2011年6月29日水曜日

友人 friend と 知人 acquaintance

今朝の朝食時の彩との会話でした。
彩 「学校で,お父さんとけんかしちゃった,たいした理由はないんだけど,最近いろいろあっていら   
 ついてたからかな・・・というようなこと彩は友達につい話しちゃう。」
私 「でも,友達はそういう話しないだろ?」
彩 「うん,日本にはそういう習慣ないからね」

彩が「習慣」という言葉を使ったのは,自分の知っているアメリカの家族の普段の会話や学校での友達との会話が日本とはかなり違うということを知ってのことでした。アメリカでは,友達どうしでお互いの家族のことを,何のことはない日常であったことなどを気軽に話したりするのは普通のことですが,日本ではそういう「習慣」はあまりありません。

会話は続きました。
私 「よく欧米は個人主義で日本は集団主義っていうけど,どう思う?」
彩 「要するに世間というか社会の中では日本は集団主義で,個人的をことになると秘密主義って  
 いうか・・・」
私 「アメリカだと,ある程度親しくなると,お互いの家庭のこととかかなり何でも話すようになるけ 
 ど,日本は「プライベート」なことには立ち入らないなんて感じで,表面的なつきあいで終わってい  
 ることが多いよね。」
彩 「ちょっと極端な話だけど,クラスメートに父親がいるのかどうかも知らないからね。でもそういう 
 社会なんだから仕方ないんじゃない・・・」


今回のタイトルは,このことと関係があります。
キンバリーは「札幌にはacquaintanceはいるけどfriendはいない」と言っていたことがありました。
「友達」という言葉の持つ意味,深さというものが日本とアメリカとではずいぶん違うと違うと感じます。日本で「友達」と言っても,アメリカ的にはacquaintance というべき関係が多いと感じます。
キンバリーは,乳ガンと向き合う生活の中で,そんな風に感じて,寂しくなってアメリカに帰りたいと思うようになっていたのでした。
こう書いてしまうと,キンバリーを慕っていた人たちの気持ちを害することになるかもしれませんが・・・

大分前のブログで日本はテレパシー社会だと書いたことがあります。それと同じことです。
「プライバシー」の意味が日本とアメリカでは全く違うと思います。学校でクラスメートの自宅の電話番号を外部に知られないように秘密にするために,クラスメート同士でも分からないようにするのが日本の「プライバシー」です。

こんなたとえはどうでしょうか。
それぞれの人間がもっている個人的な世界が「プライバシー」という名前の球体としてあるとします。その中身は自分の名前・生年月日・職業・趣味・世界観その他たくさんのものが入っています。
球体の表面から中心の核に向かって,まず名前などのどちからというと表面的なプライバシーから始まり,中心に向かって,だんだんとその人の尊厳(ちょっと難しいですが,絶対に人には譲れない侵すことを許さないその人の本質的なものとでもいいますか)という核に向かってその内容が濃くなっていきます。「プライバシー」といってもいくつもの「レベル」があります。

日本の「プライバシー」はこの表面が境界線のようなものです。そこを超えて立ち入ると「プライバシー侵害」です(あえて極端に言います)
(僕の知っている限りでの)アメリカでは当然のことながら表面を超えてかなり深いところまで立ち入ることになっても「プライバシー」を侵害したとは受け取られません。残念ながら,日本人とアメリカ人の方が,知り合って間もない段階でも「温かさ」を感じることが少なくありません。それは「プライバシー」というものに対する考え方が全く違うからではないかと思っています。

「文化の違い」という声が聞こえてくるような気がしますが,そういう紋切り型の常套句ではすまないものがあると僕は思っています。

ジェームズ・テイラーやキャロル・キングの歌にyou’ve got a friend  という名曲があります。
「君の友達」と日本の題名がついていますが,ここで歌われている friend という言葉の持つ意味は,日本人が普通に考えている「友達」とは相当にその意味が異なっていると思います。

バッハ・ブランデンブルグ協奏曲を聴きながら

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