2010年11月30日火曜日

久しぶりの夜更かし

昨夜は9時スタートのジャズライヴをハーフノート( 南3西5)で聴いてきました。帰ったのは午後11時50分過ぎで,寝たのが午前零時を過ぎたのは久しぶりでした。
館山健二という札幌で最高のドラマーがリーダーのライヴ。友人でもあり,妻も何度も彼の演奏を聴いていました。休憩のとき話をしました。彼も妻の話になると目が潤んでしまいました。去年の7月19日東京への飛行機の中で偶然会ったのが最後だと言っていました。妻にそのことを聴いていたのを思い出しました。彼女は千葉に治療に行くため,彼は日比谷野音での山下洋輔のコンサートに行くために東京便に乗っていたのでした。「彼女のために演奏します」と言ってくれました。素晴らしい演奏でした。隣でキンバリー(妻) 一緒に聴いているような気がしました。

これからオーストリア人男性の接見に警察署に行ってきました。ネットで僕のことを知ったオーストラリア在住の姉からメールと電話がきて,会いに行くことになりました。国際化しています。

今日も昨日と同じブレンデルのリストでした。

2010年11月29日月曜日

雪の札幌

結構雪が降った札幌です。もう1台の方の車はまだ夏タイヤで,そろそろ交換にスタンドに行こうかなと思っていた矢先に雪になってしまいました。まだ根雪にはならず,一度は溶けると思うので,そのチャンスにスタンドに行こうと思っています。ちょっとのんびりし過ぎていたようです。

明日の裁判の準備が終わり,デスクの近くにあった書類の入った封筒を手に取って中を見たら,妻の伝言が書かれた置き手紙が出てきました。去年の4月,イギリスから友人のルースと息子のセイジが私たちの家に滞在したときのもので,「これから中国領事館に行って,その帰りの足のマッサージをしてきます。ダイアンとランチの予定なので,一緒したかったら私の携帯に電話してください。キンバリー
(炊飯器に炊き込みご飯が作ってあるよ) 」(原文英語)  名前の後ろにスマイルマークがある馴染みの字体で書かれたのを見て,グッとくるものをこらえられませんでした。逢いたい・・・

言いたいことははき出した方が精神衛生上いいという友人からの助言もあり,再度,理解できない弁護士の態度について触れます。

妻も弁護士である同期の弁護士とは, ある事件を一緒にやっていたので,その打ち合わせのために,何度もその事務所に行く機会がありましたが,その際にもただの一度も妻のことを訊かれたり,言葉をかけられたことはありません。普段会っていないのではなく,会ったときにも全く妻のことは無視でした。同じように,弁護団会議でよく会っていた後輩弁護士(妻や娘と一緒にある弁護士の妹の結婚式にフランスまで一緒に行ったこともある弁護士)も,一度も言葉をかけてきたことはありませんでした。ちなみに,妹がフランスで結婚した弁護士からもただの一度も言葉はありません。
また,他の同期の弁護士は今年の初め頃,ある手続きについて僕が分かれば教えてくれないかとの電話をかけてきたので,調べた上で, 電話で教えてあげたことがありますが,その数回の電話のときも妻のことは全く何も触れられず,仕事の話が終わったらそれだけでした。

