2010年12月29日水曜日

雪が降る

久しぶりの雪の札幌です。
娘はニューヨークから車で2時間ほどの義妹の家で生活していますが,凄い雪になったようです。
ニューヨークの積雪も凄いようです。2000年の1月だったと思いますが,家族でニューヨークに滞在していたとき,帰る日の前日からものすごい雪が降り始め,JFK空港は閉鎖されて,日本に帰るのが遅れたことがありました。2002年5月に亡くなった義父が車で空港まで送ってくれたのですが,当初は何とか飛べると言われていたのが,結局,欠航となり,またマンハッタンまで戻ったのでした。いろいろな出来事が妻の思い出に結びついています。本人と思い出話ができないことがたまらなく悲しいです。

ニューヨークの友人のマサチューセッツ州の山荘で今年の元旦を迎えたのが,妻との最後の新年になりました。また,来年ここで新年を迎えたいねと話していましたが,もうかなうことはありません。
娘はメリーランド州フレデリックの義弟の家で新年を迎えることになっています。初めて,離ればなれで新年を迎えることになります。

来年がどんな1年になるのか,god only knows ですね。

音楽なしの今年最後のブログです。

2010年12月24日金曜日

リアル vs  ヴァーチャル

忘れられないシーンがあります。
6月1日朝6時頃,入院していた病院の前から,妻は千歳空港に向かって出発しました。私の弟が運転するバンに乗って,頭痛のための点滴をしながらの旅立ちでした。

友人や私の家族関係などが早朝から見送りに来てくれました。病院のロビーでみんなで写真を撮り,車に乗り込んで点滴剤をハンガーに引っかけて車の窓枠のところに設置しました。そうすると,妻は車のドア付近までしか動けない状態になりました。彼女は7~8メートル離れたところに立っている友人たちに「最後にギュッとハグしたいんだけど。ヴァーチャルじゃなくて」と言って,両腕を前に差し出すようにしてハグを求める仕草をしました。
そのとき,妻は自分の余命が最悪の場合2週間,長くても2ヶ月であることを知っていました。最後まで明るく,車に乗る前に友人たちに向かって「夏休みにどうぞアメリカに来てください。おまちしてます。」と言っていたのですが,最後のハグになるであろうことは知っていたと思います。また,友人たちも彼女の脳にがんが転移していることは知っていました。

僕は友人たちがキンバリーの差し出した腕に応えて,ハグしあうシーンが展開されることを期待しましたが,彼女の求めに応じてくれたのは,アメリカ人の友人だけでした。ギュッと抱き合って,アメリカ人の友人の目から涙がこぼれました。 その後,それに続く人はなく,車は病院前を発車しました。

いろんな見方があるとは思いますが,このエピソードに典型的な日本人が現れていると思います。
何かそれなりの気をつかったうえでのことなのでしょうが,妻本人が最後のハグを,リアルなハグを求めていても,それに応えない,応えるように動かない日本人。札幌での最後のハグが日本人ではなくアメリカ人だったというところに,前回書いた,日本人は「テレパシー信仰社会」だという意味があります。気持ちがあれば,何もしなくても相手に通じると思っている人が多いと思います。ヴァーチャルなのはゲームの世界だけではありません。

つい,日本人批判の内容になることが多いのですが,妻は決して僕が書いてるようなことを思ってはいませんでした。念のため。

2010年12月20日月曜日

かたちにすること

手元に妻が亡くなったことを知ったアメリカ人の知人から娘に宛てたカードがあります。
With Sympathy
IN THE LOSS OF YOUR MOTHER
とその表紙に花の写真の上に印刷されています。
カードを開くと,こんなメッセージが印刷されています。
   あなたのお母さんの人生が彼女の愛したすべての人たちから祝福されますように。
   お母さんの思い出が彼女を知るすべての人たちの中に永遠に残りますように。
   あなたの辛い心があなたとともにあるすべての人たちによって慰められますように。

