころのクラス風景で,英語を使って簡単な科学の実験をしている様子などが写っています。わざわざ作ってくれたのを,昨年10月末にアメリカの妻の実家に行くとき持っていくことができ,妻の母親や妹と一緒に見ることができました。ありがとうございました。

そんな妻の姿をもう二度と見ることができないのだと思うと悲しくなります。


STARSHIP  GREATEST HITS  を聴きながら

2011年2月8日火曜日

スターバックス

娘とアメリカから帰って来てから3週間が経ちました。ようやく中学校にも行けるようになりました。帰って来てからしばらくは,精神的にまだ安定せず,時差ぼけで体調もあまり良くなかったのですぐに学校に行くことができなかったのが,何とか行けるようになりました。
早速15日から学年末試験があるということで,かなりハードな毎日になっています。亡妻の病状が悪くなってからほとんど通学できず,6月1日にアメリカに行き,7月に一旦戻り,また10月末頃からアメリカ滞在と,落ち着かない日々が続いていて,勉強どころではありませんでした。
そんな状況での試験は,精神的にも大変です。入学当初から,高校受験を意識させらることを学校に言われているので,自分の将来に対する不安も募っています。何とか協力して乗り越えていくようにしたいと思っています。

もう先月のことですが,函館出張のとき,JR札幌駅の西口のみどりの窓口の近くのスターバックスでカフェラテを注文して待っているときでした,妻とよくスタバで待ち合わせたりしたこと,アメリカに行ったときもよくスタバに行って,「カフェラテは日本の方が美味しいね。水がちがうからかな。」なんて話したこととかを思い出したのだと思いますが, 涙があふれてきました。スタバのようなチェーン店を嫌う人もいるかと思います。せっかく,初めての異国の地に来て気持ちよく歩いていたら,ほとんど世界中同じ雰囲気のスタバに出くわして興ざめしてしまったという経験がないわけではありません。
でも,世界中どこに行っても,そこに行けば妻のことを思い出せる場所,という見方もできるのかもしれません。それと,外国で見知らぬ街に入り込んでしまって,不安な気持ちになっているときにスタバのサインを見たときに感じる安心感というものも経験したことがあります。ニューヨークのタイムズスクエアのスタバには観光客がたくさん入っていました。アメリカの田舎(失礼) から出てきた人たちや外国からの観光客で混雑していましたが,自分の町にもあるスタバに入って,ちょっとホッとしていたのかもしれません。

今は,どこに行っても妻との思い出がよみがえって来てしまい,つい涙ぐんでしまうことが多いので, あまり出歩かないようにしています・・・というわけにも行かず・・・

とにかく,娘と一緒の生活はやはり楽しいです。キンバリーも喜んでいてくれると思います。
でもまだまだ彼女が本当に亡くなってしまったとは信じたくない気持ちがあります。
あの声が笑顔がないなんて,受け入れられない気持ちです。

ブラームス・交響曲第2番 セルジュ・チェリビダッケ指揮 ミュンヘンフィルハーモニーを聴きながら

2011年1月12日水曜日

手紙~ササッパラ

私のブログを読んでいる方から,心温まる手紙をいただきました。
去年の1月22日に,亡くなられたササッパラこと笹原さんのことをブログに書いたのですが,それを読まれた方が,その後,妻を亡くした私の事情を思いやって手紙を書いてくれたのでした。何度も読み返し,涙しました。その方もとても悲しく辛い状況にありながら,私と娘のことを心配してペンをとってくれたのでした。ありがとうございます。

13~4歳の頃は,いわゆる思春期で,心身ともに大きな変化がある時期です。そんな時期に,ラジオから流れてくるササッパラの話を聴いて笑い,自分のリクエストはがきが読まれては大喜びして
また読まれたくて,授業中にこっそりとはがきを書いたりしたことが思い出されます。
一度,私の書いたくだらないコントのようなものを読んでくれたことがあります。ササッパラは当時酒井和歌子の大ファンで,よく番組の中で彼女のことに触れていたので,ササッパラと和歌子さんを登場人物にしたコントのようなものを書いて送ったのですが,それが番組の中で読まれたのです。
読みながら,思わず笑ってしまったササッパラの笑い声が今も耳に残っているくらい,私にとっては大事件でした。嬉しくてたまらなかった。

わざわざSTVまで会いにいくほど,僕にとってはササッパラは特別な存在でした。
天国で,妻に僕のことを話してくれていないかなと思います。

明日,アメリカに行ってきます。
娘が札幌に帰ってくることになり,一緒に戻ってきます。「お父さんと一緒に,お母さんと暮らした家で犬たちと一緒に暮らしたい」  嬉しい娘の言葉です。
しばらくはブログは休みます。

レッド・ツェッペリン 「移民の歌」を聴きながら

新年おめでとうございます

かなり遅くなりましたが,新年おめでとうございます。
先日の大雪と寒波は,ここは北海道なんだなと実感させてくれました。

私にとっては妻がいない初めての年末年始でした。昨年は,友人の山荘でテレビでタイムズスクエアのカウントダウンを見ながら2010年を迎えたのでした。

少しずつブロクに何か書いていきたいと思っています。
今年もよろしくお願いいたします。