こういうことは僕には到底理解できないのですが,僕の感じ方がおかしいのでしょうか。

弁護士としては立派な方々でしょうが,人間としては絶対に許せない人たちです。

まだまだ,いろいろありますが,そろそろ止めようと思います。妻が「もういいんじゃない。そういう人たちなんだから」と言っているようです。

こんなこともありました。
先日,僕の出身である早稲田大学と慶応大学の懇親会がありました。会場のホテルで受け付けを済ませて椅子に座っていると,先輩の女性が声をかけてきて,天満敦子さんのことをとうとうと話し始めたのです。彼女とは妻が亡くなってから初めて顔を合わせたのですが,いきなりそんな話を始められたのであっけに取られたような感じで,正直不快でした。
6月21日に札幌グランドホテルであった天満敦子と窪島誠一郎「ヴァイオリンと語りの午餐会」のチケットを妻と一緒に行くつもりで彼女から購入していたのですが,妻が亡くなり,当日は僕はまだアメリカにいたので行けませんでした。そんなことは知らない彼女は,その当日僕たちが会場に来ていないので,僕の携帯に電話をしたところ,アメリカの妻の妹宅にいた僕にそれがつながり,妻が亡くなったことはそのときに伝えていたのです。それが,いきなり,妻のことには何も触れず,天満さんのことを話されたので,一体どういうことなのかなと思ったのでした。

それから数日して彼女から丁寧な手紙と天満さんのCD,妻へのお供えの品とが送られてきました。すぐにお礼の電話をかけて,いろいろと話をして彼女の妻への思いを知ることができました。

ブレンデルのピアノによるリストを聴きながら

雪ですね

札幌は今も雪が降り続いています。うちには車が2台あります。1台は私が通勤や移動に使っているもので,もう一台は赤色の日産X-Trailです。後者は4年前に我が家の二匹の犬たちと移動するときのために妻が選んだ車です。まだ乳がんが見つかる前の夏頃で,いくつかのディーラーを回ったあと,自宅からすぐの日産で購入を決めました。シートの素材が犬の毛が入らないようになっているのが決めてで,デザインも気に入ったのでした。今,妻の遺骨は自宅にあるのですが,そこにX-Trail の横に笑顔で立っている妻と娘を描いた絵が飾られています。妻が亡くなったことを知った日産の担当女性が同僚に頼んで納車当日の写真を元にしてパソコンを使ってでしょうが,きれいの1枚の絵にしてくれたのでした。それ以外にもエコバッグに使える布製バッグの両面に同じ絵柄とびっくり部屋の前の二人の絵をそれぞれプリントしてくれたのも作ってくれました。そして,妻の顔の並んだシールも作ってくれました。自宅にお参りに来てくれたときその絵を見て, 泣いてしまいました。
こんなに手間をかけて妻のためにしてくれたことに心から感謝でした。

高校時代の同期が参加しているメーリングリストがあるのですが,そこに自宅で妻とも会ったことのある女性が,妻が亡くなったことを告知するメールを載せてくれました。事前に載せていいかと問い合わせがありました。9月だったと思います。
反応は全くありませんでした。それはそれなのですが,腹が立ったのは,それから1ヶ月後くらい経った頃,その女性が写真をメーリングリストに載せる方法が良く分からないというメールを載せたところ,同期の弁護士(この弁護士は中・高と私と一緒でもあります)がすかさず載せ方をアドバイスするメールを載せてきたことでした。9月のメールを読んでも何の反応もしなかったのが,写真を載せる方法にはすぐに反応してきていることに怒りを感じました。

2010年11月28日日曜日

日曜日

日曜日の午後,事務所に出てきています。今朝は少し寝坊してしまい,起きたのは7時でした。昨日は朝8時半スタートで北広島でゴルフ。高校時代の同期の仲間3人と回ってきました。終わった後,クラブハウス隣にある温泉に入り,食事をして帰宅。東区にある岩田コーヒーに行って, ロランバルトのMournind Diaryを美味しいコーヒーをのみながら読んできました。ここは,妻と何度も来ていた店で自家焙煎の美味しいコーヒーが飲めるところ。スコーンもパスタも美味しくて,オーナーの堀田夫婦とも仲がよくて,妻がいつも行きたがっていた店です。いつも座っていた席に座って入り口を見ていると,今にも妻が入ってくるような気がしてウルウルしてしまいました。

Mourning Diary は哀悼・悲嘆の日記とでもいうのでしょうか,ロランバルトというフランスの哲学者・評論家が1977年10月に最愛の母親が亡くなったあとに,耐え難い悲しみの毎日に書いていたメモを日付順にまとめたものです。今月の6日, ニューヨークのユニオンスクエアにあるお気に入りの書店「ばーんずアンドノーブル」で見つけて購入したもの。11月28日にこんな文章があります。

