2010年12月29日水曜日

雪が降る

久しぶりの雪の札幌です。
娘はニューヨークから車で2時間ほどの義妹の家で生活していますが,凄い雪になったようです。
ニューヨークの積雪も凄いようです。2000年の1月だったと思いますが,家族でニューヨークに滞在していたとき,帰る日の前日からものすごい雪が降り始め,JFK空港は閉鎖されて,日本に帰るのが遅れたことがありました。2002年5月に亡くなった義父が車で空港まで送ってくれたのですが,当初は何とか飛べると言われていたのが,結局,欠航となり,またマンハッタンまで戻ったのでした。いろいろな出来事が妻の思い出に結びついています。本人と思い出話ができないことがたまらなく悲しいです。

ニューヨークの友人のマサチューセッツ州の山荘で今年の元旦を迎えたのが,妻との最後の新年になりました。また,来年ここで新年を迎えたいねと話していましたが,もうかなうことはありません。
娘はメリーランド州フレデリックの義弟の家で新年を迎えることになっています。初めて,離ればなれで新年を迎えることになります。

来年がどんな1年になるのか,god only knows ですね。

音楽なしの今年最後のブログです。

2010年12月24日金曜日

リアル vs  ヴァーチャル

忘れられないシーンがあります。
6月1日朝6時頃,入院していた病院の前から,妻は千歳空港に向かって出発しました。私の弟が運転するバンに乗って,頭痛のための点滴をしながらの旅立ちでした。

友人や私の家族関係などが早朝から見送りに来てくれました。病院のロビーでみんなで写真を撮り,車に乗り込んで点滴剤をハンガーに引っかけて車の窓枠のところに設置しました。そうすると,妻は車のドア付近までしか動けない状態になりました。彼女は7~8メートル離れたところに立っている友人たちに「最後にギュッとハグしたいんだけど。ヴァーチャルじゃなくて」と言って,両腕を前に差し出すようにしてハグを求める仕草をしました。
そのとき,妻は自分の余命が最悪の場合2週間,長くても2ヶ月であることを知っていました。最後まで明るく,車に乗る前に友人たちに向かって「夏休みにどうぞアメリカに来てください。おまちしてます。」と言っていたのですが,最後のハグになるであろうことは知っていたと思います。また,友人たちも彼女の脳にがんが転移していることは知っていました。

僕は友人たちがキンバリーの差し出した腕に応えて,ハグしあうシーンが展開されることを期待しましたが,彼女の求めに応じてくれたのは,アメリカ人の友人だけでした。ギュッと抱き合って,アメリカ人の友人の目から涙がこぼれました。 その後,それに続く人はなく,車は病院前を発車しました。

いろんな見方があるとは思いますが,このエピソードに典型的な日本人が現れていると思います。
何かそれなりの気をつかったうえでのことなのでしょうが,妻本人が最後のハグを,リアルなハグを求めていても,それに応えない,応えるように動かない日本人。札幌での最後のハグが日本人ではなくアメリカ人だったというところに,前回書いた,日本人は「テレパシー信仰社会」だという意味があります。気持ちがあれば,何もしなくても相手に通じると思っている人が多いと思います。ヴァーチャルなのはゲームの世界だけではありません。

つい,日本人批判の内容になることが多いのですが,妻は決して僕が書いてるようなことを思ってはいませんでした。念のため。

2010年12月20日月曜日

かたちにすること

手元に妻が亡くなったことを知ったアメリカ人の知人から娘に宛てたカードがあります。
With Sympathy
IN THE LOSS OF YOUR MOTHER
とその表紙に花の写真の上に印刷されています。
カードを開くと,こんなメッセージが印刷されています。
   あなたのお母さんの人生が彼女の愛したすべての人たちから祝福されますように。
   お母さんの思い出が彼女を知るすべての人たちの中に永遠に残りますように。
   あなたの辛い心があなたとともにあるすべての人たちによって慰められますように。

そして,手書きで妻のことを決して忘れないこと。彼女は,彼女と知り合ったすべての人たちにとっての守護天使のような存在であることがメッセージとして書かれています。

配偶者を亡くした人,親を亡くした人,恋人や大切な人を亡くした人のためのこのようなカードがアメリカのドラッグストアなどには置いてあります。日本では考えられないことだと思います。
ことばがどんなに人の心を慰め勇気づけるものであるかを知っているから,そして,どんな悲劇が訪れるか分からないのが人生であるということを知っているから,こんなカードがあるのだと思います。

日本はどうでしょう。日本は「言の葉の国」だとどこかで言われていたと思いますが,ことばがこれほど存在していない社会はないのではないかと思います。
日本はテレパシー信仰の社会だと思います。

to be continued

sade  lovers rock を聴きながら
  久しぶりに聴く彼女の声に癒されます

2010年12月19日日曜日

セザンヌで泣くとは・・・

最近,新聞のテレビ欄をチェックするように心がけている。殆どテレビは見ないが,ときどきとても興味深い・面白い番組を見損なうことがあるので(見損なってもネットで見ることは可能かもしれないが,そこまでやる気なし)。

昨日は,夜の10時からテレビ東京系でセザンヌが取り上げられている番組をテレビ欄で発見していたので,10時少し前にテレビのある2階の部屋のソファに座って始まるのを待っていた。このソファは,今年の1月,妻がのんびりと横になってリラックスできるようにと購入したもの。あまり広くないスペースなので,一度家具店でサイズを確認して,メジャーで納まるるかどうかを妻が確認して購入した。でもギリギリ入るだろうというサイズだったので,配達当日,妻は納まるかどうかちょっと不安がっていた。その日の夕方帰宅すると,「本当にジャストサイズで何とか納まったの」と嬉しそうに妻は言っていた。そして,最初は二人で配達に来たが,二人では無理だったので,さらに二人の応援を得て,長時間かけて納めてくれたことに感激していた。

一番好きな画家は誰かと問われれば,躊躇することなくセザンヌと答える。美術館に行ったときは,セザンヌがあるかどうかをまず確認する。ニューヨークのMOMAにあるセザンヌは,行くたびに見に行く。

テレビ番組は,りんごとオレンジの静物画をメインにして,それがいかに革命的な技法だったかを分かりやすく解説してくれて面白かった。「ピカソはセザンヌには絶対にかなわないと言っていたんだよなあ」と独り言を言っていたら,番組でもピカソのキュビズムとの関連が出てきたりして,ここに妻がいたら,「たけしがいろんなことを知っているのって凄いと思う」とほめてくれただろうなあ・・・と思ったりしていた。

突然の涙は,番組の最後にやってきた。
セザンヌのアトリエを幼稚園くらいの子どもたちが先生や親と一緒に訪れて,説明を聞いたり,感想を言ったりしているシーンが写った瞬間,妻がやっていた「びっくり部屋」で子どもたちに絵をかいてもらったり,図工で何か作ったりするのを,英語を使って説明したり,感想を言ったりしていたクラスの様子がそのシーンとだぶり,涙があふれてきた。彼女がいきいきと楽しく子どもたちとコミュニケーションしている姿が浮かんできた。

カードを使って英単語を覚えさせたりするようなよくある子ども英語教室とは全く違って,びっくり部屋は英語はあくまでも手段であり,それを使って何を伝えるのかが大事だというコンセプトで,簡単な科学の実験やアートクラス・世界各国の料理教室をしたりして,英語をとおして世界とつながることのできる人間に育ってほしいという思いでやっていた。子どもだけでなく大人も参加してもらいたくて,「0歳から100歳まで」というのがコピーとして使われていた。

これからもっともっとびっくり部屋をよりよいものにしようとしていた妻の気持ちを思うと切ない。

J.Sバッハ 世俗カンタータ集(ルネ・ヤーコプス指揮) を聴きながら

2010年12月17日金曜日

夏目坂

ブラタモリが好きでよく見ます。昨夜は文京区の本郷台地を取り上げて,坂をテーマにした番組でした。この番組は,大学入学から10年間住んでいた東京の懐かしい風景や,行ったことのない場所の歴史が分かったりして,とても面白いですね。ファンの方もいると思います。

坂特集を見ながら,夏目坂のことを思い出しました。母校である早稲田大学の近くに夏目漱石が住んでいた住居の記念碑などがあり,そこに夏目坂はあります。2007年11月11日に妻と娘と3人でその坂を歩いたのを思い出していました。妻の乳がんが発見されるほんの少し前のことです。
「我輩は猫である」の猫にちなんだ「猫塚」を見たくて行ったのですが,ちょうど猫塚のある一画くが公園整備の工事中で見ることはできませんでしたが,狭い路地を歩きながら,札幌とは違う歴史を感じる空間が何かほっとするような気持ちにしてくれて,楽しい散歩になりました。

大隈講堂の前を通り,都電の早稲田駅まで行き,電車に揺られて雑司ヶ谷で降りました。漱石のお墓参りに行くためです。僕は日本で最高の作家は漱石だと思っています。妻は英訳された「猫」を読んだようですが,それ以外のを読んだことはあるのか聞き忘れました。

ブラタモリを見終わって,犬たちの散歩に出てすぐに,アメリカの娘から携帯に電話が入りました。思わず「三四郎読んでる?」と訊いてしまい,嫌がられました。日本語をきちんとするために,
アメリカに一緒に行ったとき「三四郎」の文庫本を置いてきたのです。難しくて読めないと言われて,自分はいつ頃漱石を読んだのか思い出してみましたが,中学2年生頃だったはずで,まだ娘には早いのかなと思いました。では,早く漱石のすごさを分かるようになってもらいたいものです。

追記
前回の英文の歌詞第2段のthought は though  の 間違いでした。

Van Morrison     Astral Weeksを聴きながら

2010年12月15日水曜日

God Only Knows

I may not always love you
But long as there are stars above you
You never need to doubt it
I'll make you so sure about it
God only knows what I'd be without you

If you should ever leave me
Thought life would still go on believe me
The world could show nothing to me
So what good would living do me?

