2011年6月29日水曜日

訂正 その他

先程のブログで「温かさ」を感じるのは「アメリカ人の方が」で,「日本人と」は削除します。
読み返したのですが,他にも誤植があったりして,もしこういう形で裁判所の準備書面を提出したら恥ずかしいですね(何度かそんな経験あります)。

彩が担任に「食事は誰が作っているの?」ときかれたそうで,彩は「父です。でも最近同じメニューが続いていて正直飽きてきてます」と答えたと聞かされました。
早速,ネットで簡単レシピを検索して「厚揚げとキャベツの生姜みりん醤油炒め」というものを昨日の夕食に作りました。レシピにはないピーマンとしめじを加えて。好評でした。「やればできるんだね。」と言われました・・・

食材の買い物は,自宅近くの生協ですることが多く,組合員になってポイントが溜まって500円券が発行されるとちょっと嬉しくなったり,「主夫」生活です。帰り道,こうやってキンバリーのいない自宅に買い物をして帰るという生活がこれからもずっと続くのかと思うと,やるせなくなることがあります。

繰り返し,ブランデンブルグ協奏曲を聴きながら(バッハはやっぱりいいです)

友人 friend と 知人 acquaintance

今朝の朝食時の彩との会話でした。
彩 「学校で,お父さんとけんかしちゃった,たいした理由はないんだけど,最近いろいろあっていら   
 ついてたからかな・・・というようなこと彩は友達につい話しちゃう。」
私 「でも,友達はそういう話しないだろ?」
彩 「うん,日本にはそういう習慣ないからね」

彩が「習慣」という言葉を使ったのは,自分の知っているアメリカの家族の普段の会話や学校での友達との会話が日本とはかなり違うということを知ってのことでした。アメリカでは,友達どうしでお互いの家族のことを,何のことはない日常であったことなどを気軽に話したりするのは普通のことですが,日本ではそういう「習慣」はあまりありません。

会話は続きました。
私 「よく欧米は個人主義で日本は集団主義っていうけど,どう思う?」
彩 「要するに世間というか社会の中では日本は集団主義で,個人的をことになると秘密主義って  
 いうか・・・」
私 「アメリカだと,ある程度親しくなると,お互いの家庭のこととかかなり何でも話すようになるけ 
 ど,日本は「プライベート」なことには立ち入らないなんて感じで,表面的なつきあいで終わってい  
 ることが多いよね。」
彩 「ちょっと極端な話だけど,クラスメートに父親がいるのかどうかも知らないからね。でもそういう 
 社会なんだから仕方ないんじゃない・・・」


今回のタイトルは,このことと関係があります。
キンバリーは「札幌にはacquaintanceはいるけどfriendはいない」と言っていたことがありました。
「友達」という言葉の持つ意味,深さというものが日本とアメリカとではずいぶん違うと違うと感じます。日本で「友達」と言っても,アメリカ的にはacquaintance というべき関係が多いと感じます。
キンバリーは,乳ガンと向き合う生活の中で,そんな風に感じて,寂しくなってアメリカに帰りたいと思うようになっていたのでした。
こう書いてしまうと,キンバリーを慕っていた人たちの気持ちを害することになるかもしれませんが・・・

大分前のブログで日本はテレパシー社会だと書いたことがあります。それと同じことです。
「プライバシー」の意味が日本とアメリカでは全く違うと思います。学校でクラスメートの自宅の電話番号を外部に知られないように秘密にするために,クラスメート同士でも分からないようにするのが日本の「プライバシー」です。

こんなたとえはどうでしょうか。
それぞれの人間がもっている個人的な世界が「プライバシー」という名前の球体としてあるとします。その中身は自分の名前・生年月日・職業・趣味・世界観その他たくさんのものが入っています。
球体の表面から中心の核に向かって,まず名前などのどちからというと表面的なプライバシーから始まり,中心に向かって,だんだんとその人の尊厳(ちょっと難しいですが,絶対に人には譲れない侵すことを許さないその人の本質的なものとでもいいますか)という核に向かってその内容が濃くなっていきます。「プライバシー」といってもいくつもの「レベル」があります。