そして,手書きで妻のことを決して忘れないこと。彼女は,彼女と知り合ったすべての人たちにとっての守護天使のような存在であることがメッセージとして書かれています。

配偶者を亡くした人,親を亡くした人,恋人や大切な人を亡くした人のためのこのようなカードがアメリカのドラッグストアなどには置いてあります。日本では考えられないことだと思います。
ことばがどんなに人の心を慰め勇気づけるものであるかを知っているから,そして,どんな悲劇が訪れるか分からないのが人生であるということを知っているから,こんなカードがあるのだと思います。

日本はどうでしょう。日本は「言の葉の国」だとどこかで言われていたと思いますが,ことばがこれほど存在していない社会はないのではないかと思います。
日本はテレパシー信仰の社会だと思います。

to be continued

sade  lovers rock を聴きながら
  久しぶりに聴く彼女の声に癒されます

2010年12月19日日曜日

セザンヌで泣くとは・・・

最近,新聞のテレビ欄をチェックするように心がけている。殆どテレビは見ないが,ときどきとても興味深い・面白い番組を見損なうことがあるので(見損なってもネットで見ることは可能かもしれないが,そこまでやる気なし)。

昨日は,夜の10時からテレビ東京系でセザンヌが取り上げられている番組をテレビ欄で発見していたので,10時少し前にテレビのある2階の部屋のソファに座って始まるのを待っていた。このソファは,今年の1月,妻がのんびりと横になってリラックスできるようにと購入したもの。あまり広くないスペースなので,一度家具店でサイズを確認して,メジャーで納まるるかどうかを妻が確認して購入した。でもギリギリ入るだろうというサイズだったので,配達当日,妻は納まるかどうかちょっと不安がっていた。その日の夕方帰宅すると,「本当にジャストサイズで何とか納まったの」と嬉しそうに妻は言っていた。そして,最初は二人で配達に来たが,二人では無理だったので,さらに二人の応援を得て,長時間かけて納めてくれたことに感激していた。

一番好きな画家は誰かと問われれば,躊躇することなくセザンヌと答える。美術館に行ったときは,セザンヌがあるかどうかをまず確認する。ニューヨークのMOMAにあるセザンヌは,行くたびに見に行く。

テレビ番組は,りんごとオレンジの静物画をメインにして,それがいかに革命的な技法だったかを分かりやすく解説してくれて面白かった。「ピカソはセザンヌには絶対にかなわないと言っていたんだよなあ」と独り言を言っていたら,番組でもピカソのキュビズムとの関連が出てきたりして,ここに妻がいたら,「たけしがいろんなことを知っているのって凄いと思う」とほめてくれただろうなあ・・・と思ったりしていた。

突然の涙は,番組の最後にやってきた。
セザンヌのアトリエを幼稚園くらいの子どもたちが先生や親と一緒に訪れて,説明を聞いたり,感想を言ったりしているシーンが写った瞬間,妻がやっていた「びっくり部屋」で子どもたちに絵をかいてもらったり,図工で何か作ったりするのを,英語を使って説明したり,感想を言ったりしていたクラスの様子がそのシーンとだぶり,涙があふれてきた。彼女がいきいきと楽しく子どもたちとコミュニケーションしている姿が浮かんできた。

カードを使って英単語を覚えさせたりするようなよくある子ども英語教室とは全く違って,びっくり部屋は英語はあくまでも手段であり,それを使って何を伝えるのかが大事だというコンセプトで,簡単な科学の実験やアートクラス・世界各国の料理教室をしたりして,英語をとおして世界とつながることのできる人間に育ってほしいという思いでやっていた。子どもだけでなく大人も参加してもらいたくて,「0歳から100歳まで」というのがコピーとして使われていた。