God only knows what I'd be without you

                                                      
        いかなるときにも君を愛するとは、言い切れないかもね。
        でも見上げる空に星があるかぎり
        僕の想いを疑う必要はないんだよ。
        時がくれば、君にもそれがわかるだろう。
        君のいない僕の人生がどんなものか
        それは神さましか知らない

        もし君がどこかに去っても
        人生はつづくかもね。でもそれでは、
        この世界が僕に示せるものなど何ひとつない。
        そんな人生に、なんの値うちがあるだろう。

        君のいない僕の人生がどんなものか
        それは神さましか知らない。

昨夜,寝る前に,いくつかの本の山の中からこの本を手にとって,そして,
その1曲目がこの歌。2段目の歌詞がずっしりと僕の胸にこたえた。

「もし君がどこかに去っても」は,本来失恋して,恋人が去っていくという意味なのでしょうが,
僕にとっては,キンバリーが逝ってしまったこと,その後の歌詞を読んで,涙でした。

この曲はビーチボーイズの名曲中の名曲とされていて,「ペットサウンズ」というアルバムに入っています。大好きなアルバムで何度も聴いていますが,この曲は,以前は単なるラブソングでした。
今は,全く違った顔をした曲としてきこえてきます。

昨日から今日にかけて音楽に導かれて,妻のことがたくさん思い出されました。

彼女が息を引き取り,娘と二人で清めてあげたあと,彼女のために最初にかけてあげたのは,
キャット・スティーブンスの「Morning has broken」でした。
夜が明け始めて,外が少しずつ明るくなってきた頃でした。「初めての朝のように夜があけた」という歌詞の一節がキャットのあの少しハスキーな深みのある声で流れたとき,流れる涙を抑えることはできませんでした。彼女を抱いて,その重みと暖かさを感じながら,この曲を一緒に聴きました。
意識がなくなってからずっとかけてあげた彼のCDを彼女の棺に入れてあげました。聴いてくれているかな・・・

Rickie Lee Jones  「it's like this」を聴きながら
      

思い出~音楽

些細なことから,記憶が鮮やかに蘇ってくるということは誰しも経験することでしょう。
プルーストの「失われたときを求めて」の中でマドレーヌの味から過去が蘇るというエピソードはとても有名ですが,最近岩波文庫と光文社新古典文庫で新訳が出始めていて,集英社文庫の完訳とともに,何回か挫折した通読に挑戦したいと思っているところです。

今朝,事務所に向かう車の中,FMからコーラスが流れました。その瞬間,妻の声が蘇ってきました。何か音楽に関係する話題が出たとき,妻はよくオペラ歌手の発声練習の真似をして ららららららら~とちょっとおどけた表情で声を出すのでした。その声がはっきりと聞こえてきて,僕も同じように彼女の真似をして声を出してしまいました。涙ぐんでしまいしました。

事務所の入っているビルの2階に両親が住んでいるのですが,ちょっと寄って,朝のワイドショーを見ると,クリスマスソングベストテンをやっていて,2位の曲が終わったところでした。次は1位。予感がしました。もしかするとあの曲かな・・・ 
そのとおりでした。ワムの「ラストクリスマス」が1位でした。去年の今頃,車で移動するときいつもこの曲をかけて妻と娘と3人で歌っていました。ちょっと悲しい内容の曲ですが,3人で声を合わせて何度も繰り返し歌いました。妻はユダヤ系なので本来クリスマスは関係ないのですが,私が日本人なので父親サイドでのクリスマスということで,我が家のクリスマスソングになっていました。その曲が流れるのを聴きながら,壁にかかっている妻の写真を見て,また涙ぐんでしまいました。

今日は音楽で妻のことを思い出す日になっています。その前兆は昨夜にありました。

昨夜,寝る前に少し本を読もうと思って,自宅の机の本の山の中から,最近買った村上春樹の「村上ソングズ」(村上春樹翻訳ライブラリー 中央公論新社)を手に取りました。
1曲目は「神さましか知らない」という曲名で,まず村上氏の訳詞があり,その後に原詩が載っているという構成。題名ではピンと来なかったのですが,それはビーチボーイズのGod Only Knowsでした。

to be continued

2010年12月13日月曜日

記憶

今朝,所用で車を運転中,ある家電製品等の廉価販売で有名な店の近くの信号で停止しました。何気なくその店舗建物を見ているうちに,15年くらい前の記憶が蘇ってきました。
結婚することになって間もなく,この店で冷蔵庫を購入したことを思い出したのでした。妻と一緒に見に行き,5階まで階段で上げなければならないことからサイズの制約があるものの,それなりに大きなサイズのものを購入しました。配達当日,2人では到底上げられないので,応援を頼んで4人くらいで少しずつ5階まで上げたのでした。何とか設置され,これで新婚夫婦の住居らしくなったような気がして嬉しかったことを思い出していました。最近も何度となくこの店のそばを通っていたのに,今までは「最近はここに来なくなったなあ」という程度のことしか思っていなかったのが,今日はあの日のことが一気に脳裏に浮かんできて,ちょっとうろたえたりしました。

こんな風に,何気ない風景の中に,亡き妻との思い出が見えてくる瞬間というものがこれからも続いていくのでしょう。私は今54歳ですが,あと何年寿命があるのか分からないにしても,そんな風に記憶が蘇って来る瞬間が何度やってくるのか,そのことを考えると,ただただ悲しみに包まれてしまいます。今は耐え難いなあということしか思えません。時間の流れの中でその受け止め方にどんな変化があるにせよ,二度と彼女に逢うことはできないのだという厳然たる現実の前に,途方に暮れるばかりです。

ビル・エヴァンス Conversations with myself  を聴きながら

2010年12月8日水曜日

12月8日

今日は真珠湾攻撃の日ですが,僕にとってはジョン・レノンが暗殺された日として永遠に記憶に残っている日です。
そのときあなたは?という質問がされる特別な日というのがあります。アメリカ人であれば,1963年のケネディ大統領暗殺の日がすぐに浮かんでくるでしょう。アランダーショウィッツというハーバード大学教授が書いた「beyond reasonable doubt」というO.J.シンプソン裁判について詳細に分析された本があります。まだ翻訳されていないはずですが,「合理的疑いを超える立証」とはどのようなものかを非常に分かりやすく書いたもので,裁判員裁判が始まっている日本においてもとても参考になる本です。何故翻訳されないのか不思議な本の一冊です。その中で,著者は,O.J.シンプソンの評決が出された日は,ケネディ暗殺と同じように,将来,そのときあなたは何をしていたか?という話題になる日になるだろうと書いていますが,さあどうでしょうか。とにかく,その当時は,無罪評決が全世界に衝撃をもって伝えられたものです。

ジョンが暗殺された日,僕は東京の恵比寿で司法浪人4人で勉強会をしていました。お昼になり,コンビニに弁当か何かを買いに行ったとき,店内にラジオが流れていて「ジョンレノン」という言葉が聞こえました。その当時,長いブランクを終えて音楽に戻り,世界ツアーをするという情報が入っていたので,その話かなと思って良く聴いていると,射殺されたというニュースだということが分かりました。呆然自失とはあのときのことを言うのでしょう。何が起こったのか理解できないまま,勉強会をしていた友人のアパートに戻りました。その後,他の3人は何事もなかったかのように勉強会を続けるのでしたが,僕はとてもそんな気持ちにはなれず,ただぼんやりと時間が経つのを待っていました。そして,ジョンが死んだというのに,こうして平然と勉強会を続けることができる彼らは自分とは全く別の人種なんだな,そういう種類の人間が存在するんだな・・・とあっけにとられるような感覚で彼らを見ていました。

その日の夜不思議なことがありました。どうしてそこにいたのか,今となっては記憶がないのですが,勉強会の後,午後8時過ぎだと思いますが,僕は中野駅のホームに立っていました。その頃の僕のアパートは西武新宿線の上石神井でしたから,何故中野駅にいたのか記憶していません。
とにかく,ジョンが死んだという事実の前で呆然としてホームに立っていると,2本向こうの別のホームに知った顔があるのでした。同じ北海道から東京に来ていた,従妹がこっちを向いて立っているのでした。僕は大声で彼女に呼びかけました。彼女も僕に気がついて,僕は走って彼女のいるホームまで行き,ジョンが殺されたことを教え,中野で彼女とジョンのことを語り合いながら痛飲しました。彼女が何故中野にいたのかも忘れましたが,電車が来るまでの数分の間に,普段は来ることのない場所で出会ったことに,単なる偶然以上のものを感じました。誰かとジョンのことを話したかったので,本当に救われたような気持ちでした。

ジョンは40年の人生でした。
妻は44歳。たった44年です。もっともっといろいろやりたいことがありました。子どもが大好きだった。びっくり部屋をもっともっと開かれた素敵な空間にする計画を持っていました。
どんなに悔しかっただろう・・・心残りだったと思います。
一番の心残りは,まだ12歳(当時)の娘のこと。その成長をずっと見守っていたかった。


ピーター・ガブリエル「スクラッチ・マイ・バック」を聴きながら

2010年12月7日火曜日

日本人は日本語で歌ってほしい

日本人が英語で歌うのに感心したことはあまりない。例えば,ジャズシンガーにケイコ・リーという人がいて,彼女の歌を絶賛する人は多いようだが,いいと思ったことはない。その昔,まだくっちゃんジャズフェスティバルがあった頃,家族で行ったことがあり,彼女が歌うのを聴いたが,ぜんぜん良くなくて,その発音を聴いていて何か恥ずかしいような感じを抑えることができなかった。妻は「どうして日本人が英語で歌うと,心が感じられないのかな。とても薄っぺらにしか響かないこと分からないのかな。」と言っていた。本当の気持ちが,心が感じられない歌は,どんなに上手に聞こえたとしても,そこから感動を受けることはない。

先日,「ゴースト」という映画を観てきた。デミ・ムーアとパトリック・スウェイジのオリジナルのリメイク。少し前なら,このような内容の映画を観に行く気持ちにはならなかっただろう。少しずつ,自分の中で,妻の亡くなったことを受け入れられるような場所ができつつあるのかもしれない。
映画自体は,予想していたとおり?到底オリジナルを超えられるものではなかったけれど,お気に入りの通路側の席で,ポップコーンMサイズ,コーラMサイズと一緒にスクリーンに向かっていると,隣に妻が座っているような気がした。ほんのチョットした悲しい場面や幸せな場面でも,すぐ涙ぐんでしまう妻。きっとこのシーンで涙ぐんでいるな,とそっと横を見ると,案の定,ウルウルしていて僕に見られているのに気がついて,照れ笑いをする彼女。そんな彼女が見えるようなシーンがいくつかあった。

しかし,オリジナルでもテーマソングだった,ライチャス・ブラザーズのアンチェインドメロディUNCHAINED MELODY が流れたとき,わずかに感じつつあった感動のようなものがスーッと冷めて行くのが分かった。すぐには分からなかったのだが,ライチャスブラザーズのではない。日本人が歌っているなと分かる歌い方で,英語の発音はともかく,そこにはオリジナルに感じられる心が全く感じられなかった。それが2回歌われるのが辛かった。

映画が終わり,クレジットで平井堅が歌っていたことが分かった。彼は,とても素晴らしい歌手だと思うが,英語で歌うのはやめてほしいと願った。

そう考えると,ジェロってすごいのかもしれない。テレビで何度か聴いただけだが,彼の演歌には本当に気持ちを感じることができるような気がした。
そういえば,娘がジャニーズ系が大嫌いで,その理由が,歌が表面的で心が感じられないというもの。そういわれると,エグザイルなどそれほど知ってはいない日本のアーティストの歌に感じる表層性とでもいうものは,ひとつの特徴としてあるように思う。

ただ,桑田は別格だとは思う。彼の歌を聴くと,歌と彼自身が乖離することなく,彼自身から自然に流れてきた歌だということが感じられる。ヤザワ?残念ながら彼のことは全く分からないが「時間よ止まれ」は凄いと思う。

クーリエ・ジャポンという雑誌の新年号をめくっていたら,ドイツで「イズ」の「虹の彼方に」が大ヒットしているという記事が載っていた。ハワイの歌手で,イズラエル・カマカヴィヴォが本名。すごい巨体だが,その声は一度聴いたら心をすっとつかんで離さない。生前,妻がU-TUBEで見つけて,何度も一緒に見たことを思い出す。昏睡状態になってから亡くなるまでの4日間,ずっとかけ続けた彼女の好きな曲の中に,この曲も入っている。彼自身は13年前に38歳で亡くなっているが,妻が「こんな素敵な歌を歌うひとが若くして亡くなるなんてアンフェアだね」と言っていたが,その言葉を彼女をのために叫びたい。unfairだよ!!!!!