日本の「プライバシー」はこの表面が境界線のようなものです。そこを超えて立ち入ると「プライバシー侵害」です(あえて極端に言います)
(僕の知っている限りでの)アメリカでは当然のことながら表面を超えてかなり深いところまで立ち入ることになっても「プライバシー」を侵害したとは受け取られません。残念ながら,日本人とアメリカ人の方が,知り合って間もない段階でも「温かさ」を感じることが少なくありません。それは「プライバシー」というものに対する考え方が全く違うからではないかと思っています。

「文化の違い」という声が聞こえてくるような気がしますが,そういう紋切り型の常套句ではすまないものがあると僕は思っています。

ジェームズ・テイラーやキャロル・キングの歌にyou’ve got a friend  という名曲があります。
「君の友達」と日本の題名がついていますが,ここで歌われている friend という言葉の持つ意味は,日本人が普通に考えている「友達」とは相当にその意味が異なっていると思います。

バッハ・ブランデンブルグ協奏曲を聴きながら

2011年6月24日金曜日

アメリカの弁護士ジョーク 

牧師・医師・弁護士がゴルフ場でラウンドをしていました。
前の組の進行速度が非常に遅いので,ゴルフ場支配人に「どういう人がプレーしているのか」と訊きました。
支配人「チャリティコンペで目の見えない方々がプレーしています。」
それを聞いて
牧師「あの方々の目が見えるようになるように神にお祈りしましょう。」
医師「視力回復の名医を紹介して,目が見えるようにしてあげたい。」

弁護士「目が見えないのなら,夜にやってもらいたいもんだ。」


本当にアメリカの弁護士ってひどい人間ですね(笑)。
日本人にはピンと来ないですが。

ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」が原書で115頁まで進んできました。700頁以上あるのでまだ7分の1です。6月16日がしばらく続きそうです。

友人のダイアンが,カセットテープ時代のビデオカメラで撮った家族のビデオなどをDVD化する作業をやってくれています。15本を彼女に預けて,少しずつやってもらっていて,この前5枚のDVDをもらいました。
でも,まだ中身を見ることができません。心の準備ができていません。

jim o’rourke    insignificance ped-23192 を聴きながら

2011年6月20日月曜日

時間

16日のキンバリーの命日が過ぎました。
よく時間が悲しみを癒してくれるといいますが,1年たった今,彼女のいないことの喪失感,そこから来る無力感は大きくなるばかりです。
1年がたって,「本当にキンバリーはもう帰ってこないんだな。もう逢えない,声も聞けないんだ。それがこれから死ぬまで続くんだ・・・」という「実感」とでもいうものが大きくなって,悲しみは癒えるどころか,大きく深くなってきています。

一人で抱えていくしかないことは分かっているつもりですが,I don’t know what to do.という状態です。

2011年6月14日火曜日

Synchronicity

ポリスのアルバムタイトルと同じですが,「共時性」というか,去年の今日と心理的に似たような状態になっているのかもしれません。静かにキンバリーを見守っているような心理状態になっています。

12日の朝には目が開かなくなり,問いかけに対して頷いたりしていたキンバリーは,午後からその反応も全くなくなり,ひたすら眠っているような状態が続きました。
僕たちにできることは,彼女のそばにいて,ずっと語りかけること,汗を拭いてあげること,キンバリーの好きだった音楽をかけてあげること・・・そして,定期的に口からモルヒネを入れてあげること。

12日(土) 彩に「お母さんに聞かせてあげたいCDを何か買ってきてくれる」と頼みました。クラシックの小曲を集めたものを買ってきました。それをかけてびっくりしました。1曲目はパッヘルベルのカノンでした。1996年1月20日の結婚式のときキンバリーの入場のときに演奏された曲でした。
彩が選んだCDの1曲目にこの曲が入っていることに何かを感じました。