これからもっともっとびっくり部屋をよりよいものにしようとしていた妻の気持ちを思うと切ない。

J.Sバッハ 世俗カンタータ集(ルネ・ヤーコプス指揮) を聴きながら

2010年12月17日金曜日

夏目坂

ブラタモリが好きでよく見ます。昨夜は文京区の本郷台地を取り上げて,坂をテーマにした番組でした。この番組は,大学入学から10年間住んでいた東京の懐かしい風景や,行ったことのない場所の歴史が分かったりして,とても面白いですね。ファンの方もいると思います。

坂特集を見ながら,夏目坂のことを思い出しました。母校である早稲田大学の近くに夏目漱石が住んでいた住居の記念碑などがあり,そこに夏目坂はあります。2007年11月11日に妻と娘と3人でその坂を歩いたのを思い出していました。妻の乳がんが発見されるほんの少し前のことです。
「我輩は猫である」の猫にちなんだ「猫塚」を見たくて行ったのですが,ちょうど猫塚のある一画くが公園整備の工事中で見ることはできませんでしたが,狭い路地を歩きながら,札幌とは違う歴史を感じる空間が何かほっとするような気持ちにしてくれて,楽しい散歩になりました。

大隈講堂の前を通り,都電の早稲田駅まで行き,電車に揺られて雑司ヶ谷で降りました。漱石のお墓参りに行くためです。僕は日本で最高の作家は漱石だと思っています。妻は英訳された「猫」を読んだようですが,それ以外のを読んだことはあるのか聞き忘れました。

ブラタモリを見終わって,犬たちの散歩に出てすぐに,アメリカの娘から携帯に電話が入りました。思わず「三四郎読んでる?」と訊いてしまい,嫌がられました。日本語をきちんとするために,
アメリカに一緒に行ったとき「三四郎」の文庫本を置いてきたのです。難しくて読めないと言われて,自分はいつ頃漱石を読んだのか思い出してみましたが,中学2年生頃だったはずで,まだ娘には早いのかなと思いました。では,早く漱石のすごさを分かるようになってもらいたいものです。

追記
前回の英文の歌詞第2段のthought は though  の 間違いでした。

Van Morrison     Astral Weeksを聴きながら

2010年12月15日水曜日

God Only Knows

I may not always love you
But long as there are stars above you
You never need to doubt it
I'll make you so sure about it
God only knows what I'd be without you

If you should ever leave me
Thought life would still go on believe me
The world could show nothing to me
So what good would living do me?

God only knows what I'd be without you

                                                      
        いかなるときにも君を愛するとは、言い切れないかもね。
        でも見上げる空に星があるかぎり
        僕の想いを疑う必要はないんだよ。
        時がくれば、君にもそれがわかるだろう。
        君のいない僕の人生がどんなものか
        それは神さましか知らない

        もし君がどこかに去っても
        人生はつづくかもね。でもそれでは、
        この世界が僕に示せるものなど何ひとつない。
        そんな人生に、なんの値うちがあるだろう。

        君のいない僕の人生がどんなものか
        それは神さましか知らない。

昨夜,寝る前に,いくつかの本の山の中からこの本を手にとって,そして,
その1曲目がこの歌。2段目の歌詞がずっしりと僕の胸にこたえた。

「もし君がどこかに去っても」は,本来失恋して,恋人が去っていくという意味なのでしょうが,
僕にとっては,キンバリーが逝ってしまったこと,その後の歌詞を読んで,涙でした。

この曲はビーチボーイズの名曲中の名曲とされていて,「ペットサウンズ」というアルバムに入っています。大好きなアルバムで何度も聴いていますが,この曲は,以前は単なるラブソングでした。
今は,全く違った顔をした曲としてきこえてきます。

昨日から今日にかけて音楽に導かれて,妻のことがたくさん思い出されました。

彼女が息を引き取り,娘と二人で清めてあげたあと,彼女のために最初にかけてあげたのは,
キャット・スティーブンスの「Morning has broken」でした。
夜が明け始めて,外が少しずつ明るくなってきた頃でした。「初めての朝のように夜があけた」という歌詞の一節がキャットのあの少しハスキーな深みのある声で流れたとき,流れる涙を抑えることはできませんでした。彼女を抱いて,その重みと暖かさを感じながら,この曲を一緒に聴きました。
意識がなくなってからずっとかけてあげた彼のCDを彼女の棺に入れてあげました。聴いてくれているかな・・・

