2011年5月26日木曜日

植草甚一さんのようになりたいもんです

昨日は裁判で函館に行ってきました。JRを利用しました。
座席について反対側を見ると,70歳くらいとおぼしき男女が座っていました。聞こえてくる会話からこれから登別温泉に行く夫婦だということが分かりました。
次の瞬間,突然涙が溢れてきました。自分でもびっくりしました。
そして,「あんな風にキンバリーと一緒に旅行したりすることはもう絶対にできないんだなあ・・・」という思いで胸が満たされました。
登別駅で降りて,改札口に向かって行く二人の後ろ姿をぼんやりと眺めていました。

仕事をリタイアしたらアメリカに住みたいという話をキンバリーとしていました。
キンバリーは緑がいっぱいある田舎に住みたい,僕はニューヨークのマンハッタンと意見の相違はありましたが,音楽・美術館などを満喫して週末は田舎に帰るというのはどうかとか,夢をいろいろ語り合ったことが懐かしいです。

二人で老後ということはかなわなくなりましたが,いつかマンハッタンに住みたいという気持ちは変わっていません。そんなとき,植草甚一さんのことが浮かんできます。J.Jの愛称で親しまれている植草さんは1908年生まれで1979年,僕が大学4年のときに亡くなっていますが,48歳を過ぎてからジャズを聴き始めてあっというまに精通して評論を書いたり,1974年66歳のときに初めてニューヨークに行ってからは何度も滞在して古本・中古レコード蒐集などでマンハッタンを隅から隅まで歩き回り,その中から何冊もの本が生まれた,とっても素敵なを方でした。一度もニューヨークに行っていないのに,どこにどんな店があるとかの情報がすべて頭に入っていて,ニューヨーカーよりマンハッタンのことは知っていたという話は有名です。
植草さんのように,スニーカーでマンハッタン・ブルックリン・クイーンズ・ブロンクス・スタテンアイランド,ニューヨークのすべてを味わうような日々を過ごせたらいいなと思います。まあ,ブロンクスは動物園(家族で行ったのが懐かしい)くらいしか今のところ思い浮かびませんが,クイーンズはルイ・アームストロング(サッチモ)の自宅を改装した記念館に行きたいですね。マンハッタンが中心になるでしょうが。
ニューヨークのいろんなところに現れる,名物東洋人じいさんになれたらいいなと思っています。

ジミ・ヘンドリックス  ライヴ・アット・バークレー  を聴きながら

2011年5月20日金曜日

酒類のテレビコマーシャル 多すぎませんか

妻の乳ガンが分かってから,治ることを祈願して酒を止めてから3年以上が経ちました。
キンバリーは亡くなってしまい,もう少しで1年が経つのですが,飲酒を再開しようと思う気持ちは全くありません。ビール・ワイン・焼酎・ウイスキー・バーボン・日本酒・・・大学1年の頃から51歳になるまで,かなりの酒を飲んできたわけですが,今では全く飲みたいという気持ちは起きません。
妻が亡くなって,酒を止めた事情を知っている人に,また飲んでもいいんじゃないかということを言われたりすることがありますが,飲みたいと思わないものをまた始める必要もないので,月に一回ある異業種の集まりでスナックにカラオケに行くときも烏龍茶やコーラで歌っています。酒は読書の大敵。起きている間はひたすら本を読んでいたいので,酒をやめていつも頭すっきりは最高です。

酒を止めるまえは,自分はお酒が好きだと思っていたのですが,ほとんど禁断症状もなくいきなり止められたところをみると,勘違いだったのではないかと思うくらいです。思えば,酔っぱらって帰宅してキンバリーにいやな思いをさせたことがありました。ごめんねキンバリー・・・

自分が酒をやめると勝手なもので,酔っぱらった人を見ると,実にいやな気分になり嫌悪感でいっぱいになります。そして,かつての自分もあんな無様な状態になっていたのかと思うと,何か取り返しのつかない恥辱感に襲われます。酒を飲んでいたころの僕を知っている人には,僕が一滴も飲まないということが信じられないという顔をされます。それだけ飲んでいたということなのでしょう。

