2010年12月8日水曜日

12月8日

今日は真珠湾攻撃の日ですが,僕にとってはジョン・レノンが暗殺された日として永遠に記憶に残っている日です。
そのときあなたは?という質問がされる特別な日というのがあります。アメリカ人であれば,1963年のケネディ大統領暗殺の日がすぐに浮かんでくるでしょう。アランダーショウィッツというハーバード大学教授が書いた「beyond reasonable doubt」というO.J.シンプソン裁判について詳細に分析された本があります。まだ翻訳されていないはずですが,「合理的疑いを超える立証」とはどのようなものかを非常に分かりやすく書いたもので,裁判員裁判が始まっている日本においてもとても参考になる本です。何故翻訳されないのか不思議な本の一冊です。その中で,著者は,O.J.シンプソンの評決が出された日は,ケネディ暗殺と同じように,将来,そのときあなたは何をしていたか?という話題になる日になるだろうと書いていますが,さあどうでしょうか。とにかく,その当時は,無罪評決が全世界に衝撃をもって伝えられたものです。

ジョンが暗殺された日,僕は東京の恵比寿で司法浪人4人で勉強会をしていました。お昼になり,コンビニに弁当か何かを買いに行ったとき,店内にラジオが流れていて「ジョンレノン」という言葉が聞こえました。その当時,長いブランクを終えて音楽に戻り,世界ツアーをするという情報が入っていたので,その話かなと思って良く聴いていると,射殺されたというニュースだということが分かりました。呆然自失とはあのときのことを言うのでしょう。何が起こったのか理解できないまま,勉強会をしていた友人のアパートに戻りました。その後,他の3人は何事もなかったかのように勉強会を続けるのでしたが,僕はとてもそんな気持ちにはなれず,ただぼんやりと時間が経つのを待っていました。そして,ジョンが死んだというのに,こうして平然と勉強会を続けることができる彼らは自分とは全く別の人種なんだな,そういう種類の人間が存在するんだな・・・とあっけにとられるような感覚で彼らを見ていました。

その日の夜不思議なことがありました。どうしてそこにいたのか,今となっては記憶がないのですが,勉強会の後,午後8時過ぎだと思いますが,僕は中野駅のホームに立っていました。その頃の僕のアパートは西武新宿線の上石神井でしたから,何故中野駅にいたのか記憶していません。
とにかく,ジョンが死んだという事実の前で呆然としてホームに立っていると,2本向こうの別のホームに知った顔があるのでした。同じ北海道から東京に来ていた,従妹がこっちを向いて立っているのでした。僕は大声で彼女に呼びかけました。彼女も僕に気がついて,僕は走って彼女のいるホームまで行き,ジョンが殺されたことを教え,中野で彼女とジョンのことを語り合いながら痛飲しました。彼女が何故中野にいたのかも忘れましたが,電車が来るまでの数分の間に,普段は来ることのない場所で出会ったことに,単なる偶然以上のものを感じました。誰かとジョンのことを話したかったので,本当に救われたような気持ちでした。

ジョンは40年の人生でした。
妻は44歳。たった44年です。もっともっといろいろやりたいことがありました。子どもが大好きだった。びっくり部屋をもっともっと開かれた素敵な空間にする計画を持っていました。
どんなに悔しかっただろう・・・心残りだったと思います。
一番の心残りは,まだ12歳(当時)の娘のこと。その成長をずっと見守っていたかった。


ピーター・ガブリエル「スクラッチ・マイ・バック」を聴きながら

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