Rickie Lee Jones  「it's like this」を聴きながら
      

思い出~音楽

些細なことから,記憶が鮮やかに蘇ってくるということは誰しも経験することでしょう。
プルーストの「失われたときを求めて」の中でマドレーヌの味から過去が蘇るというエピソードはとても有名ですが,最近岩波文庫と光文社新古典文庫で新訳が出始めていて,集英社文庫の完訳とともに,何回か挫折した通読に挑戦したいと思っているところです。

今朝,事務所に向かう車の中,FMからコーラスが流れました。その瞬間,妻の声が蘇ってきました。何か音楽に関係する話題が出たとき,妻はよくオペラ歌手の発声練習の真似をして ららららららら~とちょっとおどけた表情で声を出すのでした。その声がはっきりと聞こえてきて,僕も同じように彼女の真似をして声を出してしまいました。涙ぐんでしまいしました。

事務所の入っているビルの2階に両親が住んでいるのですが,ちょっと寄って,朝のワイドショーを見ると,クリスマスソングベストテンをやっていて,2位の曲が終わったところでした。次は1位。予感がしました。もしかするとあの曲かな・・・ 
そのとおりでした。ワムの「ラストクリスマス」が1位でした。去年の今頃,車で移動するときいつもこの曲をかけて妻と娘と3人で歌っていました。ちょっと悲しい内容の曲ですが,3人で声を合わせて何度も繰り返し歌いました。妻はユダヤ系なので本来クリスマスは関係ないのですが,私が日本人なので父親サイドでのクリスマスということで,我が家のクリスマスソングになっていました。その曲が流れるのを聴きながら,壁にかかっている妻の写真を見て,また涙ぐんでしまいました。

今日は音楽で妻のことを思い出す日になっています。その前兆は昨夜にありました。

昨夜,寝る前に少し本を読もうと思って,自宅の机の本の山の中から,最近買った村上春樹の「村上ソングズ」(村上春樹翻訳ライブラリー 中央公論新社)を手に取りました。
1曲目は「神さましか知らない」という曲名で,まず村上氏の訳詞があり,その後に原詩が載っているという構成。題名ではピンと来なかったのですが,それはビーチボーイズのGod Only Knowsでした。

to be continued

2010年12月13日月曜日

記憶

今朝,所用で車を運転中,ある家電製品等の廉価販売で有名な店の近くの信号で停止しました。何気なくその店舗建物を見ているうちに,15年くらい前の記憶が蘇ってきました。
結婚することになって間もなく,この店で冷蔵庫を購入したことを思い出したのでした。妻と一緒に見に行き,5階まで階段で上げなければならないことからサイズの制約があるものの,それなりに大きなサイズのものを購入しました。配達当日,2人では到底上げられないので,応援を頼んで4人くらいで少しずつ5階まで上げたのでした。何とか設置され,これで新婚夫婦の住居らしくなったような気がして嬉しかったことを思い出していました。最近も何度となくこの店のそばを通っていたのに,今までは「最近はここに来なくなったなあ」という程度のことしか思っていなかったのが,今日はあの日のことが一気に脳裏に浮かんできて,ちょっとうろたえたりしました。

こんな風に,何気ない風景の中に,亡き妻との思い出が見えてくる瞬間というものがこれからも続いていくのでしょう。私は今54歳ですが,あと何年寿命があるのか分からないにしても,そんな風に記憶が蘇って来る瞬間が何度やってくるのか,そのことを考えると,ただただ悲しみに包まれてしまいます。今は耐え難いなあということしか思えません。時間の流れの中でその受け止め方にどんな変化があるにせよ,二度と彼女に逢うことはできないのだという厳然たる現実の前に,途方に暮れるばかりです。