そんな自分からすると,テレビでの酒類のコマーシャルの多さには驚きます。酒を飲んでいた頃にはそんなことは全く思っていなかったのですが,人気タレントなどを使い,うまそうにビールを飲み干し,そして必ず「カーっ」「プハーっ」というような声とともに顔をしかめるようにビールの美味さを強調しているコマーシャルがあまりに多いので驚いています。それに昔はこういうのは男性タレントなどがやっていましたが,今は若い女性タレントなども同じような声と表情です。何か笑ってしまいます。
僕などの世代では,三船敏郎の「男はだまってサッポロビール」のコマーシャルが懐かしいのですが,昔のはもっと「謙抑的」ではなかっのかと思います。

こんな風に感じるのは, アメリカのテレビでビールや酒類のコマーシャルを見た記憶がほとんどないからです。確か, バドワイザーがアメリカンフットボールの試合中継のときに宣伝してたような記憶はありますが,それ以外にはほとんどありません。アメリカもそしてヨーロッパなども酒類のコマーシャルは厳しく制限されています。日本の状況はそんな観点からみると異常です。

キンバリーと生活するなかで,日本の中にいるだけでは何の疑問も持たなかっただろうことが,実は「チョット変だ」ということに気づかされるということがいろいろありました。もう直接キンバリーと話をすることはできませんが,自分の中で「キンバリーだったらどう思うかな・・・」という対話をこれからもずっとしていきたいと思います。

自宅の庭にある1本の桜がほぼ満開になって,  「たわわに実る」という感じでその重たい花で枝を揺らしています。去年の今日はキンバリーは頭痛がひどくて入院していました。彼女に見せたくてそのときに撮影したビデオが残っています。あれが最後の桜になってしまいました。まだ脳に転移しているとは思ってもいませんでした。脳に転移するともうどうしようもないことは分かっていますが,せめてその事実をもっと早くに発見して,脳内圧を下げる点滴で頭痛から開放してあげたかった,どんなに辛かっただろうと考えると涙が出ます。なぜもっと早くに検査をしなかったのか,当時の主治医の対応に疑問をもっています。今さらどうしようもないのですが・・・

THIRD RAIL   SOUTH DELTA SPACE AGE    を聴きながら
(ジェイムズ・ブラッド・ウルマー(ギター) 入ったファンキーのアルバム)

2011年5月17日火曜日

娘と私が手元にあります

このブログを読んでOさんが「娘と私」(新潮文庫)をわざわざ実家から取り寄せて,事務所のポストに届けてくれました。こんな嬉しい驚きは久しぶりです。ありがとうございます。早速読み始めました。

Oさんの娘さんは彩と小学校の同級生で,今も大の仲良しです。
2007年の夏,言語教育のマスターコースを受けるキンバリーと一緒に,娘さんの I ちゃんが彩と一緒にアメリカに行って,約2ヶ月地元の学校に通ったりして過ごしたのでした。バーモント州のブラッドボローという小さな町にある学校に,車で20分ほど離れたところにあるシンシアという女性の家に間借りをして通う生活でした。僕も最初に行くときに同行しました。シンシアの家について楽しそうに荷物を出したりしているキンバリーの姿が携帯に残っています。2ヶ月後,Oさんの家族もアメリカに来て合流し,ニューヨークで楽しい時間を過ごしました。みんなでブルックリンブリッジを歩いて渡り,ブルックリンのステーキレストランで対岸の信じられないくらいきれいなマンハッタンの夜景を見ながらの食事は最高でした。
その年の11月にキンバリーの乳ガンが発見されるなどと夢にも思っていませんでしたが,キンバリーもとても楽しい思い出を作ることができました。

キンバリーは翌年の2008年の夏もバーモントの大学院でマスターコースを受けました。2回の夏のコースを受けて,論文が通ってマスターの資格が得られるのでした。同じコースを受けているクラスメートたちと,乳ガンを闘う女性を支援するためのウォーキングに参加したりしていました。僕もコースの途中の時期に行ってきました。授業の合間に,ストレッチやヨガのクラスに参加しているキンバリーと一緒に,ヒイヒイ言いながら固まった身体をひねったりしたことが懐かしいです。
その年の受講生4~50名の中から3人だけ選ばれる優秀者にキンバリーは選ばれ,コースの最後に受講生の前で勉強の成果を発表するという栄誉を授けられて,それをとっても誇りに思っていました。
しかし,その年の11月に胸椎への転移が分かったのでした。