マリアンヌ・フェイスフルのニューアルバム「EASY COME EASY GO」を聴きながら

2010年12月6日月曜日

おくりびと

「おくりびと」という映画,外国でも高い評価を受けた映画ですが,僕はDVDで途中まで観て最後までは観ていません。妻は映画館で観て,いい映画だったと言っていました。今年の3月頃だったと思いますが,借りてきたDVDを一緒に見始めて,理由は忘れましたが,僕は途中からテレビの前を離れて,そのままになっています。

それから約3ヶ月後,6月16日午前2時44分に逝ってしまった妻の体を清めてあげることになるとは夢にも思っていませんでした。12日から昏睡状態になっていた妻の寝息をずっと聴きながら過ごしました。妻の好きだった音楽をずっとかけ続け,娘と一緒に話しかける日々でした。不思議なことがありました。娘が母親に聴かせてあげるためにCDを何気なく買ってきたのですが,それはパッヘルベルのカノンが1曲目に入ったクラシックのコンピレーションでした。この曲は,96年1月20日の僕たちの結婚式で入場のときに演奏されたものです。そんなことは何も知らない娘の選んだCDの1曲目が流れたとき,時間はあの日に戻り,涙が流れました。その話を聞いて,娘も驚いていました。

まだ暖かい妻が来ていた衣服を脱がし,暖かいお湯に浸したタオルで全身を拭いてあげました。
そして彼女の好きだったローションを全身に塗ってあげました。娘も一緒です。僕と娘の二人だけで塗ってあげました。ホスピスから来ていたナースには妻の体を支えたりするのを手伝ってもらいましたが,娘と二人で彼女を綺麗にしてあげることができて,幸せだったと今は思います。でも,そのときは,妻が亡くなっていることの実感はまだなかったと思います。まるで,ぐっすりと眠っている彼女の世話をしてあげているような感覚だったような気がします。
葬儀社の人が来て,彼女を連れていくまでの1時間以上の間,僕と妻の二人だけの時間が持てました。まだ暖かい彼女の身体をさすってあげながら,ずっと話しかけていました。ふと彼女の顔を見ると口元が笑っているようになっていました。最後のキンバリースマイルでした。

彼女を知る誰に聞いても,その笑顔が最高に素敵だったと言います。本当にあんな素敵な人の気持ちを優しく和ませるような笑顔は他にはいません。

最後までは観ていない「おくりびと」について今思うことは,まるで荘厳な儀式のように行われる一連の作業を見ているのではなく,遺族の方が自分の手で,愛する人を丁寧に優しく清めてあげることができることが,とても意味のあることではないのかな,ということです。もちろん,それができないような状況がたくさんあるでしょうが,可能であるなら,そうしてあげられるといいなと思います。

そんな風に,彼女の最期の時間を一緒に過ごしてはいるのですが,それでも,まだ彼女が亡くなってしまい,触れることも声を聴くたともできないということが信じられません。

ドボルザーク作曲「弦楽六重奏曲」作品番号48を聴きながら

2010年12月3日金曜日

完全な勘違い

昨日は41年間の間違った思い込みについて書きましたが,別の大いなる勘違いについて。

妻が亡くなったあと,妻を知る人によくこんなことを言われます。
「キンバリーは日本人以上に気のつく,思いやりのある人だったね」
僕は言います。
「日本人にあんな人はいません。」

どうも日本人は,自分たちが外国人に比べて優しく思いやりがあるものと思っている人が多いようです。それで,妻のことを「日本人以上に」などと言うのでしょう。こう言われたのは一人や二人ではありませんから,このような思い込みはかなり深いと思います。

それが間違いであることは,これまで例に挙げた何人もの弁護士のことを考えれば全くの誤りであることは明白ですが,その他にもこんなこともあります。

知り合いの北欧出身の女性が札幌市に暮らしていました。隣近所とのつきあいも良く,とても仲の良い日本人の友人たちに囲まれて,札幌でずっと暮らすつもりでいました。その彼女は,今は自分の国に帰って札幌にはいません。

彼女は私生活上の問題等があって,体調を悪くし,うつになってしまったのでした。
当然,それまで交際のあった日本人の友人たちがいろいろと力になってくれるものと思っていましたが,次第にその人たちは彼女から離れて行きました。彼女は,大変な精神的ショックを受け,この国では生きてはいけないと思い知らされ,国に帰ったのです。

年間3万人を超える自殺者の背景には,このような「思いやるがあると自分では思っているが,実際には他人を孤独にさせる優しい日本人」がいることは間違いありません。

幼い姉と弟が遊び歩いていた母親に置き去りにされて餓死した事件がありました。
その事件を知ったとき,妻が同じマンションにいたら絶対にこの子どもたちは助かっただろうと思いました。インターホンから助けを求める声が聞こえても誰も動こうとしなかった人たち。妻がいたら,僕と一緒にその子どもたちの部屋がどこなのかを全部の部屋を訪問して見つけ出したことは間違いありません。すぐ警察にも通報したでしょう。本当にかわいそうなこどもたちです。

昨日は,テレビで「ブラタモリ」を見ました。この番組妻も好きでした。一人で見ながら,隣に妻がいるような気がしました。

ウェス・モンゴメリー「BODY AND SOUL」を聴きながら

2010年12月2日木曜日

間違いの発見

昨日,41年間信じてきた事実が間違っていたことを発見してショックを受けました。
キング・クリムゾンのデビューアルバム「クリムゾンキングの宮殿」は1969年発売ですが,同じ年に発売されたビートルズの「アビーロード」をヒットチャートの1位から引きずり下ろしたアルバムだと当時からずーっと信じていました。音楽雑誌で読んだり,ラジオでDJが言っていたので,当然それが事実だと信じていたのです。
ところが,昨日たまたま書店で手に取ったロック系音楽雑誌をパラパラめくっていると,キング・クリムゾンのアルバムリマスター関連の記事の中に,このアルバムがアビーロードを1位から引きずり下ろしたという説があるが,実際にはイギリスのローカルチャートの話であって,イギリス全土のヒットチャートでは最高が5位だったというのです。    41年間信じてきた事実が間違っていたことを知らされ,愕然とした瞬間でした。  実は,2年くらい前の札幌のローカル雑誌のコラムに僕が載ったことがあり,「私の1枚」というテーマで「クリムゾンキングの宮殿」を取り上げて,間違った情報を伝えたことがあって,訂正の機会はないと思うので,この場を借りて訂正させていただきます。

しかし,このような間違った認識をしていることって他にもたくさんあるのではないかと思います。
気をつけたいと思います。

クレメンティ作曲ピアノ曲集を聴きながら

2010年12月1日水曜日

12月です

いよいよ今年もあと一ヶ月となりました。妻のいない初めての師走と新年になります。まだ妻の不在が信じられない心境です。
昨日,キンバリーのクラスの生徒さんの母親が相談に来ました。建築中の自宅について業者の対応がおかしいということについての相談でしたが,しばらく妻の話になって僕も泣いてしまいしました。人見知りが強くて引っ込み思案な自分のことをキンバリーが励ましてくれてどんなに救われたか,同じ気持ちで今もキンバリーが亡くなったことを受け入れられない人たちがたくさんいるという話をしてくれました。本当に彼女は,他人の悩みや苦しみを心から受け止めて,励まして,気持ちを前向きにすることのできる人でした。
今この文章を書きながら,事務所の僕の部屋のドアをノックして妻が入って来るような気がしています。

昨日はオーストラリア人に会ってきました。既に,被疑者国選弁護人がついていることが分かったので,今後の予想される手続きなどについて説明してきました。国選弁護人は通訳を連れて接見したようですが,弁護士は英語が話せず,通訳の英語も下手で,うまくコミュニケーションできないと言っていました。外国人が逮捕される事件もかなりありますが,適切な通訳がなされているかは非常に疑問です。僕は英語は通訳なしで対応できますが,それ以外の言語は通訳に頼るしかありません。通訳が正確かどうか確認のしようがなく,非常に不安を感じます。
英語ができれば何とかなることがあるので,弁護士は英語くらいできて当然だと思うのですが,現実はそうはいかないようです。

キング・クリムゾン「ポセイドンのめざめ」を聴きながら

2010年11月30日火曜日

久しぶりの夜更かし

昨夜は9時スタートのジャズライヴをハーフノート( 南3西5)で聴いてきました。帰ったのは午後11時50分過ぎで,寝たのが午前零時を過ぎたのは久しぶりでした。
館山健二という札幌で最高のドラマーがリーダーのライヴ。友人でもあり,妻も何度も彼の演奏を聴いていました。休憩のとき話をしました。彼も妻の話になると目が潤んでしまいました。去年の7月19日東京への飛行機の中で偶然会ったのが最後だと言っていました。妻にそのことを聴いていたのを思い出しました。彼女は千葉に治療に行くため,彼は日比谷野音での山下洋輔のコンサートに行くために東京便に乗っていたのでした。「彼女のために演奏します」と言ってくれました。素晴らしい演奏でした。隣でキンバリー(妻) 一緒に聴いているような気がしました。

これからオーストリア人男性の接見に警察署に行ってきました。ネットで僕のことを知ったオーストラリア在住の姉からメールと電話がきて,会いに行くことになりました。国際化しています。

今日も昨日と同じブレンデルのリストでした。

2010年11月29日月曜日

雪の札幌

結構雪が降った札幌です。もう1台の方の車はまだ夏タイヤで,そろそろ交換にスタンドに行こうかなと思っていた矢先に雪になってしまいました。まだ根雪にはならず,一度は溶けると思うので,そのチャンスにスタンドに行こうと思っています。ちょっとのんびりし過ぎていたようです。

明日の裁判の準備が終わり,デスクの近くにあった書類の入った封筒を手に取って中を見たら,妻の伝言が書かれた置き手紙が出てきました。去年の4月,イギリスから友人のルースと息子のセイジが私たちの家に滞在したときのもので,「これから中国領事館に行って,その帰りの足のマッサージをしてきます。ダイアンとランチの予定なので,一緒したかったら私の携帯に電話してください。キンバリー
(炊飯器に炊き込みご飯が作ってあるよ) 」(原文英語)  名前の後ろにスマイルマークがある馴染みの字体で書かれたのを見て,グッとくるものをこらえられませんでした。逢いたい・・・

言いたいことははき出した方が精神衛生上いいという友人からの助言もあり,再度,理解できない弁護士の態度について触れます。

妻も弁護士である同期の弁護士とは, ある事件を一緒にやっていたので,その打ち合わせのために,何度もその事務所に行く機会がありましたが,その際にもただの一度も妻のことを訊かれたり,言葉をかけられたことはありません。普段会っていないのではなく,会ったときにも全く妻のことは無視でした。同じように,弁護団会議でよく会っていた後輩弁護士(妻や娘と一緒にある弁護士の妹の結婚式にフランスまで一緒に行ったこともある弁護士)も,一度も言葉をかけてきたことはありませんでした。ちなみに,妹がフランスで結婚した弁護士からもただの一度も言葉はありません。
また,他の同期の弁護士は今年の初め頃,ある手続きについて僕が分かれば教えてくれないかとの電話をかけてきたので,調べた上で, 電話で教えてあげたことがありますが,その数回の電話のときも妻のことは全く何も触れられず,仕事の話が終わったらそれだけでした。