ビル・エヴァンス Conversations with myself  を聴きながら

2010年12月8日水曜日

12月8日

今日は真珠湾攻撃の日ですが,僕にとってはジョン・レノンが暗殺された日として永遠に記憶に残っている日です。
そのときあなたは?という質問がされる特別な日というのがあります。アメリカ人であれば,1963年のケネディ大統領暗殺の日がすぐに浮かんでくるでしょう。アランダーショウィッツというハーバード大学教授が書いた「beyond reasonable doubt」というO.J.シンプソン裁判について詳細に分析された本があります。まだ翻訳されていないはずですが,「合理的疑いを超える立証」とはどのようなものかを非常に分かりやすく書いたもので,裁判員裁判が始まっている日本においてもとても参考になる本です。何故翻訳されないのか不思議な本の一冊です。その中で,著者は,O.J.シンプソンの評決が出された日は,ケネディ暗殺と同じように,将来,そのときあなたは何をしていたか?という話題になる日になるだろうと書いていますが,さあどうでしょうか。とにかく,その当時は,無罪評決が全世界に衝撃をもって伝えられたものです。

ジョンが暗殺された日,僕は東京の恵比寿で司法浪人4人で勉強会をしていました。お昼になり,コンビニに弁当か何かを買いに行ったとき,店内にラジオが流れていて「ジョンレノン」という言葉が聞こえました。その当時,長いブランクを終えて音楽に戻り,世界ツアーをするという情報が入っていたので,その話かなと思って良く聴いていると,射殺されたというニュースだということが分かりました。呆然自失とはあのときのことを言うのでしょう。何が起こったのか理解できないまま,勉強会をしていた友人のアパートに戻りました。その後,他の3人は何事もなかったかのように勉強会を続けるのでしたが,僕はとてもそんな気持ちにはなれず,ただぼんやりと時間が経つのを待っていました。そして,ジョンが死んだというのに,こうして平然と勉強会を続けることができる彼らは自分とは全く別の人種なんだな,そういう種類の人間が存在するんだな・・・とあっけにとられるような感覚で彼らを見ていました。

その日の夜不思議なことがありました。どうしてそこにいたのか,今となっては記憶がないのですが,勉強会の後,午後8時過ぎだと思いますが,僕は中野駅のホームに立っていました。その頃の僕のアパートは西武新宿線の上石神井でしたから,何故中野駅にいたのか記憶していません。
とにかく,ジョンが死んだという事実の前で呆然としてホームに立っていると,2本向こうの別のホームに知った顔があるのでした。同じ北海道から東京に来ていた,従妹がこっちを向いて立っているのでした。僕は大声で彼女に呼びかけました。彼女も僕に気がついて,僕は走って彼女のいるホームまで行き,ジョンが殺されたことを教え,中野で彼女とジョンのことを語り合いながら痛飲しました。彼女が何故中野にいたのかも忘れましたが,電車が来るまでの数分の間に,普段は来ることのない場所で出会ったことに,単なる偶然以上のものを感じました。誰かとジョンのことを話したかったので,本当に救われたような気持ちでした。

ジョンは40年の人生でした。
妻は44歳。たった44年です。もっともっといろいろやりたいことがありました。子どもが大好きだった。びっくり部屋をもっともっと開かれた素敵な空間にする計画を持っていました。
どんなに悔しかっただろう・・・心残りだったと思います。
一番の心残りは,まだ12歳(当時)の娘のこと。その成長をずっと見守っていたかった。