 Does being able to live without someone you lovedmean you loved her less than you thought...?
      愛する人なしで生きていけるということは,自分が思っているほどその人を愛してはいなかったと  
 いうことなのか・・・

   バルトは「零度のエクリチュール」「恋愛・ディスクール・断章」「モードの迷宮」などで著名な人ですが,この日記を読みながら,今までとは違った意味でその言葉が心に浸みてきています。

 言葉がどんなに意味を持つかを妻のことで思い知ることになりました。一言も言葉のない同期その他の弁護士たちの冷酷さはいうまでもありませんが,妻のことを知っている他のほとんどの弁護士からも言葉をかけられたことはほぼ皆無でした。わずかに数名が「大変だね」と声をかけてくれました。その時に感じた嬉しさとありがたさはひとしおでした。言葉をかけるという簡単なことでどんなにその相手が救われるかということを身にしみて理解できしまた。それまでは,僕自身が言葉をかけない側にいたと思います。

 今回のことで,本当の友人というものが誰か分かったと思います。
 異動の時期になると,同期の裁判官や検事が札幌に着任したり離任したりします。そのたびに同期による歓迎会や送別会が開かれるのが通例です。僕も昔は出席していましたが,それがいかに偽善的で見せかけのものであったのかがよく分かりました。

 それに比べて,ほんの少しだけ妻と接することのあった人たちが,妻のために涙を流してくれるのに出逢い,妻がどんなに他人に対して本物の愛情を気持ちを持って接していたのかが分かり,そんな女性と出逢えたことがどんなに幸せなことだったのか思い知らされています。

2010年11月26日金曜日

理解できないこと2

先日,アップルストアに自宅のパソコンを持って行きました。家族の写真がたくさん入っているのですが,しばらく前から動かなくなって画面にクエスチョンマークが出たりしていたので,写真が失われては大変なので,持って行ったのです。担当になった男性がパソコンを操作しながら「これってキンバリーさんのパソコンですね」と言ったのです。妻がパソコンの操作方法などについて質問しにアップルストアに来ていたことは知っていましたが,偶然妻に対応した人だったのでした。彼に妻が亡くなったことを伝えました。キーボードを操作しながら,彼の目にみるみるうちに涙があふれて来て, 拭っていました。僕も泣いてしまいました。「びっくり部屋」という妻のやっていた英語体感教室のホームページの作り方を教えてもらいにアップルストアに通っていたのですが,質問や答えのやりとりで妻がとても楽しく笑いながら彼と対応していただろう姿が目に浮かんできました。いつも明るく笑顔いっぱいの妻でした。妻が亡くなったことを知って涙を流してくれた彼に心の中で「ありがとうございます」と言いました。

これに対して,生前も亡くなったあとも一言もない弁護士たちの態度を考えると,彼 (彼女)らの冷酷さが際立ちます。こんなこともありました,3週間ほどまえですが,裁判所近くを歩いていたら後ろから声がかかって来ました。妻とも面識のある弁護士で,妻が亡くなってから会うのは初めてでした。その彼はいかにも軽い調子で「あわおさんげんきー。最近・・・・の集まりに来てないけどどうしたの? 」と声をかけてきました。一体この人間はどういう神経をしているのか到底理解できず,ムカッときたので「妻亡くして元気なわけないだろ!」と言ってやりました。