こういうことは僕には到底理解できないのですが,僕の感じ方がおかしいのでしょうか。

弁護士としては立派な方々でしょうが,人間としては絶対に許せない人たちです。

まだまだ,いろいろありますが,そろそろ止めようと思います。妻が「もういいんじゃない。そういう人たちなんだから」と言っているようです。

こんなこともありました。
先日,僕の出身である早稲田大学と慶応大学の懇親会がありました。会場のホテルで受け付けを済ませて椅子に座っていると,先輩の女性が声をかけてきて,天満敦子さんのことをとうとうと話し始めたのです。彼女とは妻が亡くなってから初めて顔を合わせたのですが,いきなりそんな話を始められたのであっけに取られたような感じで,正直不快でした。
6月21日に札幌グランドホテルであった天満敦子と窪島誠一郎「ヴァイオリンと語りの午餐会」のチケットを妻と一緒に行くつもりで彼女から購入していたのですが,妻が亡くなり,当日は僕はまだアメリカにいたので行けませんでした。そんなことは知らない彼女は,その当日僕たちが会場に来ていないので,僕の携帯に電話をしたところ,アメリカの妻の妹宅にいた僕にそれがつながり,妻が亡くなったことはそのときに伝えていたのです。それが,いきなり,妻のことには何も触れず,天満さんのことを話されたので,一体どういうことなのかなと思ったのでした。

それから数日して彼女から丁寧な手紙と天満さんのCD,妻へのお供えの品とが送られてきました。すぐにお礼の電話をかけて,いろいろと話をして彼女の妻への思いを知ることができました。

ブレンデルのピアノによるリストを聴きながら

雪ですね

札幌は今も雪が降り続いています。うちには車が2台あります。1台は私が通勤や移動に使っているもので,もう一台は赤色の日産X-Trailです。後者は4年前に我が家の二匹の犬たちと移動するときのために妻が選んだ車です。まだ乳がんが見つかる前の夏頃で,いくつかのディーラーを回ったあと,自宅からすぐの日産で購入を決めました。シートの素材が犬の毛が入らないようになっているのが決めてで,デザインも気に入ったのでした。今,妻の遺骨は自宅にあるのですが,そこにX-Trail の横に笑顔で立っている妻と娘を描いた絵が飾られています。妻が亡くなったことを知った日産の担当女性が同僚に頼んで納車当日の写真を元にしてパソコンを使ってでしょうが,きれいの1枚の絵にしてくれたのでした。それ以外にもエコバッグに使える布製バッグの両面に同じ絵柄とびっくり部屋の前の二人の絵をそれぞれプリントしてくれたのも作ってくれました。そして,妻の顔の並んだシールも作ってくれました。自宅にお参りに来てくれたときその絵を見て, 泣いてしまいました。
こんなに手間をかけて妻のためにしてくれたことに心から感謝でした。

高校時代の同期が参加しているメーリングリストがあるのですが,そこに自宅で妻とも会ったことのある女性が,妻が亡くなったことを告知するメールを載せてくれました。事前に載せていいかと問い合わせがありました。9月だったと思います。
反応は全くありませんでした。それはそれなのですが,腹が立ったのは,それから1ヶ月後くらい経った頃,その女性が写真をメーリングリストに載せる方法が良く分からないというメールを載せたところ,同期の弁護士(この弁護士は中・高と私と一緒でもあります)がすかさず載せ方をアドバイスするメールを載せてきたことでした。9月のメールを読んでも何の反応もしなかったのが,写真を載せる方法にはすぐに反応してきていることに怒りを感じました。

2010年11月28日日曜日

日曜日

日曜日の午後,事務所に出てきています。今朝は少し寝坊してしまい,起きたのは7時でした。昨日は朝8時半スタートで北広島でゴルフ。高校時代の同期の仲間3人と回ってきました。終わった後,クラブハウス隣にある温泉に入り,食事をして帰宅。東区にある岩田コーヒーに行って, ロランバルトのMournind Diaryを美味しいコーヒーをのみながら読んできました。ここは,妻と何度も来ていた店で自家焙煎の美味しいコーヒーが飲めるところ。スコーンもパスタも美味しくて,オーナーの堀田夫婦とも仲がよくて,妻がいつも行きたがっていた店です。いつも座っていた席に座って入り口を見ていると,今にも妻が入ってくるような気がしてウルウルしてしまいました。

Mourning Diary は哀悼・悲嘆の日記とでもいうのでしょうか,ロランバルトというフランスの哲学者・評論家が1977年10月に最愛の母親が亡くなったあとに,耐え難い悲しみの毎日に書いていたメモを日付順にまとめたものです。今月の6日, ニューヨークのユニオンスクエアにあるお気に入りの書店「ばーんずアンドノーブル」で見つけて購入したもの。11月28日にこんな文章があります。

 Does being able to live without someone you lovedmean you loved her less than you thought...?
      愛する人なしで生きていけるということは,自分が思っているほどその人を愛してはいなかったと  
 いうことなのか・・・

   バルトは「零度のエクリチュール」「恋愛・ディスクール・断章」「モードの迷宮」などで著名な人ですが,この日記を読みながら,今までとは違った意味でその言葉が心に浸みてきています。

 言葉がどんなに意味を持つかを妻のことで思い知ることになりました。一言も言葉のない同期その他の弁護士たちの冷酷さはいうまでもありませんが,妻のことを知っている他のほとんどの弁護士からも言葉をかけられたことはほぼ皆無でした。わずかに数名が「大変だね」と声をかけてくれました。その時に感じた嬉しさとありがたさはひとしおでした。言葉をかけるという簡単なことでどんなにその相手が救われるかということを身にしみて理解できしまた。それまでは,僕自身が言葉をかけない側にいたと思います。

 今回のことで,本当の友人というものが誰か分かったと思います。
 異動の時期になると,同期の裁判官や検事が札幌に着任したり離任したりします。そのたびに同期による歓迎会や送別会が開かれるのが通例です。僕も昔は出席していましたが,それがいかに偽善的で見せかけのものであったのかがよく分かりました。

 それに比べて,ほんの少しだけ妻と接することのあった人たちが,妻のために涙を流してくれるのに出逢い,妻がどんなに他人に対して本物の愛情を気持ちを持って接していたのかが分かり,そんな女性と出逢えたことがどんなに幸せなことだったのか思い知らされています。

2010年11月26日金曜日

理解できないこと2

先日,アップルストアに自宅のパソコンを持って行きました。家族の写真がたくさん入っているのですが,しばらく前から動かなくなって画面にクエスチョンマークが出たりしていたので,写真が失われては大変なので,持って行ったのです。担当になった男性がパソコンを操作しながら「これってキンバリーさんのパソコンですね」と言ったのです。妻がパソコンの操作方法などについて質問しにアップルストアに来ていたことは知っていましたが,偶然妻に対応した人だったのでした。彼に妻が亡くなったことを伝えました。キーボードを操作しながら,彼の目にみるみるうちに涙があふれて来て, 拭っていました。僕も泣いてしまいました。「びっくり部屋」という妻のやっていた英語体感教室のホームページの作り方を教えてもらいにアップルストアに通っていたのですが,質問や答えのやりとりで妻がとても楽しく笑いながら彼と対応していただろう姿が目に浮かんできました。いつも明るく笑顔いっぱいの妻でした。妻が亡くなったことを知って涙を流してくれた彼に心の中で「ありがとうございます」と言いました。

これに対して,生前も亡くなったあとも一言もない弁護士たちの態度を考えると,彼 (彼女)らの冷酷さが際立ちます。こんなこともありました,3週間ほどまえですが,裁判所近くを歩いていたら後ろから声がかかって来ました。妻とも面識のある弁護士で,妻が亡くなってから会うのは初めてでした。その彼はいかにも軽い調子で「あわおさんげんきー。最近・・・・の集まりに来てないけどどうしたの? 」と声をかけてきました。一体この人間はどういう神経をしているのか到底理解できず,ムカッときたので「妻亡くして元気なわけないだろ!」と言ってやりました。

よく「どう言葉をかけていいか分からなくて・・・」ということを言う人がいますが, 本当に気持ちがあれば,言葉は出てくるはずで,気持ちがないことの言い訳に使われているだけだと思います。柳田元法務大臣と同じです。この言い方覚えておけばだいたいはオーケーってことです。

to be continued

理解できないこと

前回書いたことについて,共感してくれた読者?の方がいたので継続して書きます。
妻が亡くなったあと,しばらくアメリカに滞在し,妻との思い出の場所を娘と訪れたりして過ごし,7月中旬に帰ってきました。妻の遺骨と一緒に。脱線しますが,遺骨の扱いにも日米の違いが現れていて興味深かったです。ニューヨークのJFKの検査には手間取りました。予め検査の際に遺骨について面倒になっては困るので,オーク材の骨箱の中身が妻の遺骨であることを証明する書類を発行してもらっていました。JFK の検査場でその書類を見せ,検査機の中を通過して無事に済みました。
成田でも同じ事態となりました。妻の遺骨であることを係員に説明し,その証明書を見せると,係員は警察官を呼び,警察官が書類を一瞥して「どうぞお通りください」と言ってくれました。ここで日米の違いがあったのですが,成田では骨箱を検査機を通さずに済みました。遺骨に対する敬意というか特別なものであるので検査機を通すことは失礼だという気持ちを感じました。安全性の点からすると少々問題なのかもしれませんが,「日本に帰って来たのだな」というようなちょっと感激した気持ちを抱きました。

そんな日本ですが,日常生活での人間の気持ち,態度については前回書いたような非人間的・非常識・冷酷な言動を取る人間が少なくないことがよーく分かりました。

日本に戻り,慌ただしくアメリカに向けて経ったままの自宅での生活は辛いものがありました。妻の靴・服・食器・・・・・1階の居間にいると,いまにも2階から妻が降りてくるような気がして,声をかけたりしました。近所を歩くと,どこかから妻が僕を呼ぶ声が聞こえてくるような気がしました。北大病院が近くなので歩いて行ったときのことを思い出し,ゆっくりと歩く妻の姿が目に浮かびました。

裁判所に行く時間が来てしまいました。続きはのちほど。

2010年11月22日月曜日

雑記

妻のことが何故かブログ以外のところに載ってしまいました。
6月16日に亡くなったあと,7月中旬まで娘とアメリカに滞在していました。7月11日の僕の誕生日はニューヨークで迎えました。95年に妻と初めて出逢ったのですが,ニューヨークに帰った妻に逢いに6月末にニューヨークに行きました。JFKに赤いばら一輪を持って僕を迎えてくれた妻の姿が今も忘れられません。7月11日の誕生日はプラザホテルに滞在していました。95年は,最近と同じく円高でリッチな気分になれた年でした。その朝,ルームサービスが日本食の朝食を運んできました。妻が僕を驚かそうとして頼んでくれていたのでした。

