2012年2月28日火曜日

理解できないこと(再び)

今年来た年賀状のことです。札幌のある弁護士からの年賀状に手書きで彼の息子さんが学校でどうしているとかそんな近況を書いてありました。僕には理解できないことでした。
この弁護士とはかなり長い面識があり,ある集団訴訟の弁護団で一緒に活動したこともあり,まあそれなりに親しい関係だったと思っています。亡妻とも会ったことがあります。
理解できないのは,この弁護士からは,妻の生前も亡くなった後も,全くなんのことばをかけられたこともなかったからです。そういう状況でありながら,手書きで子どもの近況を書いて来るということが,正直理解できませんでした。

そういう弁護士はたくさんいます。前にも書きましたが,同期の弁護士に限らず,それなりに交流のあった関係で,全く何のことばもないのがたくさんいます。
弁護士会というのは強制加入団体で,弁護士会に所属しないと弁護士としての活動ができないので,札幌でやる以上,所属していなければならないのですが,正直,所属しないで済むのならどんなにいいかと思っています。
同期の弁護士の奥さんたちも理解できない人たちです。亡妻と深い交流はありませんでしたが,一緒に旅行したこともあります。彼女たちからも生前もその後も誰一人としてことばをかけてくれた人はいません。理解できません。

東北大震災のあとに盛んに使われた「絆」ということば。どこにそんなものがあるのか知りません。

これ以上書くのはやめます。
今夜はちょっと精神的にまずいかも。
ではまた。

2012年2月23日木曜日

ボブ・ディランの頭の中~日本語の響き

去年の12月16日のブログに,由紀さおりのことを書きました。日本語のままで歌う彼女の歌にアメリカ人が感動しているということですが,その理由として,外国人の歌手には彼女のようなソフトでメロウな唄い方の人があまりいないこと,そして,日本語の響きが外国人の耳にはとても優しく響くので,それがいわばヒーリング効果を持っているということが言われていたように記憶しています。

日本人には,日本語が外国人にどんな風に聴こえているのかということはなかなか分かりませんよね。僕はフランス語を少し勉強していますが,フランス語はなんだかボソボソと囁くように聴こえ,何となく哲学っぽいような響きを感じます。たまに話をする友人に,ちょっとフランス語で言ってみると,必ず「くすぐったくなる」と言われます。僕の発音のせいかもしれませんが,傾向としてはそんな感じだと思います。これに対してドイツ語は「角張った響き」というか,力強いというかちょっと乱暴なというか,そんな響きを感じることがあります(ドイツ人の方ごめんなさい)。イタリア語は,スペイン語は,ロシア語は,中国語は・・・とそれぞれのことばにはそれぞれの響きがあって,それを聴いた他の言語を母国語としている人に与える印象はそれぞれ違っていて,ことばって面白いなあ・・・と思います。

こんなことを書くのは,最近の洋楽(これって今の時代はとっても古くさい言い方かもしれませんが)の中で,日本語がそのまま使われていることが多くなっているような気がするからです。
ちょっと前に買った,MY CHEMICAL  ROMANCE というアメリカのバンドのDANGER DAYSというCDを聴いていたら,8曲目の中に突然女性の日本語が入って来てしばらく歌というより何かセリフを言っているという感じが続いたあと,何事もなかったように英語の歌に戻るというのがあって,最近,こんな風にいきなり日本語が入ってくる曲が洋楽の中に多いなあと思ったのでした。

思い出すのが,ニューヨークのW HOUSTON St.にあるAngelika Film Centerで観た,ボブ・ディランの映画「MASKED and ANONYMOUS」(邦題 「ボブ・ディランの頭の中」)という映画です。
いつか書いたことのあるニューヨークの大停電のあった2003年8月に観たのですが,冒頭にいきなり真心ブラザーズのMy Back Pages が流れて来て,びっくりしました。そのときは真心ブラザーズのことは全く知らなかったので,ただ日本語の歌がそのまま使われていることに驚いたのですが,監督はどういう意図でこの曲を使ったのか,詳しい人がいたら教えてほしいものです。

と,ここまで書いて止まっていたら,先日,NHKのクローズアップ現代で由紀さおりの海外でのヒットの分析のような番組をやっていました。日本語で詩を書いているアメリカ人のアーサー・ビナードがゲストで出ていたけど,アンカーの國谷さんとちょっと噛み合っていないように感じました。國谷さんは日本語の音としての響きを外国人がどう感じるのかという視点から訊きたかったのに, アーサーはことばの向こう側にある意味は普遍的なものがあってそれが伝わるんだということを言っていて,
僕の印象では國谷さんはちょっとやりづらかったように見えました。

これも書いたことがあったと思いますが,キンバリーはボストンの大学で,ロシア語を勉強したいと思っていたのが,その年度にはロシア語クラスがなくて,日本語にしたのでした。「ロシア語の響きがとても感情がこもっていてカッコイイ,素敵だと思った。」と言っていました。
じゃあ日本語はキンバリーにどんな風に聴こえていたのか・・・聞きそびれていたことに気がつきました・・・

意識のなくなる前日の6 月11日,キンバリーは「たけし,死ぬのはなんにも恐くないよ。何も後悔していないよ。」と言っていました。日本語でした。彼女は日本語を愛していたと信じています。