あんなに一生懸命生きた彼女を連れ去ったガンが本当に憎い。

THE VERY BEST OF THE EAGLES を聴きながら

2011年5月11日水曜日

ケープコッドの思い出

前回のブログで川本三郎氏が逮捕された罪名を「犯人隠匿」と書きましたが,「証拠隠滅罪」の間違いでした。お詫びして訂正します。

記憶だけで「マイ・バック・ページ」で確認しなかったので,川本さんに迷惑をおかけしなかったか心配です。

記憶が実に曖昧で不明確なこと,キンバリーとの思い出を思い返すたびに痛感します。食事をしたレストランのことは覚えていてもそれがいつだったのかはっきりせず,メモ程度でもいいから日記をつけておけば良かったと思うようなことが度々あります。

マサチューセッツ州のケープコッドという半島があります。肘を曲げたような形をしていて,避暑地として有名です。1995年の夏,初めてキンバリーと車でドライブしたとき,ケープコッドの肘の当たりにあるチャダムという町に行き,キンバリーの幼なじみのパムの別荘に泊まりました。キンバリーの祖母からとても古くてオンボロの車を借りて(このドライブのあとで廃車にしました),ニューヨーク郊外の叔母の家を出発したときの高揚感とでもいうものの記憶が身体に今も残っています。太陽が照りつける暑い日でした。車にはラジオしかついていないので,CDプレーヤーを買って後部座席に置いて,スーパーマーケットで買ったイーグルスのCDをかけながらのドライブ。イーグルスの音楽が夏のニューイングランドの風景にぴったりで,「あ~,今僕はアメリカにいるんだなあ・・・キンバリーと出逢えてなんて幸せなんだろう・・・」と感激しながら外に流れる風景を,そして運転しているキンバリーを見つめていました。
ニューヨークの北にあるサラトガという町でロックコンサートに行き(そのとき聴いたリトル・リチャードが最高でした),ビデオで撮影していたら係員に見つかり(通路に立って堂々と撮影していたのだからすぐ見つかるのは当然でしたが,興奮していて撮影してはだめだということを全く考えなかった)かなり遠くにある駐車場までビデオを置きに行かされたこと(係員がずっとついてきました)・・・

ケープコッドには結婚した後の夏に何度か家族で行きました。キンバリーの弟家族や妹も一緒に。


5月になってから,毎日のようにキンバリーが夢に出てきます。今朝,目覚める前,一緒に踊っている夢を見ていました。目が覚めて,横に彼女がいないことが,何だか不思議な感覚でした。今もベッドの左側に寄って寝ています。右側が彼女の場所でした・・・

J.S.バッハ  音楽の捧げもの   有田正広・寺神戸 亮 他を聴きながら

2011年5月10日火曜日

川本三郎~マイ・バック・ページ

川本三郎氏の著書を読みました。
①「小説家たちの休日 昭和文壇実録」(文藝春秋)
②「マイ・バック・ページ ある60年代の物語」(平凡社)

①は樋口進氏撮影の小説家の写真に川本氏の文章が組み合わさったもので,永井荷風から江藤淳まで65人の小説家・評論家についてのいろいろなエピソードが簡潔なしかし暖かい眼差しを感じる文章で描かれています。
獅子文六の筆名が「百獣の王ライオンの獅子に,文豪(文五)に勝る文六」から来ていることを初めて知りました。この筆名が何となく古くさい感じがして,今まで彼のものを読んだことはほとんどありませんでした。その彼が,29歳のときにフランスに留学し,そこで知り合ったフランス人女性と結婚して娘が生まれたが,その女性は若くして病没したということを知りました。男手で娘を育てることになり,その娘との物語「娘と私」という,昭和10年頃,身体の弱かった小学生の娘とひと夏を房総、九十九里の片貝海岸で過ごした思い出を描いたものがあるとあったので,探してみましたが,今売られている文庫にはなく,全集も書店にはないので,残念ながらまだ読めていません。彼の写真は,庭でパターの練習をしているところが使われています。同じような境遇だった彼に親近感がわいています。何とか「娘と私」を読んでみたいと思います。