妻との思い出は限りがありません。

妻の乳がんが発見されたのは,2007年11月末頃でした。それから亡くなるまでの約2年7ヶ月,妻がやっていたびっくり部屋の生徒さんやその親御さんたちが千羽鶴を折ってくれたり,励ましの言葉をいただいたり,とてもありがたかったです。

ところがこんなこともあります。
札幌には同期に弁護士となったのが9人いるのですが,一人を除いて,妻の闘病期間中も亡くなった後も,文字通り,一言も言葉をかけられたことがありません。妻のことも知っているし,弁護士10年目のときには家族でハワイ旅行をしたこともあります。そのうちの一人の妻も弁護士なのですが,妻に,その息子の英語の家庭教師をしてくれる外国人の紹介を頼んで来て,紹介したこともあるのですが,その弁護士からも何の言葉もかけられたことはありません。
妻が亡くなってアメリカから帰って来るとき,もしそんな人間たちから香典が来ていたら突き返してやろうと思っていました。香典はそもそも来ていなかったので,そんなことをする必要もありませんでしたが。

僕のことが大嫌いで,理由は知りませんが憎んでいるのかもしれません。
しかし,そうであっても,一度くらいは何かのことばくらいかけるものではないのでしょうかね。
みなさん,どう思うでしょうか。
こんな弁護士は他にもいます。僕の家に婚約者と来て,妻ともいろいろ話をして帰った弁護士がいますが,この人間からも一言も言葉をかけられたことはありません。

こういう人間を僕は絶対に認めません。

2010年5月22日土曜日

アメリカのドッキリカメラ

前回の子どもの日のブログから大分時間が経ってしまいました。皆さんお元気でしたか?

先日,ネットでアメリカのドッキリを見る機会があったので,それについて書いてみます。
日本のドッキリとは全く違った,シリアスなものでした。
2つあるのですが,どちらも俳優が演技をしていて,それを事情を知らない一般の人が見て,一体どのような反応・行動をするのかを隠しカメラで撮影しているというものです。

① コロラド州の中で,一夫多妻制を認めて実行している宗教的な集団があるようです。実際に15   
 歳未満の女の子が,50歳過ぎの男の4番目の妻として無理やり結婚させられるということが起っ 
 ているという背景事情があります。あるレストランに俳優たちが集まります。15歳の女の子,その 
 夫となるべき50代後半の男性。男性の3人の妻。全員が役者です。
 
  レストランの席につき,5人の話が始まります。男性が15歳の女の子に,結婚は神が認めたも 
 のだとか色々と言っています。3人の妻役たちも,結婚は怖いものではないとか何とか言って女の 
 子を男性と結婚することに同意させようとします。そのやりとりは、周りの一般のお客さんたちにも
 筒抜けで,一体どういうことが起きているのかははっきり分かります。
  周りにいる客たちの表情などが隠しカメラで写されます。困惑した表情,とんでもないことだと怒 
 りを浮かべた表情などが映されますが,誰も動こうとはしません。
  そのうち,一人の女性が15歳の女の子に近づき,「あなたは何歳?何が起こっているのか分か  
 っている?このような話をあなたは聞かなければならない義務はないのよ?」などと話かけます。
 夫となるべき男性が「これはうちの家族の問題だ。」などと抗議しますが(これも演技),女性は一
 切相手にせず,女の子を保護しようとその場から連れ出そうとします。
  そこに,これがドッキリであることを知らせるスタッフが現れる・・・

  このような情景がいくつか映されます。
  殆どの客たちは,そこで展開されているのが何か「異常な事態」だということは分かっても,女の
 子を救おうとする実際の行動には動きません。女の子に近づいて連れ出そうとした女性は,児童
 虐待防止センターに勤務している女性でした。

② 売りに出ている一軒家を見学に来た客と対応する女性と,見学に来た黒人夫婦が役者。
   白人の見学者たちには愛想良く対応する女性が,黒人夫婦(役者たち)には,「この近所には
 黒人の方が殆ど住んでいないので,あまり環境としては良くないのでは・・・住みづらいのではない
 かと思いますよ。」などと,黒人であることを差別するような発言を繰り返し,それを見ている他の
 白人の見学者たちがどのような行動を取るかを隠しカメラが映し出す。

   ここでも,多数の見学者は女性の発言に不快感を感じながらも,実際の行動にはなかなかで
 ません。その中で,女性に「あなたの発言は実に不愉快だ。こんな家は購入する気はない。」と抗
 議して,黒人夫婦に「あなたたちもこんな家を買うことはない。一緒に帰りましょう。」と促す女性な
 ど,実際に女性に抗議したりする人の姿が映し出さところでドッキリであることが明かされる。

   見ながら,勇気ある人が行動に出るところで,感激してしまいました。見てみぬ振りをすること 
 が事態を悪化させたり,取り返しのない結果をもたらすことがあるのは,以前書いた児童虐待に
 対する対応について触れたことがあります。アメリカが理想的な対応をしているとはいえません。
 ただ,このような番組が存在していることに,日本とは違う,現実に存在している問題に対する実 
 際の行動の重要性を訴える問題意識が出ていて,そこは日本と違うような気がします。

  ローリング・ストーンズ
   ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト 40周年記念デラックス・エディション CD1を聴きながら。
   中学生の頃,何度も聴いていたアルバムに,未発表曲や,ゲストのBBキングやアイク・ティナ  
  ターナーの演奏も入った凄いセットです。札幌ドームでのライブには家族で行ってきました。ロ 
  ン・ウッドが使っていたギターのピックを僕たちの方向に投げたのが床に落ち,それをスタッフの
  アメリカ人が拾って,近くにいた娘に手渡してくれたのです。娘はまだ小さかったので何のことか  
  分からなくてぽかんとしているのを,僕がさっと取り上げて,宝物として大切に保管してあります。

2010年5月5日水曜日

子どもの日

昨日はとても良い天気でした。ニドムのニスパコースで友人とゴルフしてきました。残念ながら100切れず。池が多くて難しいコースでしたが,戦略的に頭の悪いゴルフをしてしまったなと反省しています。でも,いろいろと勉強になって,その難しさをどうやって攻略すればいいかと考えるのが楽しみと感じるようになっているのは,少し成長したのかなと思います。去年だったら,ただスコアのことを悔しがって,次回はどうやって攻略して行こうかなどと考えなかったと思います。よくゴルフは人生に似ているといわれるようですが,少しずつその意味が分かって来ているような気がしています。
昨日の良かった点は,パットです。パット数は34。18ホールで2パットだとして36ですから,それを下回ることはできました。3パットもありましたが,3メートルくらいのスライスやフックラインのを1回でカップインできたのが4つあり,自分では,かなりラインを読む力がついてきたのではないかと思いました。今,一番面白い練習はパターです。なかなかパター練習をする機会は持てないので,ラウンドがあるときは,早めに行って,1時間くらいパター練習をしようと思っています。先日,北広島ゴルフ倶楽部に行ったとき,たっぷりと練習してきました。

今日は子どもの日。
今日の朝日新聞の朝刊に「帰ってきたぞウルトラマン」という記事が載っていました。1966(昭和41)年から放送された初代ウルトラマンでぬいぐるみに入っていた古谷敏さん(66)についての記事でした。当時私は10才でしたが,ウルトラマンの第1回を見たことをよく覚えています。ウルトラマンごっこをよくやりました。あの頃,今でもカルト的な人気のある漫画やアニメがいくつもありました。「巨人の星」「あしたのジョー」は,少年マガジンで第1回から夢中で読んでいたし,「あしたのジョー」の第1回アニメの放送も良く記憶しています。「巨人の星」では,草野球でものまねをしたものです。例えば,俊足の速見(ハヤミ。漢字は違うかもしれません)が一塁に出て,花形が牽制球をピッチャーに返球したので,速見が大きなリードを取ると,実は花形はピッチャーに返球していなくて,頭上に高くボールを投げ上げていて,それをキャッチして,リードしすぎていた速見にタッチアウト。翌日の草野球ではこのシーンの再現が何度も繰り返されるのでした。今ではそんな現象はありえないでしょうね。

古谷敏さんのウルトラマン以後の人生は,決してうまく行かなかったようです。それが,あることから,当時の仲間たちとの連絡がつくようになって,また,ウルトラマンとかかわりのある仕事をするようになっているようです。

中一の娘はバレーボール部に入ったのですが,この連休も練習が毎日入っています。土日も基本的に練習があるということで,自分の時間が持てなくなるようで,このまま続けるか少し悩んでいます。ゴールデンウィークの終わってすぐに社会のテストがあるとか。このようなせっかくの休日を台無しにするようなスケジュールが実に多いような気がしています。

子どもの日の今日も,塾で勉強なんて生活をしている子どもたちもたくさんいるのでしょう。
おかしなことだと思います。親の考え方,生き方が試されているのかもしれません。


(訂正)前回の元ビーチ・ボーイズ「デニス・ジョンスン」は「デニス・ウィルソン」の間違いでした。

トスカニーニ指揮NBC交響楽団「ワーグナー前奏曲集」を聴きながら

2010年5月4日火曜日

去年の今ごろ

昨夜は10時半頃に寝たのですが,3時半に目が覚めてしまい,事務所に出て来て,コーヒーを飲みながら,元ビーチボーイズのデニス・ジョンスンのソロアルバムをかけながら,新聞のスクラップをやりました。丁度去年の今ごろの新聞が事務所の隅に置いてあったので(1年間放置されていたことになる・・・)見ていくと,新型インフルエンザがいよいよ日本に上陸のニュースがありました。そういえばそんなことがあったなあ・・・すっかり忘れていました。

もうひとつ。去年の5月2日に忌野清志郎が58歳で亡くなったのでしたね。NHKFMでも追悼番組が流れていたので,彼が去年亡くなったことの記憶は蘇っていましたが,去年の5月5日の朝日新聞朝刊に「ぼくの好きな先生」のモデルになった,高校時代の担任(美術教諭)の小林晴雄さんとのエピソードが載っていました。彼の母親が69年11月の朝日新聞身の上相談に「18になる私の子どもはギターのプロになるのだと申します。私どもには何が何だか分からなくなりました」と相談したほど,彼の進路を心配したのでした。小林先生は母親に「大学に行っても4年遊ぶんだから,4年は好きなことをやらせてあげましょう。」と言って,母親を説得したとのことです。そして,その後のRCの大ヒット。  そんな先生に出会えて幸せだったなあと思います。

僕はRCを特に熱心に聴いていたわけではありませんが,ラジオからしょっちゅう流れていたのを覚えています。情景が鮮やかに浮かんでくる歌詞,独特の歌いまわしがカッコよかった。
約3年間のがんとの闘病生活。まだまだやりたいことが一杯あったと思います。
RCが聴きたくなってきました。

私にとって今一番憎いものは,がんです。

2010年5月2日日曜日

やっと暖かい日曜日でした

ようやく暖かいといえる1日だった札幌ですが,皆さんのところはどうだったでしょうか。
北海道の冬は本当に長すぎます。人口100万人を超える都市で,札幌市のように雪の降るところは世界中にないということです。ということは,そこに180万人も住んでいるということが何か間違っているのかもしれません。僕の子どもの頃,札幌市の標語で「80万都市札幌」というのがあったのを覚えています。小学校低学年の頃だったと記憶していますが,それくらいが適正規模なのかもしれません。まあ,今さらどうしようもないので,これから良い天気が続くことを祈りましょう。

ゴールデンウィークですが,世の中は休みの人ばかりではありません。美容室とか一生懸命仕事をされている方がいることを忘れないようにしたいものです。娘が今行きつけの美容室 f (エフ)でカットしているところです。僕もそこでやってもらっています。

裁判所も休みですが,当直の人は必ず待機しています。例えば,提出期限が5月3日の書類があったとしたら,当直の人に提出して受付印を押してもらいます。3日の午後11時59分までに提出して受付印を貰えば,その日に提出したことになります。刑事事件の控訴趣意書という書面は,提出期限が厳格に定められているので,それを経過してしまうと,控訴自体が認められないことになってしまいます。僕も,何回か,夜の10時半過ぎに裁判所の夜間受付で控訴趣意書を提出したことがあります。ひやひやしたものです。

楽しいゴールデンウィークを!

