2011年10月28日金曜日

二つのアップル~ポール・マッカートニー,リンダ, スティーヴ・ジョブズ

 アップルといえば,先日亡くなったスティーヴ・ジョブズのアップルコンピューターのことを思い浮かべると思いますが,僕が中・高生の頃(1969~74)はビートルズが自分たちで作った会社のことでした。ジョブズはビートルズが大好きで,それでアップルのロゴを,ちょっとだけ齧ったリンゴのデザインにしたということです。

彼が亡くなったことを知らされたとき,涙ぐんでしまいました。
アップルのパソコンはキンバリーが愛用していたし,ブログにも書きましたが,札幌のアップルストアに通ってホームページの作り方などを教えてもらっていたキンバリーが亡くなったことを知った担当者が涙を流してくれたことetcが関係していたのだと思います。結婚してから,毎年,実家やニューヨークのリサのところに行っていましたが,キンバリーはいつもアップルのパソコンを持って行っていました。
彼女の残して行ったパソコンの中に入っているたくさんの写真を,iPad2に入れて時々見ています。

スティーヴはがんであることが分かったあと,手術や化学治療は行わず,マクロビオテックの食事療法をしたようですが,そのことを後悔していたと記事で読みました。
キンバリーも手術後の抗ガン剤治療が終わったあとは,骨転移があった以降も,抗ガン剤治療はせずに,いわゆる代替療法をしていたのですが,彼女のがんの進行を止めることはできませんでした。キンバリーは抗ガン剤治療によって,日常生活に不都合な体調となり,かえって余命を短くしてしまう結果となってしまうことを避けたいと考えていました。2008年は「びっくり部屋」のクラスも再開することができましたが,厳しい抗ガン剤治療をしていたらそれもできなかったかもしれません。子どもたちと過ごす時間がとても好きだったキンバリーの選択でした。
キンバリーの母親は,かなりきつい抗ガン剤治療を勧めてきたのですが,キンバリーはそれはやらないと決めました。そのことに後悔はなかったのは,亡くなる直前のことばから分かります。

最近,ポールのアルバムを聴くことが多くなっています。
彼の初ソロアルバム「マッカートニー」はビートルズが解散した1970年4月に発売されましたが,僕はこのアルバムはあまり聴いていませんでした。というか,このアルバムを購入したのは,つい最近の2枚組デラックスバージョンが出たときです。そのジャケットを開いてドキッとしました。ポールの亡くなった妻リンダの写真がありました。
リンダは1995年(僕たちの出逢った年です)に乳ガンが分かり,手術をしたのですが,97年に再発し,98年4月17日に亡くなったのでした。57歳でした。発見されてから約3年。キンバリーと同じです。

キンバリーと,リンダは乳ガンで亡くなったんだね,という話をしたときのことが忘れられません。
彼女は「やっぱり私も助からないねきっと・・・・」と言って,しばらくことばがでませんでした。ポールの妻であり,どんなに費用のかかる治療でもできたはずのリンダが乳ガンには勝てなかったという事実には,かなりのショックを受けたと思います。でも,そのあとも自然体で生活していたキンバリーの精神力は本当にすごいと思います。

Kimberly, I miss you so much.

McCartney  を聴きながら

2011年10月27日木曜日

風になびくリオ・ブラボー~1995夏 イン・ニューヨーク

朝日新聞の土曜日朝刊に入ってくる「be」に「サザエさんをさがして」という連載があります。
サザエさんの漫画を一つ取り上げて,それにまつわる時代背景やいろいろなエピソードが紹介される読み物で,とても面白いので愛読しています。単行本にもなっていて,既に4冊?ほど出ています。