16日の午前2時44分まで,キンバリーとの静かな時間が続きました。

彩は最後までキンバリーは少し調子が悪くて眠っているけれど,いつか目が覚めると思っていました。キンバリーが最後に2回大きく息をして,そして静かに逝ってしまったとき,彩もすぐそばにいました。それがどういうことなのか,そのときも,そしてそのあともよく分からないような精神状態にいました。それが,どんなに辛いことなのか,今もその辛さと悲しさが彩を苦しめています。
父親として何がいえるのか,できるのか,正直分かりません。

2011年6月11日土曜日

2010年6月11日

とうとう11日になってしまいました。
10日の午後,懸念していた発作の痙攣がありました。時間にすると1分もなかったと思いますが,白目をむくようになって身体が動かなくなるということが,ベッドの上で起きました。それを見たときのショックと非現実感の混じった感覚は忘れられません。
それでも10日は一緒に歩くこともできました。

そして11日。昼ころ,キンバリーは何とか一人でトイレに行こうとしました。僕が支えてトイレに入ったところで発作が起きました。床に崩れ落ちて(僕が支えていたのでゆっくりと静かに倒れ込むという感じでした),前日より長く2分くらいじっと動かなくなりました。義妹がスポイトで発作を抑える薬をキンバリーの口から流し込みました。気がついたキンバリーをベッドに運びました。
発作が起きたことを本人は全く覚えていません。
本人に伝えることを決意して,僕が伝えました。半信半疑な表情のキンバリー。

キンバリーのように脳髄膜炎となった場合に,どのような治療するかしないのかの考えは日本とアメリカで全く異なります。アメリカに来てから,ホスピスから医者や看護士が来てくれていました。キンバリーのように保険に入っていない場合に,無料で派遣してくれる組織があって,そこから来てくれたのでした。さすがアメリカだなあと思いました。
しかし,栄養の点滴や脱水症状防止の生理食塩水の点滴など日本なら最低限するはずのことがアメリカでは一切されないのでした。どうしても納得できなくて,僕と議論になりました。
11日,どうしても点滴をしてくれと主張して,生理食塩水の点滴だけはするということになりました。
病院に行き,午後4時過ぎから点滴になりました。車イスで病院内を移動するとき顔なじみの看護士と笑いながらあいさつするキンバリー。自分がどんな状態にあるのか十分知りながら,明るさを全く失わずにいたキンバリー。

10日と11日の2回,二人きりでいるときキンバリーは「猛,死ぬのは何にも怖くないよ。なんにも後悔していないよ」と言っていました。

点滴が終わり,アイスクリームを食べようということになり,何度も行ったことのある「ベンアンドジェリー」に行くことにしました。いろいろな店が道路沿いに並んでいる商店街で,車を停めたのは,小さなスポーツ店の前でした。キンバリーが「猛,そこでゴルフのクラブを買って練習したらいいんじゃない。店の人に聞いたら誰か一緒にゴルフできる人見つかると思うよ。」と言ってくれました。「キンバリーがよくなったらそうするね」と言いながら車を降り,車椅子の彼女をおしてベンアンドジェリーに入りました。自分で車椅子を動かしながら,アイスクリームを選んでいたキンバリー。彩・義妹のスーそしてキンバリーがアイスクリームを手に持ってポーズをとっているところを携帯で撮影しました。それが亡くなる前の最後のキンバリーの写真になりました。

店を出て,20メートルくらい先の車に戻る途中,美容室から男性が出てきました。昔から知っている美容師の男性でした。キンバリーと久しぶりらしく,言葉を交わして,ハグをして・・・