よく「どう言葉をかけていいか分からなくて・・・」ということを言う人がいますが, 本当に気持ちがあれば,言葉は出てくるはずで,気持ちがないことの言い訳に使われているだけだと思います。柳田元法務大臣と同じです。この言い方覚えておけばだいたいはオーケーってことです。

to be continued

理解できないこと

前回書いたことについて,共感してくれた読者?の方がいたので継続して書きます。
妻が亡くなったあと,しばらくアメリカに滞在し,妻との思い出の場所を娘と訪れたりして過ごし,7月中旬に帰ってきました。妻の遺骨と一緒に。脱線しますが,遺骨の扱いにも日米の違いが現れていて興味深かったです。ニューヨークのJFKの検査には手間取りました。予め検査の際に遺骨について面倒になっては困るので,オーク材の骨箱の中身が妻の遺骨であることを証明する書類を発行してもらっていました。JFK の検査場でその書類を見せ,検査機の中を通過して無事に済みました。
成田でも同じ事態となりました。妻の遺骨であることを係員に説明し,その証明書を見せると,係員は警察官を呼び,警察官が書類を一瞥して「どうぞお通りください」と言ってくれました。ここで日米の違いがあったのですが,成田では骨箱を検査機を通さずに済みました。遺骨に対する敬意というか特別なものであるので検査機を通すことは失礼だという気持ちを感じました。安全性の点からすると少々問題なのかもしれませんが,「日本に帰って来たのだな」というようなちょっと感激した気持ちを抱きました。

そんな日本ですが,日常生活での人間の気持ち,態度については前回書いたような非人間的・非常識・冷酷な言動を取る人間が少なくないことがよーく分かりました。

日本に戻り,慌ただしくアメリカに向けて経ったままの自宅での生活は辛いものがありました。妻の靴・服・食器・・・・・1階の居間にいると,いまにも2階から妻が降りてくるような気がして,声をかけたりしました。近所を歩くと,どこかから妻が僕を呼ぶ声が聞こえてくるような気がしました。北大病院が近くなので歩いて行ったときのことを思い出し,ゆっくりと歩く妻の姿が目に浮かびました。

裁判所に行く時間が来てしまいました。続きはのちほど。

2010年11月22日月曜日

雑記

妻のことが何故かブログ以外のところに載ってしまいました。
6月16日に亡くなったあと,7月中旬まで娘とアメリカに滞在していました。7月11日の僕の誕生日はニューヨークで迎えました。95年に妻と初めて出逢ったのですが,ニューヨークに帰った妻に逢いに6月末にニューヨークに行きました。JFKに赤いばら一輪を持って僕を迎えてくれた妻の姿が今も忘れられません。7月11日の誕生日はプラザホテルに滞在していました。95年は,最近と同じく円高でリッチな気分になれた年でした。その朝,ルームサービスが日本食の朝食を運んできました。妻が僕を驚かそうとして頼んでくれていたのでした。

妻との思い出は限りがありません。

妻の乳がんが発見されたのは,2007年11月末頃でした。それから亡くなるまでの約2年7ヶ月,妻がやっていたびっくり部屋の生徒さんやその親御さんたちが千羽鶴を折ってくれたり,励ましの言葉をいただいたり,とてもありがたかったです。

ところがこんなこともあります。
札幌には同期に弁護士となったのが9人いるのですが,一人を除いて,妻の闘病期間中も亡くなった後も,文字通り,一言も言葉をかけられたことがありません。妻のことも知っているし,弁護士10年目のときには家族でハワイ旅行をしたこともあります。そのうちの一人の妻も弁護士なのですが,妻に,その息子の英語の家庭教師をしてくれる外国人の紹介を頼んで来て,紹介したこともあるのですが,その弁護士からも何の言葉もかけられたことはありません。
妻が亡くなってアメリカから帰って来るとき,もしそんな人間たちから香典が来ていたら突き返してやろうと思っていました。香典はそもそも来ていなかったので,そんなことをする必要もありませんでしたが。

僕のことが大嫌いで,理由は知りませんが憎んでいるのかもしれません。
しかし,そうであっても,一度くらいは何かのことばくらいかけるものではないのでしょうかね。
みなさん,どう思うでしょうか。
こんな弁護士は他にもいます。僕の家に婚約者と来て,妻ともいろいろ話をして帰った弁護士がいますが,この人間からも一言も言葉をかけられたことはありません。

こういう人間を僕は絶対に認めません。