その中に,夏休みに田舎に帰省していたワカメが,学校の校庭の映画会に行くというものがあります。
そこから僕の中に,1995年のニューヨークの夏が甦ってきます。

1995年4月8日に出逢ったキンバリーが4月22日にニューヨークに旅立ったあと,6月下旬に僕がニューヨークに彼女に逢いに行き,JFKで赤いバラ1本を手にキンバリーが迎えてくれました。
緑あふれるニューイングランドをドライヴ(イーグルスが一緒),そして結婚することにお互いの気持ちを確かめあって,ニューヨークに戻ってきました。
当時は,1ドルが85円くらいの円高で(最近の75円というのは本当に凄い円高です),ちょっとリッチな気分だったのと,二人の時間をゆっくり持ちたいので,セントラルパークの南にあった「プラザホテル」に泊まることにしました。今はホテルの営業はやめてしまいましたが,そこで演奏されたマイルス・デイビスのライヴがアルバムになっている,高級ホテルでした。7月11日の僕の誕生日に日本食の朝食をキンバリーがプレゼントしてくれたホテルです。

タイムズ・スクエアから東にほんの少し行ったところの市立図書館の脇に,ブライアント・パークという大きな公園があります。冬にはスケートリンクが作られて,無料で楽しむことができます。まだキンバリーが元気だったときの家族3人でスケートを楽しんだときの写真が残っています。

その公園で,無料野外映画会が開かれ,キンバリーと一緒に「リオ・ブラボー」を観たのでした。ハワード・ホークス監督ジョン・ウェイン,ディーン・マーチン主演の大好きな映画です。
ニューヨークの生暖かい風がただよう夜に,張られた大きなスクリーンに浮かび上がるジョン・ウェインの顔が,時折吹いてくる風に揺らめくスクリーンの上でゆがんでいたのを思い出します。折り畳みイスに座って,手をつないで一緒に観ました。

この「風にゆらめくスクリーン」というのが,とても風情があっていいのです。
ニューヨークの夜に,ゆらめくスクリーンで観る映画,ちょっとレトロな感じで,音響もあまり良くなくて,セリフが良く聞き取れないのも気になりません。忘れられない,キンバリーとの思い出です。

この野外映画会は,最近も行われています。
ただ,とても残念なのは,風になびくスクリーンではなく,ハイテクスクリーンという感じで,大きなディスプレイがド~ンと設置されていて,もう風にゆがんだジョン・ウェインの顔を観ることはできません。
確かに,画面は良く見えるし,音響も良い。でも,あの夏のなんともゆったりとした感覚は,このハイテクスクリーンでは味わえません。たった16年前 のことなのに「古き良き時代」という感じです。

最近,キンバリーがたくさん夢に出てくるようになっています。
朝目が覚めると,iPhoneに入っている彼女のビデオを見るのが習慣のようになっています。


Miles  Davis  LIVE AT THE ORIENTAL THEATRE  1966.5.21     を聴きながら

2011年10月17日月曜日

ビートルズ回帰現象(つづき)

最近ビートルズが帰ってきていることについて少し前に書きました。
つい先日も,リマスターのステレオ盤の方で,デビューアルバム Please Please Meを,ボリュームを
上げて一気に聴きました。といっても,聴き終わるのに32分くらいしかかかりません。14曲でこの時間ですから,1曲だいたい2分程度の曲です。しかし,曲の長さはその質とは無関係であることがビートルズを聴くとよく分かります。
このアルバムはたった1日で殆どの曲を,スタジオライヴで収録したものですが,聴き終わって, ビートルズはなんて凄いライヴバンドだったんだろう,とひれ伏してしまいました。ビートルズは演奏が下手だったという俗説があるのですが,それが全くの事実無根であることがよ~く分かります。

どうしてビートルズが帰ってきたのか考えてみました。
ビートルズは,キンバリーに出逢う前に僕が夢中になっていた存在であることが関係しているのかもしれないと思いました。彼女と出逢ったあとのものたち,ことたちに触れると,彼女のことを思い出して,
ただただ悲しくなるばかりなので,キンバリーの思い出がしみついていない時代の,自分にとってかけがえのない存在だったビートルズに戻ることで,少しでも悲しみの色のついていないそれなりに幸せだった時代を再体験しようとしているのかもしれません。

ただのノスタルジックな再体験ではないところが,ビートルズの凄さです。リマスターされた音を,これまでのビートルズ研究の成果が盛り込まれた,全アルバムの一曲ごとが解説された本を手元に置いて聴くことで発見される今まで知らなかった,聴こえていなかった音に出逢えるという「新しい体験」でもあるのです。聞くところによると,アンソロジーシリーズのリマスターがネットでダウンロードできるということです。早くCD化されてほしいと思っています。

