とうとう11日になってしまいました。
10日の午後,懸念していた発作の痙攣がありました。時間にすると1分もなかったと思いますが,白目をむくようになって身体が動かなくなるということが,ベッドの上で起きました。それを見たときのショックと非現実感の混じった感覚は忘れられません。
それでも10日は一緒に歩くこともできました。
そして11日。昼ころ,キンバリーは何とか一人でトイレに行こうとしました。僕が支えてトイレに入ったところで発作が起きました。床に崩れ落ちて(僕が支えていたのでゆっくりと静かに倒れ込むという感じでした),前日より長く2分くらいじっと動かなくなりました。義妹がスポイトで発作を抑える薬をキンバリーの口から流し込みました。気がついたキンバリーをベッドに運びました。
発作が起きたことを本人は全く覚えていません。
本人に伝えることを決意して,僕が伝えました。半信半疑な表情のキンバリー。
キンバリーのように脳髄膜炎となった場合に,どのような治療するかしないのかの考えは日本とアメリカで全く異なります。アメリカに来てから,ホスピスから医者や看護士が来てくれていました。キンバリーのように保険に入っていない場合に,無料で派遣してくれる組織があって,そこから来てくれたのでした。さすがアメリカだなあと思いました。
しかし,栄養の点滴や脱水症状防止の生理食塩水の点滴など日本なら最低限するはずのことがアメリカでは一切されないのでした。どうしても納得できなくて,僕と議論になりました。
11日,どうしても点滴をしてくれと主張して,生理食塩水の点滴だけはするということになりました。
病院に行き,午後4時過ぎから点滴になりました。車イスで病院内を移動するとき顔なじみの看護士と笑いながらあいさつするキンバリー。自分がどんな状態にあるのか十分知りながら,明るさを全く失わずにいたキンバリー。
10日と11日の2回,二人きりでいるときキンバリーは「猛,死ぬのは何にも怖くないよ。なんにも後悔していないよ」と言っていました。
点滴が終わり,アイスクリームを食べようということになり,何度も行ったことのある「ベンアンドジェリー」に行くことにしました。いろいろな店が道路沿いに並んでいる商店街で,車を停めたのは,小さなスポーツ店の前でした。キンバリーが「猛,そこでゴルフのクラブを買って練習したらいいんじゃない。店の人に聞いたら誰か一緒にゴルフできる人見つかると思うよ。」と言ってくれました。「キンバリーがよくなったらそうするね」と言いながら車を降り,車椅子の彼女をおしてベンアンドジェリーに入りました。自分で車椅子を動かしながら,アイスクリームを選んでいたキンバリー。彩・義妹のスーそしてキンバリーがアイスクリームを手に持ってポーズをとっているところを携帯で撮影しました。それが亡くなる前の最後のキンバリーの写真になりました。
店を出て,20メートルくらい先の車に戻る途中,美容室から男性が出てきました。昔から知っている美容師の男性でした。キンバリーと久しぶりらしく,言葉を交わして,ハグをして・・・
家に戻り,ベッドに入ったキンバリー。
そして翌朝には目が開かなくなっていたのでした。
ベートーヴェンの最後のピアノソナタ 作品110 Piotr Anderszewski(ピアノ)を聴きながら
先日いらしてくれた時にブログ書いてるから〜とおっしゃっていたので
返信削除覗いてみました。キンバリーさんのこと想い出しながらずーっとさかのぼって
読ませてもらいました。主人へいただいたのメールで大変なことはわかっていたつもりでしたが、改めて粟生さんとキンバリーさんの想いの深さにふれ、今
キンバリーさんがここにいないことが残念でなりません。いろいろな人との
永久の別れがありますが日本とアメリカとの距離があったので身近にキンバリーさんの事を話せる人が少ないのはさびしいですね。西尾サロンでのこと、うちのコンサートの時のこと、キンバリーさんが店の外が気持ち良いと、二人で西日を見ながら座っていた後ろ姿が想い出されます。16日の命日は一人で
…と言っていたのでせめてキンバリーさんに小さなお花を供えてもらえたらとおもっています。ご面倒でも都合の良い日時とお届け先をお知らせください。