2011年8月5日金曜日

北大の思い出

今朝6時半頃,ロイ(6歳のフラットコーテッドレトリーバー。オス)と自転車で久しぶりに北大構内を散歩してきました。北大は自宅から歩いて5分の距離にあります。北大にはたくさんの思い出があります。
小学校4年生の新学期に北区北17条西2丁目の木造2階建の家に引っ越してきてから,ずっとここで生活してきました。現在の事務所は,同じ場所に建てたビルの中にあります。
当時(昭和46年。1966年)は,このあたりはまだ道路も舗装されておらず,トラックが通るたびに家が揺れていました。
北大構内の校舎ビルも今よりずっと少なくて,教養学部の校舎があるところ(今は教養学部とは言わないのかもしれませんが)は,グラウンドになっていて,野球の試合を観に行っていました。
構内には壊れたオートバイが無造作に捨てられていたりして,中学3年のとき,友人2人とそのバイクのエンジンをかけ(直結と言っていましたが,キーはないので,配線を直接結んでエンジンをかけるのです),構内を3人乗りで乗り回したりしたことがあります。「パーン」と大きな音がしてタイヤがパンクしてしまいました。

今朝は北大病院のわきにある有名な銀杏並木から構内に入っていきました。北大病院では,2008年1月にアメリカで右乳房全摘出手術をして日本に戻ってから抗ガン剤と放射線治療をしました。抗ガン剤治療が終わるまで娘と一緒にキンバリーのそばにいて,いろんな話をしたりしました。一人で歩いて北大に向かうキンバリーの後ろ姿が目に浮かびます。

北大はキンバリーが姉妹校であるマサチューセッツの大学から交換留学生として勉強していたところ。この留学がなかったら僕たちは出逢っていなかったはずですから,北大は特別な存在になります。

キンバリーは日本語が素晴らしく上手でした。彼女の発音は,電話で聞いたときなどは日本人かと思うくらい自然な日本語でした。2年間アメリカの大学で勉強してからこちらに来たのですが,日常会話は大丈夫だったと言っていました。語学の才能があったと思います。
彼女が日本語を勉強することになったのは偶然でした。キンバリーはロシア文学が好きだったので,ロシア語のコースをとろうと思っていたのですが,その学期にはロシア語コースがなかったので,じゃ日本語にしようか,という感覚で日本語の勉強をしたのです。よく笑い話で,「あのときロシア語コースがあったら,今頃,ロシアで凍えているかもしれない。」と言っていました。

北大の留学期間が終わっても,キンバリーは札幌が好きで,語学学校の教師をしたりしながら3年くらい札幌にいました。もし,留学期間終了とともにアメリカに戻っていたら,僕とは出逢わなかったでしょう。そして,日本での就職希望が叶わず,一旦,ニューヨークの大学院に行こうと決めて,札幌を発つ日のちょうど2週間前に僕と出逢ったのでした。その出逢いのことは書いたことがありますが,あのとき,大通西2丁目のミスタードーナッツの前で,キンバリーが一人で立っていなくて,他の友人たちと一緒にいたとしたら,あんなに強烈な印象を受けることはなかったかもしれません。
いろいろな偶然が積み重なって,僕たちは出逢ったのだと思います。

そんな彼女がいないことの理不尽さに, ときどき耐えられないような気持ちになります。
理不尽なことで埋めつくされているような世の中ですが・・・

キング・クリムゾン  太陽と戦慄  Lark’s Tongues in Aspic  を聴きながら
(原題と全く関係のない邦題がつく典型)

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