リー・モーガン「CANDY」(ブルーノート1590)を聴きながら

2010年5月1日土曜日

寒すぎます

北海道のゴールデンウィークを本州より遅く6月にするという案に賛成です。この寒さではどこに行く気にもなりません。29日に北広島市でゴルフのコンペがあったのですが,雨がひどくてハーフで中止。千歳でプレイしていた友人たちは,雷と雹のため同じくハーフで中止になったようです。
いつになったら,春らしくなるのでしょうか。こんなときに連休が続いても意味ないですよね。

久しぶりにアメリカ弁護士ジョークです。

ロレーンとモーリーンの二人は,気球船でアメリカ横断の旅に出ました。ところが,濃い霧で,気球船のコンパスが狂ってしまい,何日もさまようことになってしまいました。突然霧が晴れ,眼下に草原のようなものが見えてきました。気球船を降下させて行くと,犬を散歩させている男がいました。
ロレーンはその男に向かって「ここはどこですか~!?」と叫びました。
男は大声で「町から半マイルくらいだ」と言いました。
気球船は再び霧に包まれました。ロレーンはモーリーンに「あの男,弁護士に違いないわ」
「弁護士ですって?どうして分かるの?」
ロレーンは笑って言いました。
「簡単よ。彼の答えは,正確で精密で,そして,全く役に立たないんだもの。」

ぐさっと来るジョークですね。気をつけなければ。

皆さん,天気に負けず,楽しいGWにしてください。

また

2010年4月24日土曜日

ゴルフ休憩中

一昨年に始めたゴルフ。全く興味なく,友人からの誘いを断り続けていたのが,ある心境の変化から始めてみたのですが,今や,はまっています。人生初めてのスイングは福住にある個人レッスンのスクールでした。一度も空振りがなかったので,レッスンプロの澤村さんに,「一度もやったことないなんて嘘ですよね。」と言わせた逸材であることが判明(大笑)。
去年2年目で95のベストが出て,今年は90切りと意気込んでいたのが,思わぬ障害に会って休憩中です。1ヶ月ほど前から右肘が痛み出し,我慢してやっていたのですが,無理をすると大変なことになると思い,澤村さん紹介のはり・お灸・マッサージのクリニックに通うことにし,今日予定していたラウンドも止めることにしました。原因は右腕1本でボールを打つ練習をやったときに,無理な力が肘にかかってしまって,右肘付近の腱を痛めたためです。レッスンビデオにあったのを自己流でやったのが間違いだったのでしょう。皆さんも,自己流はやめましょう。

ゴルフを自分でやるようになったので,ゴルフ関連の本を読むようになっています。レッスンものは勿論ですが,マスターズの歴史についての本,アメリカの心理学者の書いたゴルフと人生の類似性についての本など,英語で書かれた本を去年ニューヨークに行ったときに買ってきました。英語の勉強も兼ねて,ゴルフの奥深さというものに触れています。最近亡くなったジョン・アップダイクという大好きな作家は,小説の中でゴルフシーンを描くのがとても上手で,彼の小説の中からゴルフ関連の部分を集めたアンソロジーGOLF DREAMSという一冊もお勧めです。

私は性格的に一冊の本を一気に読むということがなかなかできません。ある本を読んでいて,他の本が気になってそっちを少し読み,また他の本が気になってそれも少し読み・・・という読み方で,自分で「並行読書」と言っていますが,現在その数は10冊を越えています。なかなか1冊が終わらないのでイライラすることもありますが。最近の本でほぼ一気に読んだのは1Q84でした。村上春樹はデビューからしばらくは追っかけいたのですが,ワンダーランドあたりから離れてしまっていました。でも,やはり抜群の面白さで,改めて,彼のもの全部を読んでみたいと思っているところです。
本の話,また書きたいと思います。

ゴルフを再開したら,ゴルフ日誌のようなものも書きたいと思います。
では

ジョージ・ハリスン ALL  THINGS  MUST  PASS を聴きながら。
とっても懐かしいアルバムです。若くして亡くなってしまったジョージ。寂しいです。

2010年4月23日金曜日

早起き

おはようございます。今は23日の午前5時半頃です。昨夜は午後9時半頃に寝て,今朝2時過ぎに目が覚めて,自宅で1時間ほど本を読み,ロイとライと町内を一周してから,事務所に出てきました。コーヒーを入れ,デビッド・ジンマン指揮トーンハレ・オーケストラ・チューリッヒによるマーラーの交響曲第3番をかけ,今日提出予定の内容証明郵便の起案をしたところです。ようやく朝4時過ぎになると少し明るくなる季節になってきました。
しかし,午前2時は,以前お酒を飲んでいた頃なら,帰宅する時刻です。それが起床時刻になっています。2年前に禁酒してから,早寝早起きの「おじいさん」ペースになっています。二日酔いの空しさのない,体調も良い毎日で,酒を飲みたいという欲求は全くなくなっています。いいことです。

ところが,昨日,ビールを20ccほど飲んでしまいました。飲酒店を展開している顧問先会社が毎月開いている交流会を兼ねた集まりがあり,いつもはウーロン茶を飲んでいるのですが,昨日はビール銘柄当てクイズ(商品付き)があったので,それに参加したのです。4種類のビール(サッポロ黒ラベル・エビス・麦とホップ・スーパードライ)が,番号だけ付けられたコップに入れられて配られ,それぞれがどのビールかを当てるというものでした。私はそれぞれ5ccくらいずつ口に含み,直感で決めていきました。そして,全問正解! 普段飲まないので,かえって味覚が鋭敏になっていたのかもしれません。クイズの後は,ウーロン茶だけ飲んできました。

人間は勝手なもので,酒を止めると,酔っ払っている人を見て,実に嫌な気分になることがあります。自分もあんな風になっていたのかと思うと,赤面・自己嫌悪です。


1時間半を超えるマーラーの演奏がまだ続いています。
では

2010年4月22日木曜日

アメリカ弁護士ジョーク

弁護士のジャクソンが田舎道をスピードオーバーで走っていて,対向車と正面衝突した。
幸い,ジャクソンも相手も怪我はしなかったが,相手の運転者は事故のショックで震えていたので,ジャクソンはウイスキーのボトルを差し出した。相手はウイスキーをゴクゴクと飲んで,ボトルをジャクソンに返しながら「あなたは飲まないのですか?」と訊いた。
ジャクソン「もちろん。警察が事故処理をして帰ってから飲むよ」

相手が飲酒運転とされたこというまでもありません。


ブログを書きつづけることの難しさを感じています。
今日はとりあえず,ジョークひとつ紹介でご容赦ください。
また

2010年4月9日金曜日

子どものライター事故に思うこと

ライターの安全性についての議論が最近ニュースをにぎわせています。
先日,道内で車内で寝ていた子ども4人が,ライターのいたずらが原因と思われる火災で死亡するという痛ましい事故がありましたが,昨日も本州で子どものライター遊びで事故が発生していました。そこで明らかとなったのは,欧米ではライターが子どもが簡単には着火できない仕組みになっているのに対して,日本ではそのような安全対策が全くされていないということでした。子どもの安全をどうやって守るか,事故の発生をどうやって事前に防止するかに対する意識には,日本と欧米にはもの凄い違いがあります。ライターだけではありません。薬のボトルの蓋がアメリカでは簡単には開けられないように工夫してあります。子どもが誤って薬を飲んでしまわないようにしています。ところが,日本では殆ど見ません。簡単に開けられるボトルです。
一体この違いはどこから来るのでしょうか?

ここで1つエピソードを。私の妻はアメリカ人なのですが,同じアメリカ人の友人とあるスーパーに行ったところ,駐車場に停めてあった車の中で赤ちゃんが泣いているのに気付き,しばらく親が来るか待っていたが,来ないのでスーパーに店内呼出をかけてもらうとともに,警察に連絡したのです。
間もなく,母親がやってきて,警察もやってきました。母親は「何でこのくらいで警察なんか呼ぶの?」と半分怒った様子で,警察もたいした問題とは考えていない様子がアリアリ。

多くの皆さんは,この母親の反応に近いのではないでしょうか。警察を呼ぶのは大げさだ,とか。
アメリカではこの母親は逮捕された可能性が高いでしょうね。本当の話です。日本では,毎年のようにパチンコに夢中になった両親に車内に置き去りにされた子どもが,熱中症で死亡するという事故が起きています。多分,永遠になくならないでしょう。子どものライター事故は,ライターを車内に置いてたあったことがクローズアップされていますが,たとえ自宅前だったとしても(道内の事件は自宅前だったようです),子どもだけを残して大人が車から離れるなんてことはアメリカ人の妻にしてみれば絶対に有り得ないことで,僕も妻と一緒になってからは同じ感覚になっています。例えば,ドライブをしていて,トイレに行く事になったとして,娘が後部座席で眠ってしまっているときは,私か妻かどちらかが車内に残ります。トイレに行くだけだから時間はそんなにかかりません。それでも,絶対に子どもだけを車内に残すことはしません。どんな短時間であっても,何が起こるか分からないのだからどちらかの親は子どものそばにいなければならないと考えます。

児童虐待に対する対応の信じられない不手際も,このような発想が皆無であることに関係があると思います。子どもの命がかかわっているときに,当の虐待している親が「今,子どもは寝ている。大丈夫です」などと言われて「そうですか。」と帰ってくる役人たちの感覚については批判的論調がマスコミに載っていますが,一般人であるわれわれも実は同じ感覚でいるのです。