でも,結局は,「キンバリーと一緒に聴きたかったなあ・・・」となってしまうのですが・・・

ベートーヴェン 交響曲第7番  小沢征爾 指揮  サイトウ・キネン・オーケストラ を聴きながら

(追記)

前回のブログで藤沢周平さんの奥様が亡くなられたことが抜けていたため,誤解を招いたと思います。お詫びして訂正します。

2011年10月13日木曜日

ZUTTO~ずっと

朝日新聞の土曜日朝刊に入ってくる「be」に連載されていた「愛の旅人」をまとめた本が出ています。
連載されていたときも愛読していましたが,本にまとまってから読み直しています。とても素敵な内容でオススメです。3冊出ていますが,1冊めには漱石・獅子文六などが取り上げられています。
本の帯のコピーは

二人の愛を探しに行きませんか。語り継がれる名作に描かれた,愛のかたち。文人才人たちが生きた,一途な愛のおもい。古今東西の,さまざまな愛を訪ねる写真紀行。

とあります。
漱石のところでは,彼が熊本の旧制五高の教授をしていたときに,妻の鏡子が入水自殺を図ったエピソードが取り上げられていたり,その作品はあまり読んだことはない藤沢周平が,結婚4年後に長女誕生のわずか8ヶ月後に病死したことを教えられました。

その中に,「海は甦る  山本権兵衛と登喜子」が入っています。
日本海軍育ての親といわれる権兵衛が,貧しい生家のために奉公に出ていた,まだ年季の明け
ていない登喜子を奉公先の茶屋から兵学校の同期生らを指揮して救出するところから描かれて 
います。
権兵衛は当時の軍人としては考えられないフェミニストで,女性は乗船させないことが当たり前
だった当時に,登喜子を軍艦に乗船させ,艦内見学のあと,登喜子の履物を携えて桟橋に下り, 
彼女の前に履物を揃えて置いたというのです。ドイツ留学時代の恩師であるアレクサンダー・フォ
ン・モンツ伯爵の女性を尊重する姿に学んだのがその背景にあるとのこと。
1933(昭和8)年3月登喜子が73歳の誕生日目前に他界し,その年の12月に権兵衛も後を追
うように世を去りました(享年81)。
登喜子の没後,手文庫から巻物が見つかります。結婚を控えた権兵衛が登喜子に贈った7カ 
条の誓約書でした。

その中の一つに  夫婦むつまじく生涯たがいにふわ(不和)を生ぜざる事

とあり,妻登喜子のため,権兵衛は漢字にふりがなをつけてあり,「生涯」の二文字には「いつま
でも」とルビをふってあったということです。感動です。

これを読んだとき,キンバリーが選んだ僕の結婚指輪の裏側に彫られたことばが浮かびました。
それは「Zutto」です。「ずっと一緒に」という気持ちをこめて彼女がこのことばを彫ることを希望
   しました。キンバリーの指輪の方にはどんなことばがいいか考えて,少しだけ悩んで,彼女は「All」
 「 すべてを」ということばを選びました。

       ずっと一緒にいたかった。でもずっと彼女にはもう逢えない。
       二つの指輪は,今,自宅の僕の小さな書斎の書棚に一緒に並んでいます。

     


  

2011年10月7日金曜日

三四郎・めまい

並行読書(現在20冊くらい)の中の2冊である,漱石の「三四郎」とボワロー=ナルスジャックの「めまい」を読み終わりました。
「三四郎」は高校・大学生時代以来の再々読ではないかと思います。こんなに難しいことがいろいろ書いてある小説だったんだあ・・・という感想です。文章もかなり難解なところがあり,中・高生では理解しづらいところもあると思います。でも,面白かった。早速,読み返したいと思いましたが,他の本が待っているので書棚に戻しました。漱石全作品再読プロジェクト(笑)としては次に何を読むか検討中です。漱石は凄い人だとつくづく思います。漱石は岩波書店の全集を揃えてあります。漱石の主要作品で未読なのは「虞美人草」です。これは文体がこりに凝っていて,半分くらいで止まったままになっています。次の作品はこれにするかもしれません。