家に戻り,ベッドに入ったキンバリー。

そして翌朝には目が開かなくなっていたのでした。


ベートーヴェンの最後のピアノソナタ 作品110  Piotr Anderszewski(ピアノ)を聴きながら

2011年6月10日金曜日

フラッシュバック

去年の今日のキンバリーが写ったビデオがアイフォンにいくつか残っています。
妹のスーの運転する車の助手席に座っているキンバリー,彩が英語の本を朗読するのをじっと聞いているキンバリー,スーの家の庭を僕と一緒にゆっくり散歩したあとベンチに座って,僕に「リサに電話したい。」と言っているキンバリー,彩に手の爪を赤くネイリングしてもらっているキンバリー,
そしてそのあとに残っているのは,意識がなくなって昏睡状態となった12日の翌日の13日のキンバリー・・・

アメリカとは13時間の時差があるので,今はまだ真夜中です。アメリカに着いてから,キンバリーのそばにずっといて,ほとんど睡眠を取らなかった,取れなかったことを思い出します。

10日の朝は,僕が作った卵オジヤと味噌汁をキンバリーは食べてくれました。「美味しい」と言って食べてくれました。だんだんと食べることができなくなっていたので,食べてくれてとても嬉しかった。
昼に母親が野菜と豆腐を炒めたものを作り,キンバリーは美味しそうに食べていましたが,僕と最後の散歩をしたときに,庭の隅に吐いてしまいました。油を使ったものはだめだったのだと思います。何か食べないと体力が落ちると思い,うどんを茹でたら,これは美味しいと食べてくれました。

あの日のことがまるで昨日のことのようによみがえってきます。キンバリーを感じます。
でも次の瞬間,そこにはいないことを思い知って,自分のまわりがなんだかぼやけたように感じます。

2011年6月8日水曜日

白寿のお祝い

昨日,僕が入っているある会の例会が札幌のホテルでありました。
会長の白寿をお祝いするのが主目的の例会でした。99歳の会長が元気な姿で(しっかりと歩くことができます),スピーチと歌を披露される姿には感動しました。会長は亡くなった森繁久弥さんと同年齢で仲のよい友人同士でもあって,「知床旅情」の元になった歌を3番の歌詞まで澱みなく,音程もしっかりと歌いきりました。凄い方です。

本物の芸者さん二人,三味線・唄による舞踊があり,ソプラノ・バリトンのオペラアリアがあり,とても楽しい時間でした。
通常の例会は男性会員だけですが,昨日は夫婦同伴の日として7~8人の奥様たちも出席していて,彼女たちに囲まれて写真を撮ったり,歌を唄ってもらったりと,会長はご機嫌でした。
会長の奥様も94歳で,元気な姿を見せていただきました。

会員の方は僕よりずっと年配の人生の大先輩が多いのですが,昨日は僕と同年代やもっと若い方が新会員となって,40年以上続いているこの会のこれからの発展も楽しみなところでした。
2次会で行ったスナックでコーラを飲みながら,幹事長のリクエストに答えて3曲歌ってきましたが,隣に座った,今まで話をしたことのなかった68歳になる方が,「大変なことがありましたね」と声をかけてくれました。そして「私も28歳のとき,結婚して3年の妻を亡くしました。それから3年くらいはとても辛い日々でした。」「時間がきっと癒してくれます。」と言ってくれました。

奥様たちを見ていて,ちょっと悲しくなりました。
キンバリーもこの会の毎年2月の夫婦同伴の例会に2回参加したことがあり,会場の奥様たちを見ながら,「キンバリーがいたら一緒に楽しめるのに。もうこんな機会をもつことはできないのだな。」と思って悲しくなりました。キンバリーも,暖かく声をかけてくれるこの会のことは大好きでした。

それと対照的なのは,高校の同窓会でした。僕の出身校では毎年8月に同窓会を大々的にやるのですが,一度キンバリーと一緒に出席したものの,二度と行きたいとは言いませんでした。
一般的に日本の同窓会というものは,そこの出身者だけが参加して行われていて,実に閉鎖的な自己満足的催しになっていると思います。僕も今後は出席する気持ちはありません。
日本にもそんな閉鎖的なものではない同窓会もあるのでしょうが。

