2012年5月29日火曜日

理解できないこと再び

先程,ある弁護士から電話がありました。私の出身高校の後輩らしく,今年の同窓会の会報に事務所の広告を例年通り載せてもらえないかという要件でした。例年どおりでいいと答えました。

電話を切ったあと,思いました。この弁護士は直接キンバリーと面識はなかったが,僕とは会えばことばを交わすこともあったけれど,キンバリーのことで生前も亡くなったあとも一切のことばもなにもなかったのに,よくこういう要件で電話することができるもんだなあ。

僕だったらこんな頼みごとを平然とすることはできません。
こういうことができる人たちが札幌弁護士会にはたくさんいるようです。

2012年5月8日火曜日

最近読んだ本

①夢よりも深い覚醒へ-3.11後の哲学  大澤 真幸 著 (岩波新書)
②人間と国家 上・下   坂本 義和 著  (岩波新書)
③世界史の構造  柄谷 行人 著  (岩波書店)
④政治と思想 1960-2011   柄谷 行人 著 (平凡社ライブラリー)
⑤Mourning Diary   ロラン・バルト 著

並行読書の本がほぼ同じ時期に終点に来て,立て続けに読み終わることになりました。
①は今回の大震災と福島原発の最悪の事態から,我々が未来の他者である子孫たちにどんな倫理的責任とを果たさなければならないかについて深く深く考察した本で,再読して読み込みもさらに深くしなければと思わせる一冊。未来の他者に対する倫理的責任という観念については,④においても触れられているところで,ドイツの哲学者カントの思想がいかに重要なものであったかについても教えてくれます。③は「交換形態」の観点から世界の歴史,これからの世界の行方について分析し進むべき道を示唆する一冊。柄谷氏は大学時代からずっと読み続けている思想家で,わざわざ彼の話を聴きに東京の神田まで行ったのはもう4年くらい前のことでした。これも再読必至。マルクスをしっかりと読むことの必要性を痛感させられました。
②は平和について一貫して考察し実践行動を続けてきた政治学者の自伝。大学時代,大江健三郎が坂本氏の本の帯に推薦のことばを書いていたことから何冊か読んではいたのですが,しばらく遠ざかっていました。戦前の中国で過ごした幼少年時代の経験が,その後の彼の生き方に深く影響しているところは,大好きな作家J・G バラードの経験と重なって,とても興味深いものでした。

⑤最愛の母親を亡くしたバルトの彼女を追想することばに何度打たれたか分かりません。キンバリーへの僕の想いがそのままことばになっているのがいくつもありました。この本はもともとはフランス語で書かれているのを,英語に翻訳されたものです。みすず書房から翻訳が出ていて,そちらはフランス語の原書からの翻訳。その翻訳を見てみると,英語の文章と微妙にニュアンスが違うようなところがときどきありました。翻訳の難しさと問題点があるように思います。

1904年6月16日のダブリンの一日を描いたジェムス・ジョイスのユリシーズはようやく350頁に達しました。まだ半分くらいです。全部で18章あるうちの第13章に入ったところですが,その前の文体と全く違う書き方で,ジョイスの才能の凄さを感じます。翻訳も参考にしていますが,信頼している柳瀬尚紀の翻訳がこれ以降まだ出ていません。丸谷才一他の翻訳を参考にしていますが,柳瀬氏の見事な日本語訳で早く読みたいものです。

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第1番  ガルネリ弦楽四重奏団   を聴きながら

2012年5月5日土曜日

2010年子どもの日

子どもの日が来ると,2年前のことを思い出します。
アイフォンのビデオにキンバリーと彩が映っています。中庭のデッキにテーブルを出して,中一になった彩の世界地理の勉強をキンバリーが手伝っている姿が映っています。世界の国の名前を彩が言って,それが合っているかどうかをキンバリーがチェックしている姿。まだのんびりした感じが漂うGWの一日という感じです。庭に1本あるエゾ桜はまだ開花していません。
そののんびりした日もそれが最後でした。次第に頭痛が酷くなってきて,入院・退院をして,検査の結果,乳ガンが脳に転移していることが分かったのが27日。脳内圧を下げる点滴が劇的に効果があって頭痛から開放されて29~31日の3日間,たくさんの友人たちがお見舞いに来てくれて,明るく会話したりしながら過ごし,6月1日の朝,最後のアメリカ行きに向けて旅立ったのでした。