②は川本氏がアサヒジャーナルの記者だったときに,ある事件に関わって,犯人隠匿の罪で逮捕され,会社を解雇されるまでの経過の中で,60年代の雰囲気を描いたもので,松山ケンイチ主演で映画が公開される予定です。このタイトルはボブ・ディランの歌から取られたものだと思います。

そして,「今も、君を想う」(新潮社)です。
氏の愛妻、川本恵子さんは,2008年6月17日の未明,食道ガンで亡くなっています。57歳。
川本氏が会社を解雇されたとき,婚約していた恵子さんに,婚約を解消したいと言ったとき,21歳の彼女は「私は朝日新聞社と結婚するのではありません」と言って,二人は結婚したのでした。

この本は,昨年の7月23日に購入して,8月19日に読了していますが,また読み直しています。キンバリーが亡くなって,娘の彩と札幌に帰って来たのが7月13日。何か自分を支えてくれる本がないかと書店を見て回る日々が続き,そのときにこの本に出会ったのでした。読みながら涙が止まりませんでした。恵子さんの亡くなったのが,2年前のキンバリーと1日違いであることにも何かのつながりを感じました。食道ガンは苦しむことが多いのに,恵子さんは医者も驚くくらい安らかな旅立ちだったとのことです。この題名は,今の僕のキンバリーへの気持ちそのものです。

映画評論もすばらしい川本さんにいつか会ってみたいなと思っています。
本が,今の僕の大きな支えのひとつです。

リスト  ピアノソナタ ロ短調 イーヴォ・ポゴレリチ(p)を聴きながら

2011年5月2日月曜日

1年前のGW

GWの谷間の2日です。
娘の彩は学校に行っています。連休の谷間に平日があって,学校がカレンダー通りにあるときには,キンバリーはいつもちょっと不満でした。会社などはその日を休みにして連休にすることが多くなっているので,親は休みで子どもが学校となると,家族で旅行したり外出できなくなってしまうことが理解できないのでした。

去年の5月1日には,キンバリーと二人で「ぬか風呂」に行きました。これは,糠が発酵するときに発する熱を利用したもので,大きな木枠の箱の中に糠が入っていて,その中に10分~15分入り,身体についた糠をシャワーで洗い落としてから,ゆっくりと横になって休むのです。すると汗が大量に出てきて,新陳代謝を良くして免疫力も高めるという効果が期待できるというもの。キンバリーはこのお風呂が大好きで,ときどき一緒に行っていました。去年の今頃は,まだ脳に転移しているなんて思ってもいないので,ぬか風呂を続けてガンを治そうねという気持ちで行っていました。

その後,頭痛がどんどんひどくなり,入院したりするようになりました。あまりにひどいので,脳の検査をすることを医師に相談すると,CTで検査するということになりました。MRIでなければ脳は分からないのではないかと言いましたが,脳の周辺部を診るにはCTの方がいいという答え。結果は「何も異常は認められない。偏頭痛ではないか。」でした。その後,それがぬか喜びだったことが分かるのですが,「良かった」と喜んで,頭痛専門医を紹介され,偏頭痛に即効性があるという薬(鼻から吸引するもの)を処方されましたが,全く効果がありませんでした。5月24日頃のことです。そして,MRIで脳髄膜炎と診断されたのが5月28日。最悪で2週間,もって2~3ヶ月と言われました。その日,確定診断のために脊髄液を採取するとき,痛いのを怖がって,僕の腕にギュッと強くつかまっていたキンバリー。僕は涙が止まりませんでした。

急激に体調が悪くなって,脳転移が判明し,急遽アメリカに向けて6月1日に出発することになった5月。1年前の日々のことが蘇ってきます。

モーツァルト 交響曲33番 ムラヴィンスキー指揮レニングラートフィルを聴きながら