2012年2月16日木曜日

1970年6月16日~ルイ・アラゴン

昨夜11時過ぎ。モレスキンのノートに日記(のようなもの)を書き終わったとき,「そういえば,水曜日の夜だからNHKのフランス語講座をやってるな。ちょっと見てみようか。」ということで,テレビのスイッチを入れました。
僕はフランス語も好きで,最近はさぼり気味ですが,リンガフォンのCDを聴いたり,ラジオ講座を自動的に録音するラジオをセットしてときどき聴いたりしています。そういえば,ボヴァリー夫人を英訳を参考にしながら仏語の原書を読むという課題が挫折したままです・・・
大学の第二外国語にフランス語を選択し,1年の最後の試験をボイコットして2年のときに「落ちこぼれたち」の集められたクラスで出会った教師が素晴らしい人で,フランス語文法の基礎をかなりたたき込まれたり・・・その話はいずれまた。

テレビをつけると,おなじみの大好きな講師國枝孝弘(早稲田の法学部在学中にアテネ・フランセでフランス語を学び始めて,フランスに留学し,今は慶應の教師をやっているという人。ロック好きらしく,一度話がしたい人の一人。数年前,東京の新橋にあるジャズ喫茶に深夜行ったら,3人くらいで何だか熱っぽく話をしているのを見かけたことがあります・・・)と,これもおなじみのパトリス(面白すぎるフランス人講師)の顔が・・・

ちょうど「今月のテーマ」のところで,L'amour sans forme  愛 それぞれの形ということで,
Louis ARAGON ルイ・アラゴンのことが紹介されました。
シュルレアリスム運動の創始者の一人で,第二次世界大戦時にはレジスタンスとして活動した詩人。
かなり複雑な不幸な生い立ちで,自殺未遂をしたりしたあとで,生涯の伴侶となるエルザ・トリオレと出逢います。1928年のこと。パリの南西にある小さな町,サンタルヌーアンイヴリンの水車小屋を改築した家に暮らし,そこでおよそ20年をともに過ごしたそうです。

そのエルザが亡くなり,その12年後にアラゴンも亡くなるのですが,エルザの亡くなったのが
1970年6 月16日なのです。   キンバリーと同じ日,キンバリーの40年前の同じ日に亡くなったのです。そして,これが感動なのですが,アラゴンは家にかかっていた日めくりのカレンダーを6月16日のままずっと自分が亡くなるまでそのままにして生き,今も当時のままで残っているのです。

彼にとって,時間はエルザが旅立ったその日で止まっていたのだと思います。
そのあとの12年間,いったいどんな思いで生きていたのか,彼の伝記などを読みたいと思っています。

Les mains d'Elsa   エルザの手  はこんな詩です。

Donne-moi tes mains pour l'inquietude.
Donne-moi tes mains
dont j'ai tant reve.
Dont j'ai tant reve dans ma solitude.

                                                不安な僕に君の手をさしのべておくれ。
                                                僕があんなにも夢見た,
                                                孤独の中であんなにも夢見た君の手をさしのべておくれ。

ユリシーズの1904年6月16日とともに, エルザが亡くなったこの日も,僕にとっての特別な日として残ることでしょう。

今日はキンバリーの月命日。
彼女がいないということが,まだどうしても納得できません・・・
2年前のあの日から,僕の時間も止まっているような気がします・・・

マリアンヌ・フェイスフルのクルト・ワイルを聴きながら

2012年2月7日火曜日

35年の時を隔てて・・・・ロッドスチュワート,浅川マキ~Sailing

車で運転中は,FMラジオかCDを聴いています。
先日夕方,NHKFMをつけたら, 女性ヴォーカルが流れていました。どこかで聴いたメロディ・・・
ロッド・スチュワートのIt's not the spotlightではないですか。この女性ヴォーカルは誰だろう・・・何だか浅川マキのような・・・と思っているうちに曲が終わり,DJのつのだひろが「それはスポットライトじゃない」浅川マキでした,と紹介。浅川マキがこの曲を歌っていたことは全く知らなかったので驚きました。

この曲はRod Stewart のAtlantic Crossing という1975年発売のアルバムに入っている曲。ちょうど大学に入学した年で,東京練馬区の下宿の4畳の狭い部屋で,よく聴いたアルバムです。ロッドのアルバムの中では一番すきなやつ。ラストに入っているSailingが有名ですが,僕は I don't want to talk about it
が一番好きです。しかし,彼の声は今も昔と殆ど変わっていません,驚きです。

このアルバム,2010年の4月から5月, 頭痛や吐き気が出てきたキンバリーを病院に車で送るときに,
いつもかけていました。だから,このアルバムは35年の時 を超えて,キンバリーとの最後に聴いたアルバムとして永遠に残るものになりました。その日以来,車で移動するときは,殆どこのアルバムをかけています。何度も何度も聴いています。多分,世界中でこのアルバムを一番聴いているのは僕だと思います。聴いていると,助手席にキンバリーを感じます。だんだんと体調が悪くなる日々,どんな気持ちでいたのだろう・・・と思うと,涙が出ます・・・

僕があの世に行くときがきたときには,このアルバムのSailing を流してくれるように彩に伝えてあります。

I am sailing, I am sailing
home again 'cross the sea.
I am sailing, stormy waters,
to be near you, to be free.

I am flying, I am flying,
like a bird 'cross the sky
I am flying , passing high clouds,
to be near you, to be free.

Can you hear me, can you hear me
thro' the dark night, far away,
I am dying, forever trying,
to be with you, who can say.

We are sailing, we are sailing,
home again 'cross the sea.
We are sailing stormy waters,
to be near you, to be free.

キンバリーのところに海を空を超えて旅立つのです・・・