ピーター・ガブリエル「スクラッチ・マイ・バック」を聴きながら

2010年12月7日火曜日

日本人は日本語で歌ってほしい

日本人が英語で歌うのに感心したことはあまりない。例えば,ジャズシンガーにケイコ・リーという人がいて,彼女の歌を絶賛する人は多いようだが,いいと思ったことはない。その昔,まだくっちゃんジャズフェスティバルがあった頃,家族で行ったことがあり,彼女が歌うのを聴いたが,ぜんぜん良くなくて,その発音を聴いていて何か恥ずかしいような感じを抑えることができなかった。妻は「どうして日本人が英語で歌うと,心が感じられないのかな。とても薄っぺらにしか響かないこと分からないのかな。」と言っていた。本当の気持ちが,心が感じられない歌は,どんなに上手に聞こえたとしても,そこから感動を受けることはない。

先日,「ゴースト」という映画を観てきた。デミ・ムーアとパトリック・スウェイジのオリジナルのリメイク。少し前なら,このような内容の映画を観に行く気持ちにはならなかっただろう。少しずつ,自分の中で,妻の亡くなったことを受け入れられるような場所ができつつあるのかもしれない。
映画自体は,予想していたとおり?到底オリジナルを超えられるものではなかったけれど,お気に入りの通路側の席で,ポップコーンMサイズ,コーラMサイズと一緒にスクリーンに向かっていると,隣に妻が座っているような気がした。ほんのチョットした悲しい場面や幸せな場面でも,すぐ涙ぐんでしまう妻。きっとこのシーンで涙ぐんでいるな,とそっと横を見ると,案の定,ウルウルしていて僕に見られているのに気がついて,照れ笑いをする彼女。そんな彼女が見えるようなシーンがいくつかあった。

しかし,オリジナルでもテーマソングだった,ライチャス・ブラザーズのアンチェインドメロディUNCHAINED MELODY が流れたとき,わずかに感じつつあった感動のようなものがスーッと冷めて行くのが分かった。すぐには分からなかったのだが,ライチャスブラザーズのではない。日本人が歌っているなと分かる歌い方で,英語の発音はともかく,そこにはオリジナルに感じられる心が全く感じられなかった。それが2回歌われるのが辛かった。

映画が終わり,クレジットで平井堅が歌っていたことが分かった。彼は,とても素晴らしい歌手だと思うが,英語で歌うのはやめてほしいと願った。

そう考えると,ジェロってすごいのかもしれない。テレビで何度か聴いただけだが,彼の演歌には本当に気持ちを感じることができるような気がした。
そういえば,娘がジャニーズ系が大嫌いで,その理由が,歌が表面的で心が感じられないというもの。そういわれると,エグザイルなどそれほど知ってはいない日本のアーティストの歌に感じる表層性とでもいうものは,ひとつの特徴としてあるように思う。

ただ,桑田は別格だとは思う。彼の歌を聴くと,歌と彼自身が乖離することなく,彼自身から自然に流れてきた歌だということが感じられる。ヤザワ?残念ながら彼のことは全く分からないが「時間よ止まれ」は凄いと思う。

クーリエ・ジャポンという雑誌の新年号をめくっていたら,ドイツで「イズ」の「虹の彼方に」が大ヒットしているという記事が載っていた。ハワイの歌手で,イズラエル・カマカヴィヴォが本名。すごい巨体だが,その声は一度聴いたら心をすっとつかんで離さない。生前,妻がU-TUBEで見つけて,何度も一緒に見たことを思い出す。昏睡状態になってから亡くなるまでの4日間,ずっとかけ続けた彼女の好きな曲の中に,この曲も入っている。彼自身は13年前に38歳で亡くなっているが,妻が「こんな素敵な歌を歌うひとが若くして亡くなるなんてアンフェアだね」と言っていたが,その言葉を彼女をのために叫びたい。unfairだよ!!!!!