頭痛に苦しんで,動けないほど辛い思いをしていた彼女のことが忘れられません。脳転移の可能性を恐れながら,あまりに辛いので,夜,近くのドラッグストアに市販の頭痛薬を買いに車を飛ばし,それで頭痛が少し楽になったので,脳転移ではないよね・・・と言い合った夜。今思い返すと,なぜ,頭痛の訴えを聞きながら,もっと早くに検査をしなかった主治医の対応が納得行きません。
脳に転移すれば,もうそう長くはないということは分かります。でも,もっと早く分かれば,あの頭痛の苦しみをあんなに長く耐えなければならないことはなかったはずです。他にも主治医の対応には許せないことがあります。

そんなことをいくら考えてもどうしようもないことは分かっていますが,今日はどうしようもありません。

昨日からU2というロックバンドの2008年のシカゴでのライブのDVDを観ています。大好きなバンドです。何年か忘れましたが,BBキングとのジョイントライヴを東京ドームで聴いたことがあります。
彼らのONEという曲があります。この曲をCDで聴いたとき,涙が止まりませんでした。
そしてこのライヴの中で彼らがこの曲を演奏するのを観て聴きながら,また涙が止まりませんでした。
その歌詞の内容に感じるのと同じくらいに,リードヴォーカルのボノの声そのものに僕の中の深い部分が共鳴して感動してしまうようです。この曲を聴きながら,キンバリーのことが愛しくて愛しくて,
 逢いたくて逢いたくてたまらなくなっていました。

2012年5月2日水曜日

豊平峡温泉

昨日,ゴルフの帰り,豊平峡温泉に行って来ました。
ようやく行くことができたという感じでした。というのは,キンバリーがとてもお気に入りの温泉で,友人たちと行っていたからです。カレーが美味しいとも言っていました。一度誘われたのに,都合が悪かったのかそのときは行く気がしなかったのか,結局,一緒に行くことはありませんでした。
行ってみて,ちょっと独特の雰囲気の温泉で,キンバリーが好きそうなところだなと分かりました。入って行って,チケットを買って,休憩所や食堂を見ながらお風呂に向いながら,キンバリーがこれと同じ風景を見ていたんだなあと思いながら,胸がいっぱいになっていました。
きっと,友達とワイワイ言いながら,キンバリーの笑い声が響いていたんだと思います。そんな彼女がもういないんだということが信じられない気持ちで,悲しくてたまりませんでした。

帰り道,夜景の灯を見ながら,何だかキンバリーが家で待っているような感覚に襲われてしまいました。そして次の瞬間,そんなことは永遠にあり得ないんだということを思い知らされて,体中の力が抜けてしまいしました。

帰宅して,大きな声で「ただいま」と言ってみました。シーンと静まり返ったまま。ロウソクに火をつけて,キンバリーに語りかけました。

5月になると2年前,彼女が亡くなる年のことを思い出します。5日に彩の地理の勉強を手伝っているキンバリーの姿がビデオに残っています。まさか,そのあと,脳転移が判明して6月1日にアメリカに最後の旅立ちをすることになるなんて夢にも思っていませんでした。
あの日々が甦ってきます。

2012年4月25日水曜日

2012年3月25日日曜日

すべてはキンバリーの思い出につながる道・・・

先日,久しぶりにJamaica に行ってきました。といっても,カリブ海にあるあのJamaicaではなく,狸小路5丁目にあるジャズ喫茶・バーのことです。今はなくなった札幌東映の地下にあった頃,高校3年だった頃に初めて行ってから,もう35年くらい通っていることになる,札幌のいや日本でも屈指の歴史を誇るジャズの店です。JBLパラゴンがこのJamaicaほど素晴らしい音で鳴っているところはないのではないかと思います。20年少し前に今の場所に移ってからも,美味しいお酒を飲みながら聴くジャズは格別で,
毎日のように行っていたものです。
キンバリーの病気治癒祈願で酒を完全にやめて4年になり,もはや酒を飲みたいという気持ちは深い井戸の中に沈めてしまってからは,Jamaicaに行く回数はぐっと減りましたが,コーヒーやノンアルコールビールでジャズを聴きにたまに行っています。