キンバリーの卒業した高校(コネチカット州の私立の高校)から,今も同窓会誌が送られてきます。
彼女が亡くなったことの連絡をまだしていないので,定期的にアメリカから郵送されてきます。卒業生の家族の近況や,学校の様子,そして家族が出席した同窓会のニュースなどが載っています。
日本と本当に違うなあ,いいなあ...と思います。いつか家族で出席したいねと言いながら,できないままになってしまいました。

グリーグ  抒情小曲集 エミール・ギレリス(p) を聴きながら

2011年6月7日火曜日

最後のプール~6分14秒

アイフォンのビデオに,去年の6月7日午後4時13分から撮影した6分14秒の映像が残っています。義妹の家のプールに腿のあたりまで入って,腕を組んで少し寒そうにしている姿から,ちらっと僕の方を見て,(水が冷たいため)まだ入るのに躊躇している姿があって,そして意を決したように水に入って平泳ぎでプールの端まで行き,帰りはクロールで。そんな風に泳ぐ姿が5分以上残っています。意識がなくなる12日の朝までわずか4日くらいしかありません。こんなに泳げるほどだったキンバリーが翌日から足が動きづらくなり,10日に小さな,そして11日には大きな痙攣が来てしまい,12日からは昏睡状態になったのでした。

プールの中で僕を見ながら「you’re busy」 と言っています。左手にアイフォン,右手に携帯を持って写真を撮っている僕を見て,そう言っています。日本の友人たちにキンバリーが元気に泳いでいる姿を見せてあげたくて,メール送信機能は携帯だけ使えたので,両手に持って彼女を写していたのでした。中学校時代には水泳部に入っていたほどキンバリーは泳ぎが得意でした。本人はこれが最後の泳ぎになるなどとは思っていなかったと思います。脳に転移したと知っても,そんな簡単には死なないと信じていました。いや,最後まで信じたかったのだと思います。
今,ビデオを見て,泣いてしまいました。

札幌にいて,ちょっと辛いのは,あのアメリカでのキンバリーとの日々を少しでも知っている人が回りには誰もいないことです。一緒に看病したり,彼女との時間を共有した人が誰もいません。あの日々については自分の中で反芻するしかないのが,辛いです。彩は,最後までキンバリーは死んだりしないと信じていました。彩とあの日々の話をすることはできません。

五嶋みどりのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いています。(ベルリン・フィル 指揮マリス・ヤンソンス)

キンバリーと一緒にキタラで彼女の素晴らしい演奏を聴いたのが懐かしい。
今月17日にキタラでの演奏会があります。行く予定です。私が弁護士になって2年間お世話になった事務所のI先生が誘ってくれました。嬉しいお誘いでした。キンバリーの命日の翌日です。
I先生は,キンバリーが亡くなる前の年に円山で偶然会ったときに声をかけてくれ,帰ってきたキンバリーから「嬉しかった」と聞いていました。声をかけるということが,どんなに慰めや勇気を与えるかということを,キンバリーとの時間の中で知らされました。










函館の依頼人の女性から,思いやりのこもった暖かいメールをいただきました。ありがとうございます。

2011年6月2日木曜日

2010年6月2日ニューヨーク

去年の6月1日午後にロスアンジェルス空港に着きました。マイレージのアップグレードが使えたので,ビジネスクラスでゆったり行くことができました。キンバリーは右隣に座った黒人男性と「どこに行くのですか?」とか,楽しそうに話をしていました。これが最後のアメリカへの旅になるかもしれなと思っていたと思います。それでも,母親や妹に逢えることがとても嬉しかったのでしょう,頭痛もなくなり(点滴の効果があるということは,脳に転移していることの証明なのですが),家族で旅行に行くときのような気持ちにもなっていたのだと思います。医師に余命が最悪で2週間と宣告されているような人の姿ではありませんでした。