マリアンヌ・フェイスフルのニューアルバム「EASY COME EASY GO」を聴きながら

2010年12月6日月曜日

おくりびと

「おくりびと」という映画,外国でも高い評価を受けた映画ですが,僕はDVDで途中まで観て最後までは観ていません。妻は映画館で観て,いい映画だったと言っていました。今年の3月頃だったと思いますが,借りてきたDVDを一緒に見始めて,理由は忘れましたが,僕は途中からテレビの前を離れて,そのままになっています。

それから約3ヶ月後,6月16日午前2時44分に逝ってしまった妻の体を清めてあげることになるとは夢にも思っていませんでした。12日から昏睡状態になっていた妻の寝息をずっと聴きながら過ごしました。妻の好きだった音楽をずっとかけ続け,娘と一緒に話しかける日々でした。不思議なことがありました。娘が母親に聴かせてあげるためにCDを何気なく買ってきたのですが,それはパッヘルベルのカノンが1曲目に入ったクラシックのコンピレーションでした。この曲は,96年1月20日の僕たちの結婚式で入場のときに演奏されたものです。そんなことは何も知らない娘の選んだCDの1曲目が流れたとき,時間はあの日に戻り,涙が流れました。その話を聞いて,娘も驚いていました。

まだ暖かい妻が来ていた衣服を脱がし,暖かいお湯に浸したタオルで全身を拭いてあげました。
そして彼女の好きだったローションを全身に塗ってあげました。娘も一緒です。僕と娘の二人だけで塗ってあげました。ホスピスから来ていたナースには妻の体を支えたりするのを手伝ってもらいましたが,娘と二人で彼女を綺麗にしてあげることができて,幸せだったと今は思います。でも,そのときは,妻が亡くなっていることの実感はまだなかったと思います。まるで,ぐっすりと眠っている彼女の世話をしてあげているような感覚だったような気がします。
葬儀社の人が来て,彼女を連れていくまでの1時間以上の間,僕と妻の二人だけの時間が持てました。まだ暖かい彼女の身体をさすってあげながら,ずっと話しかけていました。ふと彼女の顔を見ると口元が笑っているようになっていました。最後のキンバリースマイルでした。

彼女を知る誰に聞いても,その笑顔が最高に素敵だったと言います。本当にあんな素敵な人の気持ちを優しく和ませるような笑顔は他にはいません。

最後までは観ていない「おくりびと」について今思うことは,まるで荘厳な儀式のように行われる一連の作業を見ているのではなく,遺族の方が自分の手で,愛する人を丁寧に優しく清めてあげることができることが,とても意味のあることではないのかな,ということです。もちろん,それができないような状況がたくさんあるでしょうが,可能であるなら,そうしてあげられるといいなと思います。

そんな風に,彼女の最期の時間を一緒に過ごしてはいるのですが,それでも,まだ彼女が亡くなってしまい,触れることも声を聴くたともできないということが信じられません。

ドボルザーク作曲「弦楽六重奏曲」作品番号48を聴きながら

2010年12月3日金曜日

完全な勘違い

昨日は41年間の間違った思い込みについて書きましたが,別の大いなる勘違いについて。

妻が亡くなったあと,妻を知る人によくこんなことを言われます。
「キンバリーは日本人以上に気のつく,思いやりのある人だったね」
僕は言います。
「日本人にあんな人はいません。」

どうも日本人は,自分たちが外国人に比べて優しく思いやりがあるものと思っている人が多いようです。それで,妻のことを「日本人以上に」などと言うのでしょう。こう言われたのは一人や二人ではありませんから,このような思い込みはかなり深いと思います。

それが間違いであることは,これまで例に挙げた何人もの弁護士のことを考えれば全くの誤りであることは明白ですが,その他にもこんなこともあります。

知り合いの北欧出身の女性が札幌市に暮らしていました。隣近所とのつきあいも良く,とても仲の良い日本人の友人たちに囲まれて,札幌でずっと暮らすつもりでいました。その彼女は,今は自分の国に帰って札幌にはいません。

彼女は私生活上の問題等があって,体調を悪くし,うつになってしまったのでした。
当然,それまで交際のあった日本人の友人たちがいろいろと力になってくれるものと思っていましたが,次第にその人たちは彼女から離れて行きました。彼女は,大変な精神的ショックを受け,この国では生きてはいけないと思い知らされ,国に帰ったのです。