時間がなくなりました。続きは次回です。

「リンキン・パーク」のライブを聴きながら。

2010年4月7日水曜日

今日は娘の中学校入学式

一人娘の中学校入学式に妻と出席してきました。私の母校でもある中学校に娘が入学。上級生の歓迎の吹奏楽・合唱を聴いていて,ちょっとウルウルとしてしまいました。私の時代は木造校舎でしたが,今は鉄筋コンクリート3階建。これからの中学校生活が楽しいものになるよう心から願っています。同じように入学・卒業・就職などで新しい生活が始まった方がたくさんいると思います。それぞれの道で頑張っていただきたいと思います。
 PTA会長の話がちょっといいなと思いました。ギリシャ神話にチャンスの神様がいる。その神様はすばやくいろいろな場所に移動しているので捕まえるのが大変。また,前髪はふさふさとしているが,後ろがつるっと禿げているので,サッと通り過ぎようとしているチャンスの神様を後ろから捕まえようとしても,髪の毛がないので掴むことができない。この神様を捕まえるには,機敏に一歩前に踏み出して前からその髪の毛を掴まなければならない。皆さんも,チャンスを逃さないように一歩前に踏み出す勇気を持ってください,というものでした。
そして,一度チャンスを逃しても諦めることはない。この神様は何度も行ったり来たりしているので,捕まえる「チャンス」は何度でもあるから。

ではまた

2010年4月1日木曜日

暖かくなりましたね

ようやく暖かくなってきました。今朝は,ロイ(フラットコーテッドレトリーバー4才オス)と自転車で走ってきました。雪・氷がとけて,自転車で散歩(ジョギング)できるようになったので,ロイの運動不足も解消されると思います。結構大きな犬なので,かなりの運動量が必要なのに,冬の間はあまり距離を散歩することができなかったので,運動不足で少しイライラしたところがあったのですが,今朝は時速20キロくらいで20分くらいですが走ったので,帰ってきたら,コテッと横になっていました。

今日は一人娘が中学校に入学手続に行ってきました。私と同じ中学校に行くことになっています。
時間のたつのは早いものです。

春は恋の季節でもありますが,アメリカ弁護士ジョークをご紹介しましょう。

 ケイトが郵便局に行くと,カウンターで中年のさえない格好の男が,ハートのマークの模様がたくさんついている派手なピンクの封筒の山に,次々と「LOVE」という文字のスタンプを押していました。次に男は,封筒全部に香水をふりかけています。一体何をしているのかたまらなく知りたくなったケイトがその男に「それは何のためにしているのですか?」と訊くと,男はこう答えました。
 「1000枚のヴァレンタインカードを送っているんだ。「誰だか分かる?」と書いてね。」
ケイト「何故?」
男「私は離婚専門弁護士なんだよ。」

 カードを受け取った夫たちと妻との間で言い争いが始まり,離婚の話まで進めば,この弁護士のところに事件依頼がくるということになるのでしょう。そんなことを期待しながら,せっせと偽のヴァレンタインカードを送っている弁護士の姿・・・そこまでするか・・・でも,事件を作ってまでして仕事にしようという弁護士のイメージはアメリカでは有り得ない話とはならないのです。

有名な実話ですが,某ハンバーガーショップで紙コップのコーヒーを飲んだ人が,それをこぼしてヤケドをした,紙コップに中のコーヒーが熱いと注意表示がなかったのは安全配慮義務違反だと訴訟を起こして,億単位(金額は不正確です。かなりの額だったことは間違いありません)の賠償金が認められたということがアメリカでありました。今,アメリカのハンバーガーショップの紙コップに,It is hot.というような注意が印刷されていますが,それはこの裁判の影響です。日本では考えられませんね。アメリカでもこの訴訟の結論には驚いた人がたくさんいるようなので,アメリカ人がみんなおかしいというわけではありませんが,このような請求が認められるなら,他のことでもとりあえず訴えてみようなんてことになっても不思議はありません。

日本でも最近は弁護士の数が飛躍的に増えています。東京などでは就職できない新人弁護士がかなりいるようです。事件を作るとまでは行かなくても,今までは事件にはしなかったようなことを,「事件化」するような事態がこの先ないとはいえないでしょう。

シベリウスの交響曲第2番コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団がかかっています。この曲,とても好きです。シベリウスの中では最もポピュラーです。たまに,無性に聴きたくなります。

2010年3月31日水曜日

アメリカの弁護士に対するイメージとは・・・

手元に The Best Lawyer Jokes Ever という本があります。7~8年前にニューヨークのユニオンスクエアにあるバーンズ・アンド・ノーブルという書店(アメリカの大手の書店チェーンです)でバーゲンで4ドル98セントで買った本です。この手の弁護士に関するジョークを集めた本がアメリカの書店には必ずあります。内容は,弁護士がいかにあくどく金儲けを考えているかについて皮肉ったものが殆どです。訴訟社会といわれるアメリカでは,弁護士が高額の報酬を得ていることは紛れもない事実で,それに対する社会的批判も大きいものがあり,このような本もその流れから書かれているものです。ただ,それはアメリカでは弁護士という存在がとても身近なものであることの現れでもあると言えると思います。日本で弁護士に関するジョークを書いたりしても,そもそも弁護士と普段接点がない人が殆どなので,ジョークとして伝わらないということになるでしょう。

この本から,私が読んで面白いと思ったものを紹介してみたいと思っています。気楽に読んでください。
まず,最初にこんな2行の文章が載っています。

 HOW MANY LAWYER JOKES ARE THERE ? 弁護士ジョークっていくつある?
      Only three.  The rest are true stories. たった3つ。あとはみんな本当の話。

 アメリカ人ならこれを聞いてクスクス(ガハハ)と笑うこと間違いありません。
 
と書いたところで,裁判所に行く時間が来てしまいました。
続きはまた

ジミ・ヘンドリックスの新譜 Valleys OF NEPTUNE を聴きながら。ジミヘン恐るべしの凄い演奏です。

2010年3月30日火曜日

蘭越事件無期懲役判決

昨日の判決ですが,裁判長が判決の結論である主文を最初に言わず,理由部分から読み始めたとき,有罪であることが分かりました。無罪であれば,まず最初に結論である「被告人は無罪」を言渡したあと,その理由を述べるはずですから,この時点で有罪であることが分かったのでした。

内容については,新聞やテレビで報道されたので詳しくは触れませんが,日本の刑事裁判では,検察官が被告人の有罪を100パーセント証明する必要はなく,逆に被告人が自分が無罪であることを完璧に証明できなければ有罪になるということが改めてよ~くわかりました。
証拠の評価で有罪にも無罪にもなり得るようなケースで,被告人が犯人だと「推論できる」という理由で,被告人の人生を完全に奪う「無期懲役」という判決を下すことのできる裁判官という人たちは,本当に恐ろしい人たちだと改めて認識しました。

即日控訴となりましたが,国選弁護人である私の役目は昨日で終了です。判決理由を聞きながら,弁護人一同空しさを感じていました。

今日は久しぶりに暖かい1日だったですね。雪も一気に溶けそうです。

次回から,弁護士に関するアメリカのジョークを紹介するシリーズを始めたいと思っています。

ウェス・モンゴメリーのギターをかけながら・・・

2010年3月29日月曜日

蘭越事件判決日

今日の午後3時蘭越事件の判決言渡しです。
裁判所が刑事裁判の原則に従って無罪判決を出すことを期待しています。

この裁判の争点の1つに,現場にあったキオスクの袋内の6個のティッシュのうち1個から被告人の精液だけが鑑定されたことがあります。被告人は現場には一度も行ったことがないのですが,出会系サイトで知り合った女性が本件犯行日の2週間くらい前に現場に被告人と行って,そこで被告人と性的関係を持ったと証言しています。女性の話が本当であれば,ティッシュのうち2個には被告人の精液と女性の唾液がついているはずなのに,1個から被告人の精液だけが鑑定できたというのです。その理由として,検察はキオスクの袋が発見されたときの現場検証中に雨が降り,キオスクの袋の中にも雨水が入ってティッシュがずぶぬれになってしまい,唾液などが薄まったり流れたので1個から被告人の精液だけが検出されたのは不自然ではない,と言っているのですが,ティッシュが濡れてしまったのは警察の捜査ミスなのです。発見されたキオスクの袋は取っ手の部分がしっかりと結ばれていて密封状態だったのを,現場で警察官が結びを解いて,口を開けたまま地上に置いていたために雨が入って濡れてしまったので,これは明らかに警察のミスです。それを理由に自分たちに有利な主張をするのですが,皆さんこれについてどう思いますか?これがアメリカの裁判だったら,捜査側のミスで鑑定できなくなった可能性があるのであれば,そんなものは証拠として認められないことになるはずです。ところが日本ではそんな発想は出てきません。

裁判員裁判だったら,蘭越事件にはどんな判決がなされるでしょうか。
判決については,また報告したいと思います。

2010年3月28日日曜日

雑談

昨日の朝6時過ぎ,ロイとライ(我が家の2匹の犬たち)と北大キャンパスを散歩してきました。自宅から近いので,事務所が休みの週末はちょっと長めの散歩をすることが多く,北大キャンパスは絶好の散歩コースです。冬に逆戻りした真っ白なキャンパスは,ジョギングしている人も数人いました。私も,犬たちと一緒に150メートルくらい走ったら疲れました。
農学部の建物が見えたとき,中学2年生頃の記憶が突然蘇ってきました。建物のテッペンは昔は鐘楼として使われたいたはずですが,その中の壁に私の落書きがあることを思い出したのです。その頃は,建物の管理も今と比べると極めてゆるやかだったのでしょう,一番上まで建物内を上がっていくことが簡単にできたのでした。壁には,当時好きだった女の子との相合傘がいくつも書いてあるはずです(多分まだ残っているのではないかと思いますが。北大農学部の方で確認できる方いたら一報ください)。今では,中学生が中に入ってウロウロするなんて絶対に許されないでしょうし,一番上まで上ることは施錠などされていて不可能でしょう。昔はじつにおおらかでした。中学3年頃ですが,北大キャンパスに捨ててあったオートバイを直結でエンジンをかけて友人と3人乗りで走り回り,最後は大きな音でパンクしたなんていう楽しい思い出もありますが,今では考えられないでしょうね。北大の大きな建物がたくさん増えて,昔とはすっかりその姿を変えてしまいましたが,クラーク会館前の中央ローンはほとんど変わっていません。高校生のとき中央ローンの芝生に寝転んで,「異邦人」とか大江健三郎を読んだりしたのが懐かしいですね。ちなみに,私は昭和31年(1956)生まれですから,40年くらい前の話です。

昔話をしてもつまらないですね。
明日は蘭越事件の判決です。今日の毎日新聞朝刊にかなり大きく記事が載っていました。
判決は午後3時言渡しです。

2010年3月24日水曜日

最近の新聞記事で気になったこと

先日の朝日新聞に,日系ブラジル人の子どもが,不景気を理由に解雇となった親と一緒にブラジルに戻ることになったが,日本語もポルトガル語もどちらも中途半端な状態になっていて,ブラジルに戻っても学校の勉強についていけるかとても不安になっているという記事が載っていました。
とてもかわいそうな状況にある同じ問題を抱えた子どもたちがたくさんいるようです。その記事の中に,日本の学校に行ったが,一人も友だちができなかったということが書いてありました。日本に来ている外国人で同じような思いをしている人はたくさんいると思います。日本社会の冷たさについて考えさせられました。日本人は儀式が好きな人たちだと思います。または,何か名目があると協力したりして「暖かい善意」が集まるのです。でも,日常レベルで外国人と友だちになったり,話をしたりということは殆どしない人たちです。
自分のことを棚に上げて書いているような気がしていますが,それを自覚したうえで,日本社会・日本人の冷たさを感じることがあります。
北欧から来ている女性がうつになったとき,それまでとても親しく会ったりしていた日本人たちが,殆ど声をかけてこなくなり,孤独に苛まれて,日本で一生を終えようと思っていた気持ちが全くなくなったという話を聞いたことがあります。