「めまい」は,ヒッチコックの映画の原作です。パロル舎から出ている,太田浩一氏の翻訳で読んだのですが,これも面白かったですね。ただ,ヒッチコックの方が人間心理が深く描かれていると思いました。高所恐怖症の元警察官という設定は同じですが,ヒロインとの関係の描き方が,ヒッチコックの方が人間心理を実に深く良く理解した表現で,さすがだなと思いました。ヒッチコックは単なるサスペンス映画の巨匠ではありません。人間心理の巨匠というべき存在です。フランスの映画監督であるトリュフォーがヒッチコック本人にその作品創造の秘密についてインタビューしたものをまとめた「映画術」(晶文社)という本は映画を本当に理解したい人にとっての必読書です。

映画の「めまい」は映画館で3回,DVDで2回は観ている大好きな作品です。何回目のときかは忘れましたが,この映画を観ながら泣いたことがあります。ジェームス・スチュワート演じる主人公の,死んだはずの女(実は生きている)と瓜二つの女(実は髪形や髪の色を変えた同一人物)を死んだはずの女そっくりに変えていくときの彼の気持ちがぐぐっと胸に迫って来て,涙が出たのでした。

キンバリーにそのことを話したことがあります。でも,なぜ涙が出るまで感動したのかをうまく説明することが出来なかったことを覚えています。今ならできそうです。でも,彼女はいません・・・

ベートーヴェン  ピアノソナタ「熱情」 ピーター・ゼルキン(p)を聴きながら

2011年10月6日木曜日

禁酒・禁煙

事務所で法律相談をして,相談者が帰った後,のどがイライラし始めました。
相談者の方はかなりのヘビースモーカーのようで,近くに来ただけでタバコの匂いがしたのですが,その方の吐く息からの間接喫煙となったのだと思います。
人前ではタバコを吸わないようにする人はかなり増えていると思いますが,外で一服したあとに話をしたりするときには,その人に息の中に多量の有害物質が存在していて,こちらはそれを吸わされることになっていることについては殆ど意識されていないと思います。

友人の外科医から恐ろしい話を聞きました。その友人の知人である呼吸器科の医師が肺ガンになったのですが,その原因が毎日診療している患者の息に混じっている発癌物質を長期間吸い続けたことにあるというのです。タバコを吸う人は,こういう事実を認識してもらいたいものです。

私は大学時代に3年間くらい吸っていたことがあります。初めてタバコを買ったときのことを良く覚えています。それは大学の入学手続きで東京に行ったときで,歌舞伎町にあるたばこ屋さんでラークを買ったのでした。もう時効ですが,未成年のときに吸ったことになります(珍しいことではないでしょうが)。そのときは,喉につかえて咳き込んで,こんなものどこがいいのか分からず,ごみ箱に捨てました。大学生活の中でタバコに慣れ親しみ,カンピースを持って歩いたりしていました。思い出すと恥ずかしいですね。
タバコをやめるのには少し苦労しました。酒を飲むと吸いたくなって,一緒に飲んでいた友人からもらって吸ってしまうということがよくありました。半年くらいそんなことが続いて,完全にやめました。

酒をやめた理由については既に書いたことがありますが,これは揺り戻しもなくすっぱりとやめることができました。動機の強さが違うということですね。

タバコについては,キンバリーの有名な?逸話があります。
彼女は7才で吸い始め,12才でやめたというのです。かなり脚色されているのではと思いますが,自分でも話のタネとして好きだったようで,ときどきその話をしていました。

タバコはまったく吸いませんでしたが,ワインや日本酒は好きでした。乳ガンが分かる前ですが,アメリカのマサチューセッツの田舎町で見つけたちょっとスモーキーなフレイヴァーの赤ワインが好きで,何本か札幌に持ってきて,一緒に飲みました。