年間3万人を超える自殺者の背景には,このような「思いやるがあると自分では思っているが,実際には他人を孤独にさせる優しい日本人」がいることは間違いありません。

幼い姉と弟が遊び歩いていた母親に置き去りにされて餓死した事件がありました。
その事件を知ったとき,妻が同じマンションにいたら絶対にこの子どもたちは助かっただろうと思いました。インターホンから助けを求める声が聞こえても誰も動こうとしなかった人たち。妻がいたら,僕と一緒にその子どもたちの部屋がどこなのかを全部の部屋を訪問して見つけ出したことは間違いありません。すぐ警察にも通報したでしょう。本当にかわいそうなこどもたちです。

昨日は,テレビで「ブラタモリ」を見ました。この番組妻も好きでした。一人で見ながら,隣に妻がいるような気がしました。

ウェス・モンゴメリー「BODY AND SOUL」を聴きながら

2010年12月2日木曜日

間違いの発見

昨日,41年間信じてきた事実が間違っていたことを発見してショックを受けました。
キング・クリムゾンのデビューアルバム「クリムゾンキングの宮殿」は1969年発売ですが,同じ年に発売されたビートルズの「アビーロード」をヒットチャートの1位から引きずり下ろしたアルバムだと当時からずーっと信じていました。音楽雑誌で読んだり,ラジオでDJが言っていたので,当然それが事実だと信じていたのです。
ところが,昨日たまたま書店で手に取ったロック系音楽雑誌をパラパラめくっていると,キング・クリムゾンのアルバムリマスター関連の記事の中に,このアルバムがアビーロードを1位から引きずり下ろしたという説があるが,実際にはイギリスのローカルチャートの話であって,イギリス全土のヒットチャートでは最高が5位だったというのです。    41年間信じてきた事実が間違っていたことを知らされ,愕然とした瞬間でした。  実は,2年くらい前の札幌のローカル雑誌のコラムに僕が載ったことがあり,「私の1枚」というテーマで「クリムゾンキングの宮殿」を取り上げて,間違った情報を伝えたことがあって,訂正の機会はないと思うので,この場を借りて訂正させていただきます。

しかし,このような間違った認識をしていることって他にもたくさんあるのではないかと思います。
気をつけたいと思います。

クレメンティ作曲ピアノ曲集を聴きながら

2010年12月1日水曜日

12月です

いよいよ今年もあと一ヶ月となりました。妻のいない初めての師走と新年になります。まだ妻の不在が信じられない心境です。
昨日,キンバリーのクラスの生徒さんの母親が相談に来ました。建築中の自宅について業者の対応がおかしいということについての相談でしたが,しばらく妻の話になって僕も泣いてしまいしました。人見知りが強くて引っ込み思案な自分のことをキンバリーが励ましてくれてどんなに救われたか,同じ気持ちで今もキンバリーが亡くなったことを受け入れられない人たちがたくさんいるという話をしてくれました。本当に彼女は,他人の悩みや苦しみを心から受け止めて,励まして,気持ちを前向きにすることのできる人でした。
今この文章を書きながら,事務所の僕の部屋のドアをノックして妻が入って来るような気がしています。

昨日はオーストラリア人に会ってきました。既に,被疑者国選弁護人がついていることが分かったので,今後の予想される手続きなどについて説明してきました。国選弁護人は通訳を連れて接見したようですが,弁護士は英語が話せず,通訳の英語も下手で,うまくコミュニケーションできないと言っていました。外国人が逮捕される事件もかなりありますが,適切な通訳がなされているかは非常に疑問です。僕は英語は通訳なしで対応できますが,それ以外の言語は通訳に頼るしかありません。通訳が正確かどうか確認のしようがなく,非常に不安を感じます。
英語ができれば何とかなることがあるので,弁護士は英語くらいできて当然だと思うのですが,現実はそうはいかないようです。

キング・クリムゾン「ポセイドンのめざめ」を聴きながら