雑談

二匹の犬が我が家にいます。ライ(ビーグル・メス)とロイ(フラットコーテッドレトリーバー・オス)のどちらも4歳。最初,生後3ヶ月のライをペットショップで見つけ,一匹だけという約束がその2ヵ月後にあっけなく破られ,ロイがやってきたのでした。実は,僕は犬が苦手。8歳頃,近所の犬に右フクラハギに噛みつかれて6針くらい縫うという経験があるため。ライが来て,ケージを買うためにペットショップに行ったら,妻が子犬のロイに一目ぼれしたとかで,丁度,ジンギスカンとビールでほろ酔い状態だった僕は,「もう一匹買ってもいい?世話は私がするから」という言葉につい「いいよ」と答えてしまったのでした。

今朝は6時頃から30分くらい2匹と散歩。朝の散歩は僕の役目です。
雪解けとともに,冬中に捨てられたいろいろなものが現れてきて,ライとロイは「クンクン」と鼻を鳴らしてなかなか動きません。雪に隠れて見えないと思って,どれだけのゴミが捨てられているか,この季節になるといつも呆れています。

蘭越事件の判決が来週月曜日に迫ってきました。昨日は朝日新聞の記者が主任弁護人のところに取材に来たようです。どんな判決が出るにせよ,マスコミで大々的に報道されるでしょう。

事務所でマイルス・デイヴィスの1981年5月6日のセッションを聴きながら書いています。
また

2010年3月19日金曜日

刑事裁判の原則について

蘭越事件の話題が続いていますが,私は刑事事件専門の弁護士ではありません。日常的には民亊事件を主に取り扱っています。ただ,ときどき刑事事件を手がけるわけです。
刑事事件においては,検察官が被告人の有罪を完全に立証しなければならないというのが大原則です。これに対して,被告人側は無罪であることを証明する必要はありません。検察官の証拠では有罪が100パーセントは証明できないことを明らかにできれば,無罪となるのが原則です。ですから,被告人は起訴された犯罪行為を「やっていないこと」を証明する必要はなく,検察官の証拠では「やっていることが100パーセント証明できていないこと」を立証できればいいのです。
ちょっと分かりづらいでしょうか。この点で私がよく例に出すのは,アメリカでの著名な事件「OJシンプソン事件」です。元アメリカンフットボールのスター選手で,俳優にもなっていたシンプソンが元妻とその知り合いの男性を殺したということで起訴されたのですが,陪審裁判で無罪となり,世界中に衝撃が走ったのでした(この衝撃を記憶している方,どのくらいいるのだろうか・・・)。
ところが,遺族がシンプソンを相手に起こした民亊裁判では,シンプソンが殺人を犯したことが認定されて,莫大な損害賠償責任を負わされたのです。何故刑事と民亊とで結論が異なるのか,真実は1つではないかと思われるでしょう。ここに刑事と民亊の違いがあります。刑事裁判では,検察官が100パーセント被告人の有罪を証明しなければならないのに対し,民亊裁判では訴える側は被告がやったということを理論的には51パーセント証明できれば,勝訴となるのです。

と,ここまで書いて,所用のため中断して,続きはまた(すみません)

今日は娘の小学校の卒業式でした。卒業証書を校長から渡される前にマイクの前で今後の夢や希望を一言述べるというのを見て,自分の32年前の卒業式とは違うなあと思いました。

2010年3月18日木曜日

蘭越事件その後2

投稿してくれた方がいて,このブログを読んでくれている人が少なくとも二人(一人の方は投稿はしないけど読んでくれています)いるということが分かって少し安心しました。昔の演歌で読んではくれないと知りながら手紙を書いてる心情を歌ったのがありましたが,ちょっとそんな気分になっていたところでした。

蘭越事件の報道の論調がちょっと変わったと思った方はいないでしょうか?弁護側の弁論までは,完全に被告人は有罪だという論調でしたが,我々の主張・立証によって,検察官のストーリーが必ずしも完全ではなく,むしろ,穴がいくつもあることにマスコミも気がついたのではないかと思います。再弁論のあと,エレベーターを待っていた我々のところにある大手新聞社の記者が近づいてきて,「無罪判決がでたときには,被告人本人も同席して記者会見してもらえますか」と言ってきたのです。以前であれば,こんな発言がマスコミから出てくることは考えられません。法廷傍聴をしていて,マスコミの記者たちも証拠で被告人の有罪が完全に立証できるかについて疑問を感じているのだと思います。

問題は裁判所が刑事裁判の原則「疑わしきは被告人の利益に」にきちんと従って判断をするか否かです。

3月29日の判決に注目してください。


全く話は変わりますが,この冬に逆戻りしたような天気は何でしょうか。苫小牧方面に雪が降らないことを祈る日々です。この意味分かるでしょうか。分かりますよね(笑)

2010年3月17日水曜日

蘭越事件その後

昨日,蘭越事件の弁護側弁論が終了しました。
①犯行時刻が午後9時07分頃というのが検察の主張だが,9時48分に寿都に帰る途中にある居    川商店に被告人が着くことは不可能であること(居川商店で被告人がタバコを買ったことは自動販売機の記録で判明しています)。警察の走行実験では,犯行現場からは1時間以上かかるので,被告人が犯人であれば,9時48分に居川商店にはたどり着けない,つまり,被告人は犯人ではない。
②犯行現場にあった,ティッシュに被告人と関係したとされる女性の唾液が全く検出されないこと,被告人の精液が1つのティッシュの塊にしか検出されないことについての検察の説明は科学的にありえない事
などを主張しました。
判決は予定通り今月29日午後3時です。無罪判決を期待しています。
しかし,検察の立証は全く不十分だと思います。それを何とか救えないかと裁判官たちが考えて弁論を再開して証拠調べをしたのですが(私たちはそう考えていますが,裁判官はそんなことは認めません),果たして,検察官の立証は補充されたのか,大いに疑問です。
弁論は25分くらいかかりましたが,私が読み上げました。他の弁護人から「先生の渋い低音でやってもらったほうが説得力がある」などとおだてられてしまい,拒否する理由もないのでやりました。
カラオケで声がいいと言われたことはありますが(笑),弁論について言われるとは・・・
疲れました。

2010年3月15日月曜日

日本の刑事裁判はおかしい

蘭越事件(平成19年9月に発生した強盗殺人・強盗殺人未遂事件)の弁護人を他の2人の弁護士と担当しています。ニュースで知っている方も多いと思います(ちなみに,法廷の映像で,右側の弁護人席の一番手前に座っているのが私です。)。

検察官の論告・求刑(無期懲役)と弁護側の最終弁論が今月3日に終わり,あとは29日の判決ということになっていたのに,突然,裁判所が裁判を再開すると決めました。いくつか論点があるのですが,犯罪現場に落ちていたキオスクの袋の中に入っていたティッシュ(6個の塊)のうち,1個だけから被告人の精液の存在が確認できたことについて,警察の鑑定をした技術者を証人として法廷で尋問することになっています(今日の午後3時から。札幌地方裁判所の8階の法廷です。誰でも傍聴できます)。被告人と性的関係を持ったと証言している女性がいて,それによれば,少なくとも3個のティッシュに被告人の精液と女性の唾液が付着しているはずなのに,1個だけに,しかも女性の唾液は確認できないというのは有り得ない,つまり,警察による何らかの証拠捏造があったと考えられるというのが弁護側の主張。これに対して,検察官は,キオスクの袋が発見されたとき,雨が降ってティッシュが濡れたので,1個にしか確認できなかったのは何らおかしくない,と言っています。雨で濡れたから確認できなくなるなんてあり得ると思いますか?
今日の証人は警察側の人間ですから,当然,検察に有利なことを言うに決まってきます。私たちは,法医学の文献を何冊も調べ,例えば,唾液は1万倍に希釈されても確認できるということを見つけたので,もし証人がこれと違うことを言ったら,徹底的に突っ込むつもりでいます。

問題は,裁判所が,検察の立証の不十分なところを助けるために,今回のように裁判を再開して更に検察側に証明をさせるということがあるということです。私は,この事件と同じ裁判官たちに,検察官の不十分な証拠を補助するようなことをされて,無罪を主張していた事件で有罪とされた経験があります。

日本の刑事裁判には,二人の検察官がいるようなことがあります。本当の検察官と裁判官という名前の実質的検察官です。

さて,午後の裁判,どんな展開になるか。
のちほど報告します。

2010年3月14日日曜日

ゴルフシーズン間近

ブログが出来たにもかかわらず,まだ2しか書いていないとは・・・まめにかかないと意味ないと妻に叱られました。
今回は一昨年始めたゴルフについて。
ずっと誘われながら断っていたゴルフにおととし手をつけ,それ以来はまってしまいました。
自己流はだめだと思い,また,始めるのが52歳からになり運動能力が衰えていると思い,プロのレッスンを受けることにして,福住にあるマンツーマンのレッスンを受けることにしたのが,おととしの2月。それから1週間に1回くらいのレッスンを受け,6月に初コース。ラウンドレッスンで,プロと一緒に回って,無我夢中で回ったという感じでした。スコアは散々でしたが,ショートコースで初ボギー。
2回目と3回目のラウンドは,アメリカのニューハンプシャー州とバーモント州のとっても綺麗なコース。家族でアメリカに行っていて,友人のクラブを借りて回り,126くらいで回りました。
去年は,念願の100を切り,ベストが95。そして今年は90切りを目指してシーズン開幕を楽しみに待っているところ。ゴルフがこんなに面白いのなら,もっと早くに始めたかったと思っても仕方ないので,これからできるだとたくさんやりたいと思っています。
一緒に回れる人いたら,お知らせください。
ラウンドしながら,法律相談もやります・・・

2010年1月22日金曜日

ささっぱらが亡くなりました

20日の道新朝刊の訃報記事に,元STV専務だった笹原氏の訃報が載っていました。
ショックでした。僕が中学2年生だった1970年当時,笹原氏はラジオのアタックヤングのパーソナリティをやっており,僕は毎晩聞いていましたが,ササッパラの愛称で親しまれていた笹原氏の放送には毎週リクエスのはがきを送り,「北辰のワールドボーイ」のペンネーム(今はラジオネームというようですが)で毎回僕のはがきが読まれ,また,短いコントのようなものも読まれたりして,大好きな番組でした。そして,ササッパラに会いたくて,STVまで会いに行ったのです。その当時のSTV社屋は北1条西2丁目にありました。どのように面会を申し込んだのが忘れましたが,スタジオでササッパラに会う事ができました。「君が北辰のワールドボーイなんだ。君がいないと僕の番組なりたたないんだよね」なんてお世辞を言われ,大感激。机の上に当時出たばかりの,CCRのシングル(確か,雨をみたかい)のドーナツ盤が置いてあったのを覚えています。
僕と同じように,ササッパラのファンだった方もたくさんいるのではないかと思います。
心からご冥福を祈りたいと思います。