乳ガンになって,アルコールはガンには悪いということで,キンバリーはお酒はやめました。塩分の取りすぎにも注意し,大好きだったコーヒーもやめて紅茶などを飲むようにしていました。
今,振り返ってみると,もっと好きなものを食べたり飲んだりしていてもよかったのかな・・・とちょっと思ってしまいます。
でも,キンバリー本人は自分のガンへ向かう姿勢については自分で納得してやっていました。
意識がなくなる前日に「死ぬのは何にも怖くないよ。何にも後悔していないよ。」と言っていたとおりです。

iPAD2に入っているキンバリーの写真をときどき見ます。なんて素敵なんだろう・・・と見るたびに思います。そばにいないことが理解できません。

Ludwig Lebrun作曲  オーボエ協奏曲  オーボエ/ハインツ・ホリガー を聴きながら

2011年10月5日水曜日

悲しい知らせがありました

高校1年のときの同級生の女性が乳ガンで亡くなっていたとの知らせが届きました。
子どもさんはいなかったようですが,仲の良かった夫の方の嘆きは大きく深いようです。当然です。
発見が遅く,あっという間に亡くなったとのことです。心からご冥福を祈り,夫の方の悲しみがいつか癒されることを祈るばかりです。

キンバリーとの共通の友人の女性から,今朝メールが来ました。初めて,キンバリーが夢に出てきたということでした。夢の中でキンバリーは家族を失ったことを悲しんでいて,僕と一緒に旅行したときに買ったじゅうたんを大事そうに見せてくれたということです。そして,一人なので家が広すぎて寂しいと言っていて,おなかと胸の手術のあとを見せてくれたという夢だったようです。その方は,キンバリーにとっても,家族をなくしたことになるんだなあ,と感じたということでした。おなかは彩を産んだときの帝王切開の傷跡,胸は乳ガンの手術の跡・・・・

キンバリーの周りには,父親その他の親族,親友のクリスなどがいるはずですが,家族を失った悲しさ・寂しさは同じなんだなあと思いました。

昨日,アマゾンに注文していた本が届きました。
Joan Didion 著 The Year of Magical Thinking  「悲しみにある者」というタイトルで翻訳されていて(
慶応義塾大学出版会),それが新聞の書評で紹介され,その内容が今の自分にとって意味がありそうだと思い,原書を取り寄せました。アマゾンの紹介にはこうあります。

       長年連れ添った夫,ジョン・ダンの突然の死。生死の淵を彷徨う,一人娘,クインターナ。
       一人の女性作家が,夫を亡くした後の一年間と一日を描くノンフィクション。近しい人,愛するひと 
       を 永遠に失った悲しみと,そこから立ち直ろうとする努力についての心の物語。
       いずれ誰かを失うことの意味,他者の死を悼むことの意味を深く問いかける。

      2005年度の全米図書賞を受賞し,累計200万部のベストセラーになっているとのことです。

このようなテーマが目について,手にとって何か共鳴するようなものを感じた本はつい購入してしまいます。読んで少しでも何か前に進むための力のようなものを得られないかと思ってしまいます。
まだ,目に見える効果?は現れてきませんが・・・

VEGAS   を聴きながら

2011年10月3日月曜日

ユダヤの新年会

昨日,ダイアンの家に札幌在住のユダヤ系の友人たちが集まって,新年会がありました。
キンバリーの親友ダイアンの家族,日本人女性と結婚している飲食店・地ビール販売をしているFさん夫婦,同じく日本人女性と結婚して英会話教室などをやっているAさん夫婦と娘さんが集まりまた。
ダイアンの家で2009年の12月にハヌカのお祝いをしたのが,キンバリーと一緒の最後のユダヤの行事になりました。ユダヤにまつわる手料理を持ち寄って食事をするのですが,今回は彩が鶏肉にマーマレードにいくつかのハーブやスパイスを混ぜたドレッシングを塗ってオーブンで焼いた料理を作りました。とても美味しくて好評でした。

ユダヤの新年は,天地創造から数えるユダヤ暦に基づくもので,今年は9月28日の日没から新年になったということになります。5772年目に当たるということです。
シャナー・トヴァー(良い年であるように)という挨拶があって,リンゴに蜂蜜を浸して食べます。「甘い良い年でありますように」ということです。

年に何回か,ユダヤ系の友人たちと集まるのが恒例になっていました。
いつものメンバーの中に,キンバリーだけがいないことが不思議でなりませんでした。
今にも,どこかから「ハーイ」と言って,あの笑顔と一緒に現れるような気がして仕方ありませんでした。