キンバリーとも何度も行ったことがあります。初めて出逢った1995年の4月8日からニューヨークに旅立った22日までの間にも,彼女を連れて行きました。そのとき,店にあったノートの切れ端に書いてくれた,
いわば初めてのラヴレターが,今も大切な宝としてしまってあります。
娘の彩が生まれてからは,まだ生後数カ月の彩も一緒に行って,ジャズの洗礼を受けさせました(笑)

そんなJamaicaに先日行ったとき,長年つきあいのある常連さんが来ていました。
彼がウェイトレスの女性と話をしているのが聴こえてきました。
「最後の晩餐になったとき,何を食べたい?」という,よくある他愛のない会話でした。

その会話が耳に入ったとき,キンバリーが人生最後に口にしたアイスクリームのこと,2010年6月11日の夜8時過ぎに昔から行っていたベン・アンド・ジェリーのアイスクリーム店で,車イスを自分で動かしながら選んでいたキンバリー,携帯に写真が一枚だけ残っている,キンバリーと彩と妹スーがアイスクリームのスプーンを持って,ポーズを取っている姿,その帰り,近くの美容室から偶然出てて来た知り合いの美容師とハグをして笑顔を交わしていたキンバリー・・・あの日のことが頭のなかいっぱいに広がって来て,涙がこぼれそうになりました。その翌日の朝,もうキンバリーの目は開きませんでした・・・あれが最後に口にするものになるとは夢にも思っていませんでした,僕もキンバリーも彩も・・・・

街を歩いていて目にした風景,友達との会話の中に出てきた店の名前・・・ちょっとしたことから,忘れていたキンバリーとの思い出が鮮やかに浮かんできてしまい,うろたえるということが本当にしょっちゅう起きています。
そして,その思い出の主人公がもういないという厳然たる事実に打ちのめされるのです。

ドメニコ・スカルラッティ/ピアノソナタ    イーヴォ・ポゴレリチ(p ) を聴きながら

2012年3月12日月曜日

高峰秀子「わたしの渡世日記」

新潮文庫の上・下2巻の「わたしの渡世日記」を読み終わりました。
凄い人生を生きたんだなあ・・・と読み終わってしばらくぼんやりとした感覚でした。
1924(大正13)年函館生まれの彼女がこれを書いたのは昭和50年のことで,そのときまでのことしか触れられていないわけですが,その後の彼女の生き方に触れることができるような文章を読みたいと思います。

一本のきっちりとした筋が通った人生を貫いた人だと思います。

スター女優だったから可能だったのでしょうが,谷崎潤一郎・梅原龍三郎など錚々たる人たちとの交流のエピソードも豊富で,黒澤明が助監督時代の恋愛など,興味の尽きない話題もたくさんで,珍しく?わりと一気読みに近い形で読み終わりました。

印象に残ったところを一つだけ。
敗戦直後,現在の東京宝塚劇場はアメリカ進駐軍専用の娯楽施設として接収され,「アーニー・  
パイル」と呼ばれていた。アーニー・パイルはアメリカ軍属の新聞記者で,沖縄に上陸し,彼我の大
激戦の最中に戦死した。どこのだれが東宝劇場を「アーニー・パイル」と命名したかは知らないけれ
ど,沖縄で死んだアーニー・パイルの話を日系のアメリカ人から聞いたとき,私はふっとアメリカ人
の中にある,優しさ,率直さをみたような気がした。日本には人の名前のついた劇場などひとつもな 
い。

ここを読んだとき,僕は彼女のものの見方・人の見方は絶対に信用できると思いました。
こういう感性を持った人が好きです。彼女のいうとおりだと思います。
一人一人の人間に向けた暖かい眼差しを持っているアメリカ人と,えてして,世間とかそういう個人を埋没させるものにむしろ気をつかってしまう日本人との違いを,彼女はこんなことからも見抜いたのだと思います。

彼女の唯一の小津安二郎監督作品「宗方姉妹」を小津安二郎監督全集で探したけどないので,おかしいなと思っていたら,この映画は小津監督の殆どの作品を撮った松竹ではなく,新東宝で撮影したものなので入っていないのでした。アマゾンで購入しました。

生前にもっと彼女のことに関心を持っていたかったと思っています。

ボブ・ディラン フリー・ホイーリングを聴きながら