ロスで大学時代の友人シンディと会って,食事をして彼女の家に行き,お茶をごちそうになって,夜10時半頃の飛行機でニューヨークに向いました。
JFKに着いたのは2日の朝7時頃。母親・妹のスー・親友のリサが迎えに来てくれました。スーの家までは約2時間。助手席に座ったキンバリーが僕が撮影していたビデオに向かって「ハーイ」と言って笑っている姿が残っています。

一旦,スーの家に行き,少し休んでから,ガンセンターに行き,アメリカの主治医であるシーゲル医師に会いました。日本と同じく,最悪で2週間と言われました。治療方法についての話で,頭蓋骨に穴を開けて抗ガン剤のような治療薬を腫瘍部分に注入する方法があると図解して説明されましたが,そうするともう飛行機には乗れないと言われ,キンバリーは即座に「それはだめ。」と答えました。日本に帰ることができなくなるような治療はしたくないのでした。

それからの日々。まだプールで泳ぐこともできたキンバリー。

何だか音楽を聴く気持ちになれません・・・

2011年6月1日水曜日

今日からアメリカです

といってもアメリカに行くというわけではありません。
去年の今日6月1日妻と娘と3人でアメリカ コネチカット州ウェストハートフォードの妻の実家に向けて最後の旅に出発したのですが,これからの毎日は僕の心はあの日16日までアメリカに行っているような感じなのでこんなタイトルになりました。

5月28日に脳転移が確定診断され,脳内圧を下げる点滴を始めると,動けないほどの頭痛が嘘のように消えてとても喜んでいたキンバリー。病院に来てくれたたくさんの友人たちとの時間を過ごし,31日の夕方に外出許可をもらって自宅に荷造りに帰ってきました。本当は,アメリカから母親と妹が札幌に来るということになったのですが,義妹のパスポートが失効していることが分かり,こちらからアメリカに行くことになったのです。頭痛があまりに酷くて,とても飛行機に乗ることなどできない状態だったのが,点滴が効果をあげたので,急遽,飛行機の手配をして1日に出発することになったのでした。医者は反対でしたが,アメリカの家族に会いたい気持ちは強く,自分で点滴をしながら行くことになったのです。妻の胸部には点滴のためのポートが埋め込まれていたので,自分で点滴することができるとういことで,看護士にその手順を教えてもらって,メモもしてもらい出発したのでした。

朝の6時頃,病院の前を私の弟の運転する車で出発しました。友人たちが12~3人見送りに来てくれました。
成田空港までの直行便に乗れないというアクシデントがあり,羽田経由で成田に行くことになりました。ポートは医療器具でそれを埋め込んだまま飛行機に乗ることについて医者の許可書のようなものが必要だとういこと主治医に頼んでいたのが,千歳空港に着いてからそれがないことが分かり,結局成田直行便には乗れなかったのです。

夕方の出発だったので,それまでに空港の休憩室のようなところで点滴。終わるのに3時間くらいかかるので,その間,私と娘は空港内で時間をつぶしたり,点滴が終わったキンバリーの車椅子を押しながら,カメラを買ったりしました。

娘はキンバリーが亡くなるまで,脳転移が,余命2週間から2ヶ月だということを知らずにいました。
それが,あとで娘に辛いを思いをさせることになるのですが・・・

これから,1年前の日々が,痛みを伴ってよみがえって来るのは辛いです。
日本にいたなら,私の両親や弟家族などとの最後の日々を共有することができたでしょうが,アメリカでは僕と娘だけが,私の家族としてキンバリーの最後の日々に向かいあっているという感じで,正直,とても孤独でした。いろんなことがありました。まだ整理しきれないという感じです。


今日から1泊で,娘は中学校の宿泊学習で小樽の方に行っています。
久しぶりに一人です。
どんなことをしてもキンバリーを抱きしめることは二度とできないんだということが,1年の時間が経過するなかで,むしろだんだんと重く感じるようになっているこの頃です。

GARTH BROOKS   SEVENS を聴きながら